第2話 ヴェネツィア共和国
牢屋に放り込まれたエンリコは、改めて自分の人生について思い返してみる事にした。
彼の故郷であるヴェネツィアは、イタリア半島の東側、アドリア海の半島の付け根付近に位置する都市だ。
地中海を所狭しと貿易、海運に精を出す世界最大級の港湾都市であり、その繁栄ぶりを知らぬ者はいない。
エンリコはそんなヴェネツィアの名門ダンドロ家の当主でもあるが、彼の事を知る者は意外と少なかったりする。
と言うのも、エンリコの父ヴィターレは極めて壮健な人物であり、齢八十を過ぎてもなお精力的に商売に奔走。
そのヴィターレが亡くなるまで、エンリコは常に父の陰で補佐役に徹し、あまり表で活躍する機会がなかったためだ。
そうした事情もあって、エンリコは影の薄い男で、ダンドロ家の家督を継ぎ、表舞台に出た時には、すでに齢六十を過ぎているという有様。
しかし、エンリコは父親同様に老いてなおますます盛んであり、闊達に商売に精を出し、ついには“
そんな議員としての初の大仕事が、東の大国・ビザンツ帝国との折衝であった。
「人生六十年を過ぎ、ようやく回ってきた大舞台。しかし、これでは国元に帰る事すらままならんぞ」
牢屋に身を置く事となり、改めて己の不運さを呪うエンリコ。
気の重さは、漂う牢屋の空気そのものと言っても良いくらいである。
ビザンツ帝国はヴェネツィアにとって、最大の商売相手だ。
元々ヴェネツィアはイタリア北東部にあるヴェネト地方、そこの住人の“避難所”としての場所であった。
かつて世界を支配したローマ帝国の衰退と共に、イタリア半島への異民族の侵入が相次ぎ、ヴェネツィアのあるヴェネト地方もその例外ではなかった。
そのため、異民族が侵入してくると家財を放り出して船で海に出て、ヴェネト干潟の湖沼地帯の島々に避難をしていた。
やがてその島々に定住するようになり、徐々に町が築かれていった。
それがヴェネツィアの始まりだ。
塩を作り、魚の干物を作って商売をするなど、今の繁栄ぶりを考えれば、その端緒はささやかなものであった。
しかし、ポー川を始めとする河川の水運を利用し、内陸部まで商売に出かけると、塩や干物は意外なほどに金になる。
ささやかではあるが、徐々に力を付けていった。
そして、そんな田舎の漁村程度でしかなかったヴェネツィアが飛躍する契機となったのが、6世紀のビザンツ帝国ユスティニアヌス大帝の時代の事だ。
当時のビザンツ帝国の軍総司令官ベリサリウスの要請を受け、その助成を行った事がヴェネツィアを変質させた。
ベリサリウスの行ったイタリア半島への再征服事業に貢献。その海運力の高さを評価され、より幅広く海に乗り出す事となった。
それ以降、ヴェネツィアの成長は著しく、その重要性が認知されるようになると、方々の勢力から引く手数多。
海戦においてはヴェネツィアが味方した方が勝つ、とまで謳われるほどだ。
ヴェネツィアは東西欧州の狭間と言う絶妙な立地と、優れた海軍力と海運力を武器に、東西世界を巧みに遊泳し、ビザンツ帝国に対して一応の“形だけ”の臣従をして、“共和国”として独自の道を歩んできた。
共和国であるため、ヴェネツィアには“王”はいない。
代わりに選ばれた代表者で運営される“
そして、選挙で選ばれた議員の内、一人が全体のまとめ役である“
いつかは
しかし、長生きだった父ヴィターレの死去に伴い、ようやくにしてダンドロ家の家督を手にし、さあ自分の思い描いた輝かしい未来を目指して船出したはいいものの、いきなりの難破である。
議員としての初めての大仕事と意気揚々と出かけてみれば、よもやの投獄だ。
空気は澱み、陽の光もほとんど差し込まない牢屋のごとく、自身の未来はお先真っ暗だと言わんばかりだ。
自身ではまだまだ元気でいるつもりであっても、牢屋の石畳から発せられる微妙な冷気は、思いの外に体にくるのだ。
なんだかんだ言っても、齢は六十代も半ばに入ろうとしている。
気持ちは若いままでも、身体は正直なのだなと自嘲した。
「さてさて、まずはどうにかして、戦争になる事だけは回避しなくてはな」
それだけは絶対条件であるとエンリコは自分に言い聞かせるも、囚われの身ではどうする事も出来ないと嘆いた。
「
ヴェネツィアは“共和国”であり、統治者は“王”ではなく、民に選ばれた“
そのため、民衆の力が大きく、それが暴発する事にもなると止めにくいという懸念がエンリコにはあった。
それが如実に表れたのが、フランクの帝王・シャルルマーニュがイタリア半島に触手を伸ばしてきた頃の話だ。
九世紀初頭、ヴェネツィアの評議会はシャルルマーニュの猛威に恐れをなし、これに臣従しようとしたが、それに対して民衆が大反発。
「我らは栄えあるローマ市民であり、フランクなどという
栄光あるローマ市民、それが民衆の心の支えであり、目の前に展開するフランク王国の大軍勢と言う現実よりも、ローマの矜持を優先させた。
危うい場面もあったが、結果として、それは上手く立ち回れた。
陸部を完全に抑えたフランク王国軍であったが、海上にあるヴェネツィア本島を押さえる為の海軍が未整備であったため、地元の海を縦横無尽に駆け回るヴェネツィア海軍に翻弄された。
そうこうしている内に、一応の宗主国であるビザンツ帝国の援軍が到着。
東西の大国の狭間で揺れ動きながらも、どうにか独自性をヴェネツィアは維持できた。
「しかし、当時と今とでは情勢が違う。ビザンツ帝国自身がこちらに掣肘を加えてきたのだ。これに対抗するには、海軍だけでは事足りぬ。神聖ローマ帝国の
とにかく軽挙は避ければならないが、民衆にその冷静さを求めるのもまた酷な事だ。
なにしろ、コンスタンティノープルに在住していた数千のヴェネツィア人がいきなり逮捕されたのだ。
これを取り戻せ、報復だと騒ぎ立て、一気に開戦へと傾く懸念がある。
“王”がおらず、“民”の意見が国を動かす以上、そのうねりのごとき意志の渦は、動き出せば止める事もできなくなる。
どうにかせねばと言う焦りもあるが、囚われの身であるエンリコにはどうする事も出来ない。
たとえ、身代金を払ってでもこれで解放されるのであれば、そうするべきであるとエンリコは考えていた。
金、金、金。清貧を旨とするキリスト教においては、商人などと言う存在は悪魔の手先だなどと思われる事もしばしばだが、そんなものは現実を見ていない愚者の戯言だとしか思ってはいなかった。
金で解決できるのであれば、金で解決を図るべきだ。
問題は、ヴェネツィア市民の矜持が、その屈辱を許容できるかどうか、ただそれだけなのだ。
しかし、彼の懸念は“悪い方向”に的中してしまうのであった。
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