第11話 市民感情
「なんだ、この愚にも付かぬ条件は!?」
「濡れ衣を着せられて、おめおめ“詫び賃”を出せとでもいうのか!?」
「子供の使いではないのだぞ!? よくもまあ、こんな条件を飲んだな!」
案の定と言うべきか、議会は大荒れとなった。
ヴェネツィアの評議会は帝国とのいざこざを極力回避すべく、まずはラニエーリを使者として派遣した。
囚われていたエンリコを釈放させた点は良かったものの、交渉でまとまった条件と言うのが受け入れがたいものであった。
「賠償金を払えだの、帝国内の港湾設備の利用料金の値上げだの、どう考えても金の無心にしか聞こえんな!」
「我らの父祖の努力を無駄にする気か!」
「舐められっぱなしではいかんな! やはり開戦だ、開戦! 海の支配者が誰であるのか、帝国に分からせてやるべきでしょう!」
「然り! しかる後、再交渉の場を設けて、逆に連中から
開戦積極派の議員が怪気炎を上げ、議場は嫌な熱気に包まれている。
穏便に解決を図りたい評議員が多いものの、積極派を抑え込めるほどの勢いも、なにより“材料”もない。
ただ一人、エンリコだけは場の空気に流されず、冷静に思考を進めていた。
(眼が見えない分、耳がよく聞こえるな。ああ、感じる、感じるとも。気勢を上げる声の裏で、“恐怖”に打ち震える様がな)
最も高貴な共和国ヴェネツィア。
その歴史はすでに五百年を数えようとしているが、その道は決して平坦だったわけではない。
数々の苦難があり、時に自主独立を脅かされた過去がある。
一つが726年に発せられた“
ビザンツ皇帝レオーン3世によって発せられたこの布告は、当時の宗教界に大混乱をもたらした。
「
布教、説法がやりにくくなると、現場からの声が方々から聞こえたが、当時の皇帝はそれを一顧だにせず、“
旧約聖書の記述に基づく偶像の禁止ではあったが、世情を無視したやり方に反発が強まり、特に西側ではその動きが顕著となった。
その西側の流れの中心にいたのがローマの法王庁であり、東西教会の分裂が決定的になったのもその時だ。
その頃のヴェネツィアは領土的にはビザンツ帝国に属するが、宗教的には地理的な要因もあって西側、ローマ・カソリックの影響が強かった。
このため、“
帝国からの執政官を締め出し、現地民の代表、すなわち“
ビザンツ帝国はこの動きを止めるべく軍を派遣したが、海戦で圧倒的な強さを誇るヴェネツィアには勝てず、結局妥協して半ば独立状態となった。
しかし、これが新たな戦を呼び込む。
宗教的にはローマ・カソリックの影響が大きくなったヴェネツィアでは、徐々に政治的にも西側の支持者が増えていき、政権中枢は親フランク派で占められていった。
これを追従の機運とみなし、フランク王国の大帝シャルルマーニュは息子、イタリア王のピピンに命じ、ヴェネツィアへと触手を伸ばした。
圧倒的な大軍で陸からヴェネツィアを包囲し、臣従を迫るも、そこで思わぬ事態が発生する。
親フランク派で占められていた議会を、ヴェネツィア市民が襲撃し、親フランクの筆頭であった当時の
「我らは栄光のローマ帝国の臣民である!
これが当時のヴェネツィア市民による、フランク王国への事実上の宣戦布告であった。
そこへビザンツ帝国も乱入し、ヴェネツィア、さらに言うとイタリアを巡る東西二大国の激突という大戦争に発展した。
陸戦で圧倒するフランク王国軍に対し、ヴェネツィアを味方につけたビザンツ帝国が海戦を優勢に進め、結局は痛み分けに終わる。
結果、ヴェネツィアはビザンツ帝国の一部ではあるが、大幅な自治独立が認められるという、今なお続く状態に収まった。
なお、この際にビザンツ帝国はフランク側を“フランク帝国”と呼び、古の東西ローマ帝国時代に逆戻りした形となった。
現在ではローマの後継者の地位が、フランク(フランス)王国から神聖ローマ帝国へと移った形となり、今なお東西帝国の対立は解消されていない。
我こそが偉大なる栄光のローマの後継者であると自認し、ローマのあるイタリア半島への野心を隠さないのは、東西帝国の国是でもあるからに他ならない。
(問題なのは、その状況になった“市民感情”を考えねばならない事だ。ヴェネツィア人は独立の気風を何より尊び、同時に“ローマ市民”という誇りも持っている。それに反した
“ローマ”という亡霊に憑りつかれているのは、何も東西帝国だけではない。
イタリアに住まう者、その全てが“ローマ市民”という自負を持っている。
ヴェネツィアと言えども例外ではなく、むしろ“共和制の市民”と言う立場が、正統なるローマの末裔だという考えすらあった。
だからこそ、矜持の根幹を成す“ローマ”を誇ると同時に、恐れもする。
威勢よく吠えている議員にしても、外をうろついている“市民”が怖いのだ。
下手な弱腰姿勢は、市民から糾弾の対象となり、最悪、襲撃や追放の憂き目にあう事になる。
それは漠然とした恐怖ではなく、過去の歴史から来る確たる事実。
それをエンリコは“耳”で感じ取っていた。
国家百年の計を練ろうとすれば、短絡的な市民感情など、邪魔でしかない。
しかし、共和国と言う形態をとっている以上、市民の声を無視し続けるのもまた不可能なのだ。
(そして、実際に共和制ではなく、王政国家に作り変えようとした
誰も彼も自分が可愛い。
行きつく先が断崖絶壁であったとしても、それでも背中をせっつかれてそちらに歩みを続けるという愚挙。
少し考えれば分かる事でも、“感情”が、“矜持”がそれを邪魔する。
ほんの少しでもいいから、自分のように冷静になれと言いたいエンリコであったが、それも無駄だろうというなかば諦めもあった。
耳をすませば、現在の
“市民感情”という荒波が押し寄せる議場において、それを無視できるほどの豪胆な者などエンリコ以外、ただの一人もいなかったのだ。
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