第9話 落としどころ

 エンリコの答弁に、皇帝マニエルはタジタジになった。


 ずらりと並ぶ武装した兵士の中にあって、エンリコは一切怯える風を見せない。


 投獄時の病にて光を失うも、その滾る野心や商魂はむしろ勢いを増したとさえ思えるほどだ。



(さすがは父上だ! この状況下でこうも冷静かつ的確な答弁をされるとは!)



 側にいるラニエーリも父の姿を頼もしく見ていた。


 しかし、エンリコの方はというと、それほど楽観視できる状況でもなかった。



(帝国には弱点がある。大国ゆえの、な。そう、国が大きい分、領土も大きく、国境を接している他国も多い。もちろん、懐にある火種も含めてな)



 ビザンツ帝国は巨大な国家である。


 かつて世界を支配した偉大なるローマ帝国の後継者を自認しているだけに、その版図はかなりものだ。


 だが、それだけに問題も多い。


 まずは帝都コンスタンティノープルから程近い位置にあるバルカン半島。帝都のあるアナトリア半島からは、ボスフォラス海峡を挟んだすぐ先にあり、ここが一番の問題だ。


 当地の大領主であるセルビア侯ステファン=ネマーニャが、セルビア人による統一国家を目指し、ビザンツ帝国に対して蜂起。


 討伐に当たった帝国軍を撃滅して、現在は実質独立状態にある。


 帝国側は認めたくはないであろうが、すでにそれ以外の国はセルビア人国家ネマニッチ朝と認識している。


 また、かつて滅ぼしたブルガリア帝国もビザンツ帝国の衰勢を見て、各地で蜂起が始まっている状態だ。


 早晩、再びブルガリアが独立するのではないかと、もっぱらの噂にもなっている。


 かつてのローマの版図を取り戻さんと仕掛けた南イタリアへの遠征も、シチリア王国の反撃を食らい、無様な敗北を喫した。


 北と西が絶賛炎上中であり、しかも帝都のあるアナトリア半島も今や危機的状況だ。


 どうにか半島付け根のシリア方面での防衛については成功しているが、それも不安定な状況だ。


 シリアは要衝であり、どこの勢力も欲しがっている。


 エジプトのアイユーブ朝、イランのザンギー朝、中央アジアのルーム・セルジューク朝など、邪悪なる異教徒が群がって来ているのが現状だ。


 おまけに、悩みの種が十字軍国家だ。


 一応、同じキリスト教徒ではあるが、教会の東西分裂はなおも継続中であり、ローマ法王庁とコンスタンティノープル主教座は不倶戴天の敵同士。


 今はエジプトのサラディンに圧されているので大人しいものだが、もし勢力を盛り返すようなことがあれば、どうなるかは分からない。



(なにしろ、サラディンの猛攻は遠く離れた私の耳にも届くほどだ。現地の十字軍も頑張ってはいるようだが、じきに聖地エルサレムも落とされるやもしれん。そうなると、“三度目の十字軍”も十分考えられるな)



 どこもかしこも不安定。


 内憂外患とはまさにこの事かと、エンリコは嫌味の一つも言いたくなるほどだ。


 この上でヴェネツィアと事を構えるなど、自分で鎧を脱ぎ捨てて、戦場に赴くような愚挙である。


 ヴェネツィアの海上戦力や輸送力は、地中海国家の中でも最上位だ。


 いくら金に困っているからと言ってヴェネツィアにまで喧嘩を売るなど、ビザンツ帝国は、皇帝マヌエルは、自殺願望でもあるのかと疑いたくもなった。



(落としどころとしては、その辺りかな。帝国としても、差し当たっての資金が欲しい。ヴェネツィアとしても、ビザンツ帝国内の販路を失うのは痛い。そこが唯一の妥協点だな)



 ようやく見出せた落としどころに、エンリコは即座に動いた。



「皇帝陛下もお困りのご様子ですし、ここは一つ、互いに譲りませんか?」



「どういった条件でだ?」



「まずは我がヴェネツィアの民の安全です。帝都には数千からの同胞がおり、その安全をお約束してください。代わりに、こちらも港湾施設の使用料の“値上げ”には応じます」



「ふむ……。他には?」



「騒乱罪のとしての罰金の支払いには応じます。しかし、ジェノヴァ人居住区の復旧作業にかかる費用捻出には応じかねます」



「ダメだ。それには応じれんな。そちらの感情云々を論じるのであれば、ジェノヴァ人のそれも考える事だな」



「ならば、費用を全額ではなく、“四分の一”であれば出しましょう。さすがに全額負担でありますと、こちらも市民感情が激発しかねませんので、そこで勘弁していただきたい。代わりに、極めて低金利にて、資金の融通に応じさせていただきます」



「融通というが、どの程度か?」



「異教の通貨で恐縮ですが、十万ディナールほどでいかがでしょうか?」 



 エンリコの出した条件に、マヌエルは思わず前のめりになった。


 イスラム圏で流通する金貨ディナール銀貨ディルハムは極めて信用が高い通貨だ。


 ローマ帝国の崩壊以降、西欧では貨幣流通が衰退し、経済発展の足枷になっているほどだ。


 ビザンツ帝国にも貨幣の鋳造所はあり、バシレイオス2世の時代にはかつてのローマ帝国が復興したと思えるほどの隆盛を誇った。


 しかし、それは百数十年も前の話であり、現在のビザンツ帝国は見る影もなく衰え、貨幣の質も悪くなっている。


 一方、イスラム圏の最大の貨幣鋳造所のあるダマスカスは比較的安定しており、貨幣の質も維持されていた。


 商人達にとってはちゃんとした金銭での支払いは重要であり、質の高い硬貨は重宝されていた。


 そして、エンリコが出した大量の金貨ディナールは皇帝を唸らせた。



(ヴェネツィアの力を見せ付けつつ、イスラームとの関係もそれとなく含ませる。これにどう反応しますかな、皇帝?)



 ヴェネツィアの販路は何もビザンツ帝国だけではない。


 地中海の至る所に張り巡らせており、異教徒云々関係なく取引を行っていた。


 利益や商品を持って来る者こそが客であり、そこに信じる神の名は関係ない。


 ヴェネツィア人にとっては、“金”こそが神であり、交わした“契約書”こそ福音なのだ。


 そこに一切の妥協はない。



「……資金融通の件は、確約するのだな?」



「はい。同胞の解放が成れば、即座にでもご用意いたします」



 エンリコにとって重要なのは、まさにそれなのだ。


 もちろん、支払いが大きくなるのは避けたいが、だからと言ってごねられる状況でないのもまた事実だ。


 牢屋の環境は悪く、いつ自分のように病を得て、最悪そのまま天に召される事を考えると、あまり時間がない。


 もちろん、そんな焦る態度など微塵も出さず、悠然と、そして、大胆に交渉に臨んではいるが。



「……よいだろう。その条件で受けよう。此度の不幸な出来事も、今後の関係修復によってあがなうか」



「そう言っていただけて幸いでございます。ただちに、国元ドガードに戻り、他の議員や市民を説得してまいります」



 しれっと、自分の釈放を捻じ込むあたり、エンリコもまた抜け目がなかった。



「ああ、それと、私の私物に関しては、保釈の身代金という事で、陛下に献上させていただきます。ご自由にお使いくださいませ」



 とどめの一言を、相手に言われる前に切り出すエンリコであった。


 帝都に置いている私財はそれなりの額になるが、それを惜しむつもりはなかった。


 “表向き”な私財は没収されている可能性が高いが、なにもそれだけが彼の財布ではない。


 いざと言う時のために、懐深くに忍ばせている“隠し財産”と言うものが存在する。


 まずは自由の身を得る事が重要であり、そうでなければ他の議員の説得など叶わないから、その辺りの“損切り”も的確だ。


 無論、息子のラニエーリに任せるという手段もあるが、まだ少々荷が勝ちすぎるのではとの懸念もあった。


 やはり、自分が議員と市民を宥めて、新たに交わした条件での関係修復に動くべきだという考えだ。



「よかろう。エンリコよ、直ちにヴェネツィアに戻り、話をまとめて来い! 条約が交わされ次第、こちらも不埒者を解放しよう!」



 エンリコからすれば、同胞を不埒者呼ばわりされるのは不服ではあったが、あくまでヴェネツィア人が不義を成したという“形”だけは取り繕っておきたいという、皇帝の立ち位置が見え隠れしていた。


 文句を言って話が振り出しに戻っては埒が明かないと、そこはグッと堪えて恭しく拝礼して、“了”と応じた。


 さてこれから忙しくなるぞと思いつつ、逸る気持ちを抑えながらゆっくりと謁見の間から退出していった。


 そう、ゆっくりでなくてはならない。


 なにしろ、エンリコは眼から光を失い、誰かの支えなしでは歩く事すら危うい状態なのだ。


 今、支えてくれているのは息子のラニエーリ。


 決死の覚悟で迎えに来てくれた、よくできた息子だ。


 早く一人立ちできるよう、今まで以上に研鑽を積ませ、自分が教えれる事を教え尽くさねばと考えた。


 だが、今は同胞の解放に動くのが先だ。


 そう言い聞かせながら、息子に誘われながら王宮を辞した。

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