第4話 ガレー船こそ自由の象徴

 大海原を一隻のガレー船が進んでいた。


 帆で風を受けると同時に規則正しく熟練の漕ぎ手がかいを動かし、水を掴む。


 上手く呼吸を合わせねば、まばらに水を掴んでしまい、速度が出ない。


 しかし、この船『自由リベルタ号』は何の問題もない。


 統領ドゥージェのミキエーレが最速の船と太鼓判を押しただけの事はあり、船の手入れは行き届き、漕ぎ手はもちろん、他の乗組員の練度も高い。


 そんな船が向かう先は、ビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープル。


 東地中海最大の都市のひとつであり、ヴェネツィア人にとっては最大の市場でもある。


 オリーブ油、ワイン、綿、羊毛皮、藍色染料インディゴ、武具、木材、そして、奴隷。扱う商品は様々だ。


 ヴェネツィアでは、ガレー船と帆船の使い分けが徹底されている。


 ガレー船は足が速い上に、風がなくとも航行できるという利点があるが、漕ぎ手を乗船させる分、積載量が少ない。


 そのため、宝石や貴金属、あるいは香辛料など、少量でも利益を見込める物を運ぶ事が規定されている。


 また、船体の規格は統一されており、国立造船所アルセナーレで建造された後、船体は国有とされ、その利用権を各商人が競売で競り落とし、運行されるというのもガレー船の特徴だ。


 一方、帆船は少ない人手で動かせるものの、風がなければ航行できず、季節によっては港で居座る事も多い。


 しかし、ガレー船に比べて積載量は多いため、食料品、綿や羊毛などの重量があって嵩張かさばる物を運んだ。


 また、帆船の方は、ヴェネツィア人以外にも貸し出される事が許可されていた。


 こうして、それぞれの利点欠点を巧みに使い分け、地中海を所狭しと商売に明け暮れているのが、ヴェネツィア商人だ。


 そして、その自由の気風をまざまざと感じれるのが、今、海の上を走っているガレー船に求めても良い。


 それほどまでに、ヴェネツィア共和国所属のガレー船は、他国のそれとは一線を画する存在なのだ。


 なにしろ、漕ぎ手が全員“自由民”と言う事が大きな特色だ。


 他国のガレー船は漕ぎ手に、罪人や奴隷を充てるのが通常である。


 ろくに休みを取らせる事もなく、ひたすら櫂を漕ぐ事を強要され、死んだら死んだでまた補充すればよい。


 そういう考えがまかり通っている。


 しかし、ヴェネツィアのガレー船は全員が自由民であるため、そのような過酷な扱いはない。


 しかも、交易に従事できるという役得まである。


 漕ぎ手になると、船内に自分のスペースが割り当てられる。


 服の着替えなどの私物の他に、交易品を載せておく事も許可されている。


 つまり、漕ぎ手として船を動かし、港に着いたら、載せていた自分用の交易品を使って商売ができるという事でもある。


 他国へ行くための船賃は無料タダどころか、ちゃんと給金が払われる上に、私的に持ち込んだ品で貿易までできる。


 海上での生活に馴染める上に、先輩乗員から操船術や交渉などの様々なノウハウを学び取り、商売の基礎を身に付けるのに打って付け。


 こうした事情もあって、一から始めて独立商人を目指す者にとって、ガレー船の乗員はキャリアアップのための重要な第一歩となる花形職業だ。


 さらに、いざ戦争になった場合も、この強みが活きてくる。


 他国のガレー船は漕ぎ手は奴隷や罪人であるため、航海中は逃亡を防ぐため、櫂を漕ぐ席にかせで縛り付けられているのが通常だ。


 動けないからこそ漕ぎ手の糞尿は垂れ流しであり、衛生状態は悪い。


 風向きによったら水平線の彼方からでも臭うぞ、などとヴェネツィアの船乗りからはジョークのネタにされるほどだ。


 一方、ヴェネツィアのガレー船は漕ぎ手が自由民であるため、枷の類はない。


 そのため、いざ敵船に接舷し、白兵戦になると、漕ぎ手もまた一斉に甲板に躍り出て、武器を手にして戦う。


 身動きが取れない他国の漕ぎ手と違い、自由民であるからこそ、自由と故郷のために武器を手に取り、水兵らと共に肩を並べて戦う事も辞さないのだ。


 ヴェネツィアが海戦において圧倒的に強いのも、熟練で士気の高い乗員とそれに裏打ちされた操船術、加えて圧倒的な戦力投射量に起因する。


 自由に商売するためならばどんな事も辞さない。


 これこそヴェネツィア人が、一人の例外もなく持ち合わせている魂だ。


 だが、その自由が脅かされつつあるのが現在の状況であり、とにかく急げと急かされている状況であった。


 海原を走る『自由リベルタ号』が向かうのは、ビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルではあるが、普段のようにウキウキ気分ではない。


 交易に使う商品の類は一切なく、また今回に限って言えば、割増給金を払う代わりに乗員の私的交易も禁じている。


 とにかく、最速で帝都に着く事が目的であり、船足を早めるため、出来る限り船体を軽くするための措置だ。


 載せた積み荷はたった一つ。“戦争回避のための交渉の使者”だ。


 使者を一日でも、一時間でも、一秒でも早く帝都に送り届ける事。


 これが『自由リベルタ号』に課せられた今回の仕事だ。



船長キャピターノ、どうだ? 早く着けそうか?」



 逸っているのはいるのは、何も乗員だけではない。


 積み荷である“使者”の方こそ、気が逸っていた。


 使者の名はラニエーリ=ダンドロ。


 父であるエンリコ=ダンドロもそうであるが、帝都に在住していた数千人ものヴェネツィア人の解放と戦争の回避のため、評議会の親書をたずさえ、帝都に急行している最中であった。


 道程は遠い。ヴェネツィアの港を出発して、そのままアドリア海を突っ切り、イオニア海へ出る。


 ペロポネソス半島を迂回してギリシャ島嶼部を抜け、エーゲ海へ。


 ガリポリ半島とアナトリア半島に挟まれたダーダネルス海峡を抜け、マルマラ海に入り、その奥側にあるボスポラス海峡の入口付近にあるのが帝都コンスタンティノープルだ。


 最大の市場でもある帝都は人口四十万人を誇る世界最大規模の都市で、西欧ではこれの十分の一の都市もない。


 まさに世界に冠たる大都市だ。


 交易のために赴くことも、ヴェネツィア人にとっては珍しくもなく、今進んでいる航路も見慣れたものだ。


 だが、逸る気持ちが船足を遅いものと勘違いさせてしまう。


 それほどまでに、ラニエーリは急いていた。


 そんな焦る使者に対して、熟練の船長はその気持ちを宥めすかした。



「ええ、大丈夫ですよ。今回は積み荷はないですので、喫水面が浅い。水面を切るというよりは、滑る感覚に近いですな。おまけに、風向きも良好。予定よりも四、五日は早い到着になるかと」



「そうか。ならば良い」



「ただ、水や食料も最低限しか積みませんでしたので、一度、アテネに寄港して、それからコンスタンティノープルに向かいます。寄港と言っても、水や食料の最低限の積み込みだけですし、時間もかかりません」



「うむ。船の事は船長に任せる。とにかく少しでも速く帝都に向かってくれ」



「分かってますって。私としても、戦争は嫌ですからね」



 どうやら船長は事情を聴いているらしく、こちらの状況も把握してくれているのだなと、ラニエーリは考えた。



「そうか、船長も戦争は嫌か」



「当たり前ですよ! 間違ってもビザンツ帝国と事を構えるなってなったら、国家総動員体制です。普段商船として使っている船も、臨時改装で軍船に様変わり。その間、貿易が止まってしまいますからね。とんでもない損失だ」



 いかにも商魂たくましいヴェネツィア人らしい回答に、ラニエーリもついつい笑ってしまった。


 まさにその通りだ、と。



「そうだな。我々は商人だ。自由なるヴェネツィアの商人だ。右から左へ流すのは“商品”であって、“人の血”ではない」



「そうですとも。売れるものは何でも売るのが、我らヴェネツィア商人です。業突く張りだの強欲だなどと陰口を叩く輩も多いですが、商人ならば稼いでなんぼです」



「だが、魂だけは売れんがな」



「まったくもって! 何でも売るとは言っても、魂だけは出せませんな!」



「それを守るために行くのだ。頼むぞ、船長!」



「言われなくても! お~い、野郎共、力いっぱい漕げよ! 我々が我々であるために、自由な商売を維持するために、さあ、目指すは帝都だ!」



 船長の掛け声の下、甲板下の漕ぎ手部屋から威勢のいい掛け声が返って来た。


 彼らもまた自由な民であり、一人一人がヴェネツィアの魂を持つ商人でもある。


 何物にも縛られない自由な民、そして、交易して儲けたいという商魂。


 その共和国の気風を守るため、『自由リベルタ号』は大海原を全速力で駆け抜けていった。

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