第10話 帰路

 釈放が認められると、エンリコとラニエーリは即座に港へ向かい、船へと急いだ。


 最後まで鬱陶しい見張りの兵士に追随されていたが、特に気にした様子も見せずに二人ははしけに乗り込んだ。


 エンリコは眼が見えなくなっているため、移動にはラニエーリの先導が必要であり、足下や歩幅を注意しながら歩き、船に飛び乗る時も気を使ったものだ。



「お帰りなさいませ、ラニエーリ様」



「おお、船長。早速だが、出港の準備を」



「すでに完了しています。いつでも出せます」



 さすがに腕利きの船長であり、すでに準備は整っているとの事だ。


 ラニエーリは満足そうに頷き、その労をねぎらった。



「そちらも交渉はうまく行ったようで」



「ああ。なんとか父の釈放は認めてもらった。だが、色々と出すものを出さねば、他の同胞達の解放は認められん」



「では、急いでヴェネツィアに戻らねばなりませんな」



「うむ。行き同様、帰りも快速で頼むぞ!」



「お任せあれ! なんでしたら、最速記録でも狙ってみますかな」



 船長はすぐに合図を送り、帆を広げた。


 同時にゆっくりと櫂も漕がれ、徐々にだが船足が加速していった。


 エンリコとしても、久々の海風であり、牢屋とは比べ物にならない解放感を全身で感じた。


 しかし、残念な事にその大いなる海の景色も、壮大な帝都の外観も、もはやその眼では見る事も叶わない。


 その点は忌々しい事この上ないが、過ぎた事を嘆いても仕方がないと気持ちを切り替える事にしていた。


 そんな複雑な思いを抱く父の横に立ち、ラニエーリもまた吹き抜ける海風を楽しんだ。


 帆が風を受けて大きく膨らみ、同時に規則正しく何本もの櫂が水を描き出し、ググッと船を前へと進ませる。


 貿易を営む商人として、幾度となく見てきた光景であるが、やはり父エンリコの事が気掛かりであった。



「その、父上……、やはり眼の件は申し訳ございませんでした」



「お前が謝るべき事ではないと言ったぞ、ラニエーリ。お前は最善を尽くした。ただ、流れが少し悪かっただけだ。商売をやっていると、そういう時もあるだろう?」



「……ですが、今こうして船に乗っていても、広々とした海を眺める事もできなくなりました」



「景は見えずとも、魂で感じることはできる。鼻で匂う事もできるし、肌で感じる事もできる。もちろん、耳で聞く事もな」



 そう言って、エンリコは気にするなと言わんばかりに、大きく息を吸い、吐いた。


 潮の香る空気は、いつも心に張りを持たせてくれるものだ。


 貿易のため、何度も海に飛び出し、あちこちの港に出入りしては、当地の商人と決闘ばりの激しい交渉を繰り広げた事もあった。


 今回はその相手がたまたま皇帝という大物であった事と、焦って商売の手順をすっ飛ばした愚か者であっただけにすぎない。


 いずれ取り戻す気でいた。眼の慰謝料も含めて。



「だが、問題がある。それも特大の、な。分かるな?」



「はい。勝手に皇帝と条件を交わして、和睦の舞台を整えました。問題はその舞台に他が登ってくれるか、ですな。特に、ヴェネツィア市民が」



「そうだ。市民感情の暴走こそ、警戒せねばならん」



 エンリコは自分の事を強欲だと思っている。


 もっと商売を手広くやりたいし、そうやってドンドン稼ぎたいと思う。


 今でもかなりの規模の商売をやっているが、それでもなお足りているとは感じていないし、満たされてもいない。


 そう、もっともっと大きな商売をして、史に残るような大商人になりたいと考えている。


 その情熱があればこそ、六十を過ぎてからの船出にも遅いとは感じていない。


 むしろ、ここから大商人として名を遺すのも、悪くはないとさえ思っている。


 父の添え物ではなく、自分自身が考えて動く。六十の手習い気分で、なおもその気宇は大きい。


 実際、父ヴィターレは長生きで、八十を過ぎても船を出しては商売に明け暮れていたほどだ。


 そのため、エンリコはずっと父の添え物扱いであった。


 そう、エンリコは誰よりも“待つ”事に慣れており、今回もまた待つ時期だと感じていたのだ。


 今、海は荒れている。船を出すには危険極まりない。


 であれば、時化しけが解消されるのを待てばよい。


 皇帝との取引など、そのための時間稼ぎであり、よい潮を待つための手慰みというのがエンリコの考えだ。



「まあ、最大の要点は皇帝に約した“十万ディナール”だ。ラニエーリよ、この意味を分かるな?」



「はい。賠償金として支払うのではなく、あくまで“貸す”と言う事です」



「低金利とは言え、必ず返さねばならない金だ。だが、返せるとは思っていない」



「だろうと思いましたよ。返せない額の金を貸し付け、それを理由にまた帝国に侵食するつもりですな?」



「そうだ。今、ビザンツ帝国は四方八方戦を繰り返しており、戦費がいくらあっても足りない。領土を減らしてでも戦線を縮小し、そこから内治に勤めるのが利巧と言うものだ。だが、それはしない。なぜなら、未だに“ローマの亡霊”に憑りつかれているからだ」



「栄光のローマ、かつて世界を支配した偉大なる帝国。その末裔こそ自分達であると、ビザンツ帝国の皇帝も、民衆も考えています」



「特に、ローマの東西分裂以降、ユスティニアヌス大帝の時代の成功があるからな。六百年ほど前の大帝の時代、ベリサリウス将軍の武威もあり、ローマのあるイタリア半島と北アフリカを取り戻し、かつてのローマ帝国を彷彿とさせるほどに版図を拡大した。否、“取り戻した”」



「しかし、それも大帝の気宇と、大将軍の武威があればこそ。それ以降の皇帝は失策を繰り返し、領土を次々と失っていきました」



「バシレイオス2世の時代は大いに盛り返したが、結局、かの賢帝一代の夢と消えていった」



「今や帝国は重症の病人ですからな。しかし、そんな相手であっても、我がヴェネツィアにとっては、大事な商売相手でもあります」



「当然だ。契約が交わされ、人や物が行き交い、金銭が飛び交う限り、それが誰であろうとお客様だ。商売人として、それだけは忘れてはならん」



 もっとも、今回の一件はそのお客様の難癖で話がこじれたため、ヴェネツィア市民が憤激しているのだ。


 ラニエーリもヴェネツィア本島で市民が声を荒げ、報復を連呼する様を見てきた。


 気持ちは分かるのであるが、戦争は避けねばならないという思いの方が強い。


 多少、苦渋を呑まされたとしても、後々の回収を考えれば耐えられるというものだ。



「だが、誰しもが耐えられるというわけではない」



「はい。我々のような大店の者であれば、大きな取引には時間がかかると、どっしり構えていられます。しかし、その日暮らしの小さな商売を行っている者からすれば、何年も悠長に待っているわけもいきません」



「そこなのだよな、結局。上手くその激情を抑えて、皆を納得させねばならん。特に我らは非難に晒される事だろう」



「父上の身柄だけを解放したので、そこを不公平だとなじる者もおりましょう。まだ二万人からの同胞が帝国領内で不自由を強いられているのですから」



「いずれは統領ドゥージェにとは考えてはいるが、なかなか道は険しいな」



 やるべき事は多い。


 しかも、成功したとて称賛される事でもない。


 それでも自由なる意思を以て大海原に繰り出し、商売に明け暮れるのがヴェネツィア商人の本懐である。


 それを邪魔する者は誰であろうと排除する。


 これだけはヴェネツィアの市民の誰しもが持つ魂であり、矜持でもある。


 それが今回ばかりは足枷になるかもしれないと危惧をしつつ、『自由リベルタ号』は帰路を急いだ。

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