第7話 再度の謁見

 皇帝に一泡吹かせてやろうとダンドロ家の親子は意気込んでいたが、そうかと言って優先順位を忘れたわけではない。


 あくまで優先するべき事は、現在囚われの身となっている帝都在住のヴェネツィア人数千名の解放であり、今後の帝国、共和国の関係についてだ。



「戦争は不経済! 人も物資も消費するだけの、時間と資源の浪費だ!」



 この認識は親子揃って持っていた。


 “他人”の戦争であれば、それは他人の浪費であり、自身にとっての商取引の好機と呼べる。


 しかし、“自身”の戦争であれば、その浪費を自らが請け負う事になる。


 それだけは勘弁であった。


 まして、相手がビザンツ帝国である以上、交戦国がヴェネツィアにとっての“上得意の客”という最悪の状況。


 最大の客と戦争状態に突入するなど、戦争によって得られる戦利品よりも、損失の方がはるかに大きい。


 長年培ってきた販路や優遇措置を、海に投げ捨てるに等しい行為だ。


 当然ながら、誰よりも強欲な“ヴェネツィアの商魂”がそれを拒絶している。


 同時に自由な気風を何よりも愛する“ヴェネツィアの市民感情”が、今回の横柄な帝国側の態度に腹を据えかねているという側面もある。


 戦争は嫌だと考える商人として気質と、共和国の自由を脅かさんとする者への拒絶を示す市民としての感情、その二つの渦が親子二人の中で渦巻いていた。


 特に息子のラニエーリからすれば、無実の罪で投獄した挙げ句、敬愛する父から光を奪った仇でもあり、帝国への怒りは一入ひとしおであった。


 それでもなお冷静でいられたのは、父エンリコが少なくとも表面上は冷静であり、怒りを微塵も出してはいなかったからだ。


 交渉いくさが始まろうというのに、頭に血を上らせていかんとする。そうたしなめられているようで、自身も冷静さを持たねばと感情を押し殺した。


 眼の見えぬ父の眼となり、杖となり、ラニエーリはエンリコの体を支えて、謁見の間へとやって来た。


 すでにビザンツ皇帝マヌエルは玉座に腰かけており、その表情から不機嫌さがあらわになっていた。


 眼の見えないエンリコにも、周囲の空気からそれを察する事が出来るほどだ。


 居並ぶ群臣や警護の兵士からも、ヴェネツィアをやっかむ心の声が聞こえてきそうな、そんな居心地の悪さだ。


 しかし、そんな態度はおくびにも出さず、二人は跪き、皇帝に対して拝礼した。



「皇帝陛下に置かれましては、ご機嫌麗しゅう。再びの謁見を許されましたる事、感謝いたします」



 頭を垂れたままのエンリコが述べ、それから顔を上げたが、実のところ、これはかなりの“無礼”である。


 通常は“目上”の者から話しかけ、それから許可を出して面を上げさせるのが、本来の謁見の流れだ。


 だが、エンリコはその流れを敢えて無視し、勝手に話しかけ、許可もなく顔を上げた。


 当然、手順を無視した“罪人”の態度に、皇帝マヌエルはさらに機嫌を悪くした。



「エンリコ、息災で何よりだ。“眼”の具合はどうだ?」



「おかげをもちまして、陛下の不機嫌な面を拝まなくて済んでおります」



「そうかそうか。神の粋な計らいに感謝するがよい。ヴェネツィアが衰え行く様を見なくて済むようにと、な」



 互いに国家を背負いし者の言葉としては、いささかに低次元に過ぎるが、それほどまでに両者は憤激していた。


 どうにかして相手の顔に泥を塗り、それをもって強めの理論で相手を捻じ込めてやろうという腹積もりだ。


 もっとも、皇帝の方は即座にそれを打ち切って、側にいる兵士に命じるだけで終わる話であり、むしろ危機にあるのはダンドロ親子の方だ。


 だが、この親子は慌てる素振りも、かといって赦しを乞うかのごとくへりくだった態度を取るでもない。


 まとう気迫は、さながら合戦に赴かんとする騎士のそれである。


 商人風情が生意気なと思う皇帝ではあったが、海千山千の相手に数々の交渉や駆け引きをこなしてきた強欲なる“ヴェネツィアの商人”だ。


 下手な脅しは通用しない。



「それで陛下、『神聖ローマ帝国との交渉』はまとまりましたかな?」



 エンリコが投げかけた不意討ち的な問いかけに、彼以外の全員が目を丸くした。


 息子のラニエーリもだ。



「父上、それは!?」



「なに、簡単な話だ。ヴェネツィアと事を構えるとした場合、“海”が戦場となるのは必定。それだとどうしても分が悪い。そうなると、ヴェネツィア本土を“陸”から圧迫する勢力が必須だ」



「それが神聖ローマ帝国であると!? しかし、ビザンツ帝国とは幾度となく刃を交えた抜き差しならぬ関係ですぞ!?」



「だかろこそ、大きな外交転換というわけだ。我らヴェネツィアが安心して海に出られるのも、陸からの脅威が少ないからだ。だが、イタリア半島に並々ならぬ意気込みを持つ神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ陛下も、ビザンツ帝国からの余計な横槍を気にせずイタリア遠征ができるのであれば、と考えなくもない」



「その隙に、ヴェネツィアからダルマチア地方の主導権を奪い取る、と」



「そうだ。あそこはアドリア海の要衝であるからな。ヴェネツィア以外の勢力があそこを押さえたとなると、外洋に出辛くなる。それは好ましいものではない」



「仰る通りかと。ハンガリー王国が我らから沿岸部を奪おうと、何かと干渉してきますからな。特に、港湾都市ザーラを狙っているともっぱらの噂が……。あそこはアドリア海のど真ん中にある重要拠点。ゆえに、ダルマチア地方の沿岸部に、我ら以外の勢力が張り出して来るのは面白くありません」



「結局のところな。どいつもこいつも、ヴェネツィアとの交易をしておきながら、あまり大きくなられると困る。そう考える勢力ばかりだという事だ」



「さすがは父上! 眼が見えずとも、先を見通す力はご健在ですな」



「頭に地図を描き、考える時間だけはたっぷりとあったからな」



 外交などと言うものは、自国の利益をいかに最大化するための手段に過ぎない。


 ときに武力衝突に発展しようとも、それもまた外交の一側面の話だ。


 むしろ、“力”をチラつかせながら交渉の席に着くなど、常套手段とも言える。


 目の前にいる皇帝もまた、自勢力の拡大を望み、その結果、邪魔になったヴェネツィアの排除に動き出したに過ぎない、というのがエンリコの考えだ。


 マヌエルの祖父アレクシオス1世の時代、東方で勃興したルーム・セルジューク朝の軍勢に押し込まれ、帝都コンスタンティノープル付近にまで迫られるという危機的状況に陥った。


 その危機を救ったのがヴェネツィアであった。


 海上戦力と輸送力を巧みに使い、帝都への補給と後方への攪乱を行い、ルーム・セルジューク軍を撤退に追い込んだ。


 この功績を認め、ヴェネツィアに様々な特権を付与した。


 関税優遇、帝国各所の港湾施設の優先使用権などがそれに当たるが、結果として帝国内の商工業者の衰退を招く事になり、ビザンツ帝国は“経済的”に崩壊したのが、現在の状況である。


 強欲なヴェネツィア商人が“頑張り過ぎた”結果だ。



(まあ、それを是正するためにジェノヴァを当て馬に使ったのだろうがな。おそらく、事件の発端となった火事自体は偶発的なもの。だが、それをヴェネツィアの仕業だとわめき立てている状態だ。つまり、帝国側の求めている回答は、“特権や優遇措置廃止”となる)



 ヴェネツィアが大きくなったのも、長年にわたる帝国への助力と、それによる見返りの享受に求めても良い。


 そうした情勢であったからこそ、交渉が巧みなヴェネツィア商人は地中海で大きく商売ができ、自由に海を渡り歩いて来れたのだ。


 それを止めにして、枷を嵌めておきたいというのが、“今”のビザンツ帝国の意向。


 そう感じ取ったからこその、エンリコの攻撃的姿勢だ。


 屈服させるのには高い代償が必要だぞ。そう思わせるための演技でもある。


 なお、その演技は文字通りの“命がけ”ではあったが。

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