ヴェネツィア=東ローマ戦争
第1話 投獄
「皇帝陛下! これは如何なる所業にありましょうか!?」
男は玉座の間に響くほどの大声で叫ぶ。
男の名はエンリコ=ダンドロと言い、貿易都市ヴェネツィアの商人だ。
齢はとうに六十を過ぎており、老人と呼ぶに相応しい白髪頭、あるいは皺の走る顔をしている。
しかし、体中から迸る熱気が、そうした老いを感じさせず、軽く十歳は若く感じさせるほどに闊達な男だ。
そんなエンリコだが、今は“罪人”として引っ立てられていた。
彼はヴェネツィアの商人であると同時に、“
選挙で選ばれた者が顔を連ねる議会であり、ヴェネツィア共和国の舵取りを行っている組織だ。
その議員の一人がエンリコなのだが、今は特使として東の大国・東ローマことビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルを訪れていた。
ヴェネツィアは一応ビザンツ帝国の一部ではあるものの、ほぼ独立した国家としての自治権があり、『ヴェネツィア共和国』を名乗っている。
民主的な選挙で代表者を選び、国家を運営する。
共和国を名乗るに相応しい国家形態と言えよう。
そんな民主的に選ばれた議員の一人がエンリコなのだが、使者として帝都に到着して、数日も経たない内にいきなりの逮捕の憂き目に合った。
しかも、それは彼だけの話ではない。
帝都に在住していたヴェネツィア人を“根こそぎ”である。
割り当てられた居住区や大使館が突如として兵士に取り囲まれ、女子供も関係なく捕吏に身柄を拘束された。
財産も差し押さえられ、一人残らず囚われの身となる驚天動地の出来事だ。
エンリコは特使であり、また議員の一人でもあったので、帝国側からは共和国側の代表者と目され、ただ一人、皇帝の前へと引き出された。
「ご説明願えますか!? 一体、何の訳あってこのような事を!?」
エンリコの目の前には、ビザンツ帝国の皇帝マヌエル1世がいる。
訳の分からぬ内に捕らわれたエンリコや、その他のヴェネツィア人であったが、マヌエルの顔からは怒りが吹き出していた。
その時点で、何かしらの理由あっての事と推察できたエンリコではあったが、特に思い当たるふしはなく、困惑するだけだ。
とても数千からなる帝都在住のヴェネツィア人を、一斉検挙するなど、暴挙や狂気としかエンリコには映っていなかった。
皇帝マヌエルもまた、玉座から罪人を見下ろし、不快感をあらわにする。
とても、特使に対しての態度ではなく、そういう意味においてもエンリコをさらに混乱させた。
そして、もったいぶるかのように、ようやく皇帝が口を開いた。
「昨日、帝都のジェノヴァ人居住区で火事が発生した」
「…………? それが何か?」
「お前達、ヴェネツィア人の仕業であろう!? お前達が付け火をしたのだ!」
「な、何の証拠があってそのような事を!」
いきなりの濡れ衣に、エンリコは激高した。
「付け火など心外であります! 一体、何の益があってそのような事をすると、こちらに嫌疑をかけられるのですか!?」
「そもそも、お前達、ヴェネツィア人とジェノヴァ人は仲が悪い! 商売敵だからな! 歴史としてはヴェネツィア共和国の方が古いが、ジェノヴァ共和国もまた貿易都市として、最近の成長著しい。それをやっかんでの事だろう!?」
「濡れ衣です! 確かに、ジェノヴァは商売敵ではありますが、最大の市場であるコンスタンティノープルでの騒乱など、商売上の混乱を招くだけです! 付け火など、とんでもない話でございます!」
「黙れ! 怪しげなヴェネツィア人と思しき者が、出火の直前に目撃されているとの話も出ている! 見苦しい言い逃れをするな!」
何を言ってもダメ。完全に犯人扱いだ。
むしろ、ジェノヴァ人による“自作自演”ではないかとさえ、エンリコには思えてきた。
ジェノヴァもまたヴェネツィア同様、優れた港を有する貿易都市であり、皇帝の言うように急成長した勢力だ。
ローマ法王庁より発せられた東方遠征、即ち“
一方のヴェネツィアは十字軍にはそもそも乗り気ではなく、一応は同じ神を奉じる者として輸送等で十字軍戦士をパレスチナへと送り届けた。
結果として、熱心に動き回ったジェノヴァが東地中海に進出する契機を与える事となり、東方への交易路をジェノヴァに割り込まれる形となった。
後発の貿易都市との侮りもあって、ヴェネツィアとジェノヴァの差は埋まりつつあり、議会も最近になってようやく危機感を覚え始めたほどだ。
そうした事もあって、エンリコは評議員の一人として帝国領域での商売を円滑に進めるための折衝に、帝都へ赴いてきた理由だ。
それがいきなりの逮捕劇に、もはや成す術がなかった。
(大きな勢力である我らがヴェネツィアの力を削ぐため、帝国かジェノヴァ、いずれかが仕組んだ事なのだろうな! クソッ、後手に回ってしまった!)
何度も丁寧に弁明を試みるも、皇帝は一切聞く耳を持たなかった。
まるでそうする事が決まっていたかのように、粛々と処分が下されていった。
逮捕、財産没収、港湾施設の使用禁止、予定されていたかのような手際の良さだ。
エンリコもまた、その老いを感じさせない老体を、薄暗い牢屋の中に放り込まれる事となった。
六十を過ぎて、ようやく回ってきた大仕事の、その第一歩がとんだ大事件に巻き込まれてしまった事を、彼は自分自身を呪った。
そして、それ以上に濡れ衣を着せてきた帝国、そして、ジェノヴァに恨みを抱いた。
いずれその報いを受けさせてやる、と。
身を投げ出す石畳は不快なほどにひんやりとしているが、彼の魂の炎は決して冷めることなく、煌々と火を灯すのであった。
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