第3話 激発

「報復せよ! 報復せよ! ビザンツ帝国の横暴を許すな!」



「これはジェノヴァやピサの連中が仕組んだ陰謀に違いない! 非道を許すな!」



「ヴェネツィアを甘く見るな! ただちに海上封鎖を行って、コンスタンティノープルを干上がらせてしまえ!」



 “ヴェネツィア国家共同体ヴェネツィアン・コミューン”議場の前は民衆で埋め尽くされ、口々にコンスタンティノープルで発生した事件を非難していた。


 速やかなる報復措置と人質解放を訴え、その怒号は議場を揺さぶるほどだ。


 それほどまでに民衆の怒りは大きく、それを抑えるのに統領ドージェミキエーレは頭を抱えていた。



「まったく、とんでもない事になったな。ただでは済まんぞ、これは」



 彼だけではなく、他の議員達の顔色も暗い。


 コンスタンティノープルからの報告が届くまで、商売だ貿易だといつもと変わらぬ日々を過ごしてきたというのに、いきなりの戦争の危機だ。


 冷静に先を見通せる者達程、暗い未来を考えてしまうものだ。



「ですが、このままでと言うわけにも行きますまい」



「左様! なんらかの報復措置を取らねば、我らヴェネツィア市民が四百年もの長きにわたり維持してきた、共和制の精神が貶められる事にもなりかねません」



「しかし、コンスタンティノープルの同胞が人質に取られている。それを無視して事を起こしては、彼らの身に危害が加わるやもしれん」



「だからと言って、このまま大人しく相手に頭を下げろと!? まったくの濡れ衣なのだぞ!?」



「話が通じるとは思いません! どうにも我らの持つ貿易特権の廃止を目論んでるのではないか!?」



「だが、それは戦争の際に我らの輸送力や海上戦力をあて・・にすればこそだ。船や人員を供出し、その見返りとしての優遇措置だ。それを今更……!」



「新興のジェノヴァにしろ、ピサにしろ、それらは面白くないでしょうからな」



「そうだ! 今こそ我らの力を示す時! 陸はともかく、海の支配者は誰なのかを、今一度教えてやるべきです!」



 外で騒ぐ熱気に当てられてか、評議員の中にも強硬論を唱える者が多い。


 難しい舵取りを迫られるなと、ミキエーレの悩みがますます深くなっていった。


 分かっていた事とは言え、商売だけに邁進していればよいというわけではない、と言う現実を突き付けられての悩みだ。


 海に船を浮かべ、商品を満載して、あちらの港へ、こちらの港へ。


 品物と人を動かし、その対価として金を得て、次なる商売や事業に繋げていく。


 そして、綿々と受け継がれてきたヴェネツィア共和国も、武力の前ではどうする事も出来ない。


 そうした現実を弁えればこそ、海軍を整え、いざと言う時に備えてきたのだ。


 だが、備えてきたからと言って、それがすぐに実行に移せるわけではない。


 東の大国であるビザンツ帝国と事を構えるという事は、同時に最大の顧客を失う事を意味する。


 いくら大量の船を持っていようとも、入港できる港がなければ商売は成り立たない。


 むしろ、濡れ衣であってもそれを認め、賠償金でも払った方が結果として損害が少なくなるのではないか、という打算もある。


 しかし、魂がそれを拒絶している。


 帝国の臣民ではなく、共和国の市民としての独立独歩の気風があってこそのヴェネツィア商人なのだ。


 契約を一方的に破棄し、暴虐の限りを尽くす。そんな相手に首を垂れるなど、彼らの独立商人としての矜持が許さないのだ。


 表で騒いでいる民衆も、議場で怪気炎を上げている評議員も、その独立商人としての魂を燃え上がらせていればこそだ。


 打算や損得勘定だけではどうしようもない部分がある。


 独立の気風を失えば、それこそ根から腐る。


 そう思えばこそ、ミキエーレもまた、熱を上げる連中に賛同したくもあるのだ。


 どうしたものかと悩んでいると、ミキエーレはふと議場の端に控えている若者に目をやった。


 若いと言っても、議員の平均年齢を考えればこその話であり、立派な壮年の男でもある。


 名をラニエーリと言い、現在コンスタンティノープルに特使として派遣しているエンリコ=ダンドロの嫡子だ。


 本来は議員ではないのだが、父の身を案じてミキエーレに訴え出て、そのまま議場に居残っていたため、この場にいたのだ。



「あ~、ラニエーリよ、君はどう思うかね?」



 ここで唐突にミキエーレが議場の隅にいたラニエーリに話しを振った。


 一応、父エンリコの代理とも言えなくもないが、共和制国家のため原則として“世襲”と言うものは存在しない。


 そのため議員でもないラニエーリには、本来ならば議場での発言権はない。


 しかし、“人質に取られている者の身内”という立場もあるため、ギリギリ意見を述べれる立ち位置でもあるための質問でもあった。


 ところがラニエーリはそれをよしとしなかった。


 首を横に振り、ミキエーレからの質問を拒絶。


 あくまで、議員でないのだから発言は控えるべきであるとの意思を示した。



「構わん。この場で最もコンスタンティノープルでの出来事に平常でいられないのが、君なのだ。多少の無礼は許そう」



 しかし、ミキエーレも引き下がらず、再度の発言を促した。


 ともかく、議場の中にすら外の熱にあてられ、開戦の機運が高まっている。


 僅かでもよいから、それに冷や水を浴びせて欲しいというのが統領ドゥージェの意思だ。


 ラニエーリもそれを察して、恭しく議場にいる議員達に頭を下げて、それから登壇した。



「僭越ながら申し上げますが、まずは何においても開戦は避けるべきかと思います」



 当然、父を人質に取られているラニエーリからすれば、そう言わざるを得なかった。


 そして、こちらも当然ながら開戦積極派の評議員からヤジが飛ぶ。



「何を気弱な事を言っている!」



「そうだ! これは国家としての矜持や立ち位置の問題だ!」



「濡れ衣を着せられながら、その着せてきた相手におめおめ頭を下げろと!?」



 しかし、ラニエーリも動じない。


 こうしたヤジが飛んで来るのも分かり切っていたので、慌てる事もなかった。



「では、質問をいたしますが、もしコンスタンティノープルで身柄を拘束された者達が、船首バウ帆柱マストに括り付けられていた場合、その船に向かって矢弾を撃ち込む事が出来ましょうか?」



 半ば脅しとも取れる問いかけに、さすがに開戦積極派の議員も鼻白んだ。


 人質諸共、敵船を沈めれるのかと問われれば、答えに窮する。


 勇ましい事を言ってはいるが、やはり家族や同胞の事も考えねばならない。


 ミキエーレの期待通り、ラニエーリが上手く冷や水を浴びせてくれた格好となった。



「そこで一つ、提案がございます」



 ここでさらにラニエーリが畳み掛ける。


 会話の主導権を握る事に成功した以上、これも黙って返すつもりはなく、果敢に攻め込むべきだとの判断だ。


 大人しく見えて、その性格は豪胆。そこは父親譲りかとミキエーレも満足そうに頷き、続けての発言を許した。



「まず何においても、人質の解放を優先すべきかと思います。そのため、私が使者としてコンスタンティノープルに赴き、予備交渉を行ってこようかと思います」



「おいおい、今や帝都は敵地に等しいのだぞ? 大丈夫か?」



「ですが、統領ドゥージェ、このままいけば、市民の熱気に当てられ、思わぬ方向に船が進みかねません。流れが濁流に変わる前に、どうにか穏便に済ませられる方法を探るべきかと」



「ふむ……。皆、“人質の親族の代表者”がこう述べているが、どうであろうか?」



 ミキエーレからしても、ラニエーリの提案は悪いものではなかった。


 どうにか穏便に、開戦ではなく交渉で決着を付けたいと考えていただけに、その提案は受け入れやすいものであった。


 しかも、危険な使者の選出に悩まなくてよいというのも申し分ない。


 なにしろ、“人質の親族の代表者”が率先して開放に動くと明言したし、その豪胆さや弁の巧みさも今現在示してくれており、能力的にも問題はない。


 そうした事象を全部見せた上で、他の議員の意見を聞く事が出来た。


 おおよその議員は賛意を示してくれたが、やはり開戦積極派は難色を示していた。


 議場の外ではなおも市民が叫んでおり、そうした市民感情を重きに置いたがゆえの態度だ。


 下手に開戦はしないなどと述べては、市民の怒りが評議会の方に向きかねないという懸念もあり、矛を下げる事も出来ない。


 そんな積極派の態度を見て、ラニエーリは今一度頭を下げて、意見を発した。



「しからば、開戦する“ふり”をするというのはどうでしょうか?」



「ほう、“ふり”とな?」



「はい。私はこれより使者としてコンスタンティノープルに向かいますが、移動時間や交渉の時間というものがあります。その“時間”が流れている間に、市民感情が激発する可能性があります。しかし、いざ開戦の準備をするとなると、表面的には落ち着くのではないでしょうか?」



「おお、なるほど。市民は報復を求めている以上、戦争の準備に入ったとなればひとまずは暴動を回避できるというわけか」



「左様です。もちろん、準備が徒労に終わってくれるのが一番でしょうが、いざ開戦となった場合も準備だけはしているので、交渉が決裂した場合以降の動きも迅速に行えるでしょう」



「そうだな。まずは交渉。しかし、時は稼がねばならない。ラニエーリ君の意見は理に適っているな。……そういう事でどうだろうか? これで市民の怒りがこちらに向く事はないと思うが?」



 渋っていた開戦積極派にミキエーレがとどめを刺しに行った。


 そうまで言われては、流石に返しようもなく、渋々ながら同意の意を示してきた。


 まずは交渉。これが“民意”として決定された。



「よろしい! では、意見も決したことであるし、次に行動に移ろう。ラニエーリ君、すぐにでも皇帝陛下宛ての親書をしたためるので、直ちに出立してくれ。足の速い船を用意させる」



「はい! 非才ながら、勤めに励ましていただきます!」



「うむ。他の者は直ちに戦支度を始める! ただし、勝手な行動は厳に慎む事! ラニエーリ君の帰還を待って、その後の行動に移す。それまでは市民の感情を鎮める事を優先するように!」



 会議中はごたついていても、方針が決まったからには動きが早い。


 全員ズバッと立ち上がると、即座に自分がやるべき行動に移った。


 ラニエーリもまた、評議会名義の親書を受け取ると、直ちに海へと乗り出した。


 船上で感じる海風はいつも心地よいが、今はそんな事を楽しむ余裕はない。


 父エンリコに加え、その他人質数千人が自分の肩に、あるいは“口”にかかっているのだ。


 早く帝都に着くようにと、神に祈りながら、良い風を待つのであった。

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