第14話 懸念

「時にエンリコ、今回の戦、君は反対のようだが、負けると考えているのかね?」



 統領ドゥージェミキエーレの問いかけは、かなり突っ込んだものだ。


 戦争の熱気に盛り上がっている今のヴェネツィアにおいて、敢闘精神があるのかと投げかけているようなものであるからだ。


 下手に他人に聞かれては、袋叩きにでもなりかねない話だけに、人払いでもしなければ聞けない。


 しかし、聞かねばならない事でもあるため、ミキエーレも本気だ。表情からもそれが伺い知れるほどに険しい。


 なお、盲目のエンリコにはそれを見る事が叶わないが、雰囲気から容易に察する事が出来た。



「海戦であれば、負けるとは思わん。しかし、ビザンツ側が勝つ方法はいくらでもあるぞ」



「例えば?」



「私が一番懸念しているのは、怠業サボタージュだ」



怠業サボタージュ、か。……つまり、港を使用不能にして、補給線を圧迫してくるというわけだな」



「はっきり言えば、そここそが弱点であるからな」



 エンリコの懸念は、ミキエーレも納得する事案であった。


 ヴェネツィアが誇る大型ガレー船は、“海戦”においては圧倒的な強さを誇る。


 船長から船員、更に漕ぎ手も熟練揃いであり、船足が恐ろしく速く、一気に敵船に突っ込んで衝角ラムで敵船の脇腹を食い破る。


 また、接舷すれば白兵戦が始まり、漕ぎ手もまた水兵に混じって戦闘に参加するため、頭数が圧倒的に多い。


 これこそ、ヴェネツィア海軍の強さの大元である。


 しかし、その“数”が足を引っ張る場面がある。


 それが“補給”においてだ。



「乗組員の頭数が多い分、水や食料などの物資の消費が激しい。ゆえに補給艦を随伴させるか、あるいは拠点となる寄港地の確保が必須だ」



「その通り。愚鈍な補給艦を随伴させれば、船団全体の足が遅くなる。寄港地の確保は絶対と言えよう」



「しかし、今度の相手はビザンツ帝国だ。アドリア海はともかくとしても、エーゲ海やイオニア海はあちらの領域。港を封鎖されれば、たちまちこちらが飢える」



「かと言って、先方がアドリア海まで乗り込んでくるとも思えんし、やはりアドリア海より討って出なくてはならない」



「アテネで塩対応されたのは記憶に新しい。それをあの海域全体でやられては、何もせぬまま撤退に追い込まれてしまう」



「かと言って、待ち続けるのも不可能。なにしろ、かなりの数の商船を軍船に改装したから、貿易が実質止まっている状態だ。商人が交易をやらなければ、それこそ飯のタネを捨て去るに等しい」



「ちょっと考えれば分かる事であるのに、すでに“民衆によって選ばれた評議会”は、開戦を決定してしまったからな」



「誇り高く生きるのに矜持は必要だが、必要以上に高くすれば、それは足枷以外の何ものでもない。酒と一緒だ。度が過ぎれば毒にしかならん」



 面白くもない未来予想図に、二人の表情は憮然としたものとなった。


 戦えば勝てるが、戦う機会がそもそも与えられるのかという懸念が強い。



(もし、私がビザンツ側なら、間違いなく兵糧攻めを狙う。それを崩さない事には、こちらが一敗地に呑まれてしまうからな)



 熱気に酔って戦争を始めた連中のなんと浅慮な事かと、改めて思うエンリコであった。


 今までヴェネツィア海軍が強かったのは、後方に寄港地を備えていたからに他ならない。


 ビザンツ帝国の所有する港が使えたのが大きい。


 しかし、今度はそのビザンツ帝国そのものが相手なのだ。


 そうなると、ヴェネツィア海軍にとっては今まで“内海”であった場所が、たちまち“外洋”に様変わりする。


 補給のために、わざわざアドリア海の自領にまで戻らなくてはならない。


 これは間違いなく大きな足枷となる。



「……で、エンリコよ、これにどう対処する?」



「事前に各地の港に使者を送り、補給に応じてもらうように説得するしかあるまい」



「説得に応じるとも思えんがな。ヴェネツィアの躍進で帝国の商工業が衰退したのであるし、仕返しとばかりに怠業サボタージュの連鎖だろう」



「そこは金貨の詰まった袋で、鈍い頭ごと頬っ面を引っぱたいてやると良い。なびく連中も出てこよう」



「足元を見てくるだろうがな」



「足元をすくわれるよりかはマシというものだ」



 結局、戦費や“市民の流血”は、許容せざるを得ない。


 戦争が不経済であると頭では認識していても、吹き荒れる嵐の中を船出するより他になし。


 何しろ、それが“民意”であるからだ。



「しかし、統領ドゥージェよ、起こるべくして戦は起こるのだ。そして、どうにか彼我の損害を最小に収めつつ、次に繋げるより道はない」



「エンリコ、君にまでいよいよ“どく”が回って来たか?」



「いや。今一つの懸念がある。だからこその、戦争という訳だ」



「今一つの懸念とは?」



「仮に、周囲を説得でき、民衆の感情も落ち着かせて、帝国側との和平が成ったとしよう。こちらが出すもの出した上でな」



「それが一番手っ取り早く、被害が少ないのではないか?」



「それはそうなのだろうが、それこそがもう一つの懸念。今後、事ある毎に帝国側が、我らヴェネツィアに“たかってくる”のではないか、とな」



 何しろ、今回の一件は完全な濡れ衣であるのだ。


 たまたま起こった帝都コンスタンティノープルでの火事を、ヴェネツィア人がやったと難癖をつけて、脅しを付けてきたのが皇帝マヌエルだ。


 これでいちいち金を払っていては、図に乗らせる・・・・・・だけではないか。


 それがエンリコの懸念だ。



「皇帝がそこまで愚鈍であるとは思いたくもないな。そんな事をすれば、国際的な信用を失うだけだぞ。誰もビザンツ帝国相手に商売しなくなる」



「貧すれば鈍する、という言葉がある」



「金に困って悩んでばかりいると、まともな思考すら失うという訳か」



「歴史がそれを証明している。何でここでこんな事をやらかすのか、第三者の視点で過去を漁って見ると、そのような話はいくらでも出てくる」



「確かにな。“栄光のローマパックス・ロマーナ”でさえ、今や千年前の昔話。その後継たる諸々の国は、鉄と錆のみすぼらしい国ばかり。黄金の栄光を携えし国はどこへ行ったのやら。とても往年の大帝国を偲ばせるには及ぶまい」



 かつてのローマの後継を謳う国は数あれど、そのどれもが中途半端。


 圧倒的な力を持ち、世界を統治するに足る力も知恵もない。


 しかし、それを望んで止まないのが、ヴェネツィアの商人達だ。



(かつての大帝国は、この地中海を“内海”として、交易が活発であった。世界の首都ローマには世界中から物資や人々が集中し、人口も百万を超えていた。コンスタンティノープルすら凌駕する、真に世界に冠たる都だ。そんな場所で商売がしたい! 地中海を海賊や異教徒に恐れることなく、自由気ままに船出したい!)



 これはエンリコの偽らざる本音であり、ヴェネツィアの商人であればだれもが夢見る世界だ。


 そんな夢も、かつては現実に存在した。


 栄光のローマ、それは確かに存在した偉大なる帝国の名だ。


 その残滓は、今や見るに堪えないほどに廃れてしまった。


 かつてのローマにはカソリック・キリスト教の総本山があり、“堕落と腐敗の象徴”として、世界を誤った方向に教導している。


 信仰の名の下に、金と権力が乱れ飛ぶ矛盾だらけの集団だ。


 北方では神聖でもローマでも帝国でもない不可思議な集団が、神聖ローマ帝国を名乗り、事ある毎にイタリア半島に災いをもたらす。


 皇帝と教皇の喧嘩なんぞ余所でやってくれと、エンリコはいつも思うのだが、ヴェネツィアがイタリア半島にある以上、巻き込まれるのは必然である。


 東はかつてのローマ帝国の正統なる後継を自認するビザンツ帝国が存在するが、その威光はもはや地に落ちた。


 稼ぎのいい属領ヴェネツィアにたかる事しか状況を打開する策がないという、ろくでなしの国だ。



「今更ながら、どいつもこいつもろくな者が周りにいませんな」



「言ったところで仕方あるまい。状況がどうあれ、利益の最大化を考えるのが、我ら商人だ。違うか?」



統領ドゥージェの仰る通り。しかし、今回は“舌戦”や“交渉”ではなく、“武力行使”です。らしくないのが玉に瑕」



「結局は足下を見られないようにするためだ。下手な難癖は痛い目を見る、そう思わせて、さっさと手打ちにするのが最良だ」



「そうですな。無粋な軍装を取っ払って、さっさと商売に戻りたいものです」



「右手に剣、左手に盾ではなく、金貨ソリドゥス天秤リーブラこそ我ら商人の正しき装備!」



統領ドゥージェ、ソリドゥス金貨はビザンツ帝国の衰退と共に改鋳を重ね、今や質が低下する一方ですぞ」



「おっと、そうであったな。やはり質の高い貨幣でなくては、取引の信用に関わるな。気を付けねば」



 金銭は、商人にとっての命そのものといっても良い。


 物々交換の時代は終わり、貨幣制度が確立した今となっては、物の売り買いはすべて貨幣を介在して行われる。


 質の高い金貨銀貨がなくては、そもそも商売が成り立たない。


 ゆえに、ヴェネツィア商人は信用のある貨幣を大事にする。


 イスラームの地で流通するディナール金貨、ディルハム銀貨を重宝するのも、その確かな品質ゆえである。



「いっその事、我らで新しい貨幣でも作り出しますか?」



「おお、それは面白そうだな。この戦いが終わったら、戦勝記念にやってみるか!」



「今後、帝国での交易の支払いは、その新通貨でやるとしましょう」



「ぬははは! 皇帝の歯ぎしりが聞こえてきそうな話だな、おい! エンリコ、お前もワルよな!」



「いえいえ、統領ドゥージェほどでもございませんよ」



 陽気に話す二人ではあるが、暗い話題を打ち消すための空元気とも思える虚しい空気が漂っていた。


 なにしろ、これからビザンツ帝国相手の戦争が始まるのだ。


 明るい話題の一つや二つが無くては、とても正気ではいられない。


 戦争という馬鹿げた選択肢を迫った市民感情という名の民意には、共和国の評議員として従わざるを得ない。


 夢見る栄光のローマパックス・ロマーナは遥か遠く。


 勝っても負けてもその姿を見る事が出来ないエンリコは、ただただ想像を膨らませるよりなかった。

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