第8話 駆け引き
商売の原則は三つだ。
“売り手”と“買い手”と“商品”の三つであり、これらが揃って初めて商売が成立すると言っても良い。
まず初めに、“買い手”が“売り手”に“商品”を求める。
逆に“売り手”がオススメの“商品”を用意して、“買い手”を探すというやり方もある。
相手の求めるものを用意し、そして、交渉して値段を決める。
商売を行う上では、基本的な行動だ。
(しかし、今回ばかりはとんでもない商品だぞ)
表情こそ平静を装ってはいるが、エンリコは落としどころを考えるのに必死だ。
なにしろ、皇帝マヌエルがヴェネツィアに求めるものは、“貿易上の優遇措置の解除”という代物であり、ヴェネツィア側からすれば“損にしかならない商品”であるからだ。
長年にわたって続けられてきた優遇措置により、ヴェネツィアはビザンツ帝国全体の経済に大きく食い込んでいた。
港湾設備の優先使用権により、格安の使用料で各所の港を我が物顔で占有し、商品を買い叩き、他所で高く売る。
貿易としては至極当然ではあるが、帝国内の同業他社からすればたまったものではない。
帝国の商工業は衰退し、日に日にヴェネツィアへの怨嗟の声が強まっているのを、商人でもあるエンリコも感じてはいた。
しかし、それは先祖の血と汗による努力の結晶であるし、今更どうこう言われるのも筋違いというものだ。
ビザンツ帝国の海上戦力として活躍し、戦の度に駆り出されては、その輸送力や海軍の戦力を用いて帝国を支えてきた。
その対価として受け取って来たのが、そうした優遇措置であり、何の見返りもなしにそれを解除しろというのが帝国側の言い分だ。
(敢えて対価という言葉を用いているのだとすれば、それは“人質の身代金”と言ったところであろうか。帝都だけでも数千人、帝国全土では二万人を超える同胞がいる。そいつらを無事に返してほしくば、優遇措置の件を一考しろだな。とんでもない話だ! これは!)
店先で暴れた上に、やめて欲しければ値下げしろと言っているに等しい。
真っ当な商取引ではなく、完全に“脅し”の範疇に入る。
無頼漢のやり口を、国家規模で行うという愚挙だ。
ならば、こちらももう“ヴェネツィアの商人”ではなく、“ヴェネツィアの政治家”として戦略を動かすべきだと、エンリコは判断した。
「それで陛下は、帝国は、何がお望みですかな?」
商取引において、相手の欲しいもの聞くのは愚策である。足元を見られる材料にもなりかねないからだ。
だが、エンリコは敢えてすっとぼけた。
相手がどんな者を要求して来ようとも、返せる自信があったからだ。
マヌエルは近侍の者に手で合図を送ると、エンリコに一通の書簡を差し出してきた。
エンリコが目が見えないのを分かった上での嫌がらせであるが、そこは側に控えていたラニエーリが受け取った。
父の眼になるという息子の、具体的な行動の第一弾が親書の受け取りであった。
「息子よ、何と書いてある?」
「……まずは、賠償金。帝都における騒動の全責任を負い、ジェノヴァ人居住区の復旧にかかる費用の“全額”を求めてきています。もちろん、騒乱罪の罰金名目で、帝国への支払いにも言及されています」
「結構なものだな。要するに、“金寄こせ”というわけか」
「あと、帝国各地の港の使用制限も謳っていますね」
「そして、ヴェネツィアを排除する、と」
「帝都だけで数千、帝国全土で二万人からの同胞がおります。間違いなく、それらの処遇をチラつかせています」
予想はしていたが、帝国内におけるヴェネツィアの動きを徹底的に絞るつもりだという事は読めた。
もちろん、これをこのまま持ち帰るつもりはエンリコにはなかった。
当然、商人として“値切る”のだ。
「どうやら、皇帝陛下にはおかれましては、ヴェネツィアと仲良くするつもりは一切ないご様子。戦をお望みのようで」
「こちらとしても不本意ではあるが、帝国領内での不法行為を見逃していては、帝国法の威厳が損なわれてしまう」
「そのような“無いもの”の存在を案じていられるとは、陛下も存外、夢想家でいらっしゃいますな」
帝国の法と秩序を守ると宣言した皇帝マヌエルに対して、エンリコは“夢想”とバッサリ斬り伏せた。
仮にも皇帝ともあろう者が、濡れ衣を着せて長年の協力者を捨て去ろうという言動に、秩序も威厳もあったものではない、と。
逆に言うと、そこまで帝国の財政はよろしくないという証でもある。
得意先であろうと、搾れるところから搾らねば、もうやっていけない。
そんな泣き言とも悲鳴ともとれる態度が、書簡の中には含まれている。
(もちろん、それはそちらの都合であって、それに合わせてやる義務はあっても義理はない。利益優先、義理で商売しないのがヴェネツィア商人だ。そして、その義務の部分も、今そちらがなかったものにしたのだからな)
濡れ衣を着せてきた時点で、もはや関係は破綻したと言っても良い。
それに対する歩み寄りも見られないのであれば、エンリコも容赦なく斬り込めた。
両国間の協定の破棄をチラつかせている以上、助けてやる義理ももはや無いのだ。
「それに陛下、戦争すると言っても、兵力がございますまい」
「ある! 我が帝国を侮るのにも程があるぞ!」
「ないですな。嘘はよろしくない。帝国主力は現在、シリア方面に展開しています。南からアイユーブ朝エジプトを興したサラディンが北上し、かつて帝国に辛酸を舐めさせたルーム・セルジューク朝、さらにイラクのザンギー朝も虎視眈々。下手に兵を動かせば、そのままイスラーム勢力がシリアを席巻し、アナトリア半島になだれ込みますな。フフッ、それではまた帝都が、危うくなりかねませんからな~」
商人にとって、“情報”こそ命である。
情勢を読み、どこに品を流せば儲かるのか。そればかり考えているのが、商人という生き物である。
同胞、異教徒も関係ない。儲けさせてくれる存在こそ、お客様なのだ。
シリアやエルサレムを巡り、ビザンツ帝国、十字軍国家、エジプトのアイユーブ朝、イラクのザンギー朝、中央アジアのルーム・セルジューク朝が、しのぎを削っている。
どの勢力もいかに相手を出し抜くかで手一杯であり、帝都コンスタンティノープルのあるアナトリア半島の安定化のため、ビザンツ帝国もまた力を入れている地域でもある。
下手に展開する主力を動かせば、それこそ他勢力に後れを取ったり、最悪、また帝都に迫られるという事も考えられる。
しかも、今回はヴェネツィアの援護を期待できないというおまけ付きだ。
なにしろ、マヌエルの祖父アレクシオス1世の時代に、ルーム・セルジューク軍に帝都まで迫られ、ヴェネツィアの援護でどうにか退けたという先例もある。
もし、今回シリア方面に展開中の部隊が抜かれるようなことになあれば、海からの援護なしでこれに対処しなくてはならないのだ。
「それに十年ほど前でしたか、南イタリアやシチリア島に攻め込み、無様な敗北をしましたな~、陛下は。シチリア王グリエルモ陛下の病気に付け込み、周辺諸侯を焚き付け、意気揚々と攻め込むも、病の癒えたグリエルモ陛下の反撃を受け、這う這うの体で逃げ帰られた」
「…………ッ!」
「しかも、あの時は私の父ヴィターレもまだ存命中で、それに助けられましたな。南イタリアからの撤収の際には、ヴェネツィアの船で引き上げられた。恩義を仇で返されるのが陛下の流儀ですか? それとも、帝国の法というやつですかな?」
実に嫌らしいエンリコの答弁に、マヌエルからは余裕の色が完全に消えていた。
どこまでもいやらしく、どこまでもねちっこく、相手の非を鳴らす。
商談の場こそ、商人にとっての戦場であり、“情報”が身を護る盾となり、あるいは敵を貫く槍となる。
エンリコはそれを誰よりも熟知していた。
ゆえに、武力を背景にイキり散らすだけの皇帝に、後れを取るつもりなど一切なかったのだ。
無論、命の危機でもあるが、交渉中の使者を手打ちにすればどうなるか、そんな事はマヌエルも承知のはずだという計算もある。
下手な振る舞いは、自身を蛮族の身へと落とす。
西側を散々蛮地と蔑んできた者が、立場を入れ替える事にもなりかねない。
それでもよいのかという、エンリコの計算、打算が含まれている。
交渉、駆け引きとはこうやるのだぞ、そう言わんばかりのたくましき商人の性だ。
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