第45話 蹴・庇・刃
ー「……………………」ー
その空間は、さながら楽園のようだった。
鈍い音と勝輝のうめき声が奏でる音楽。
それを合いの手の如く修飾していくのは歯が砕ける音。
いい気味だった。
ずっと嫌いだったクソ野郎の鼻を曲げていくのは楽しかった。
俺の
抵抗しようと勝輝が腕を使って起き上がろうとする度、足でじたばたと暴れて俺を払おうと必死にもがく度、勝輝の顔面に踵をめり込ませるつもりで踏み抜いた。
…こんなんじゃ足りない。
もっとだ。しっかりと殺さなきゃ駄目だ。
…ふと視線を感じた。
凛央さんがうずくまりながら、怯えた顔で俺を見ている。
でも、きっとそれは錯覚だ。
凛央さんは暴力が嫌い。
そんなイメージを勝手に持った俺が、視覚を勝手に書き換えているに違いない。
きっと凛央さんも笑っているに違いない。
きっと凛央さんも嬉しいに違いない。
背中と脇腹を蹴り飛ばし、唾を吐かれた張本人が死ぬんだから。
…おっと…。
「ちょおおしのんぁぁ゙ぁぁぁ゙ぁ゙ぁ゙!!!!」
ついよそ見をしていたら、勝輝が起き上がってしまった。
勝輝はそのまま壁に背中をつけると、俺を今にでも殺そうとしてきそうなほどの憤怒を宿した目で見てきた。
しかし、お前はどんだけ頑張っても所詮怒る程度だろう。
俺や凛央さんはそれを越えて怨念を抱ける。
ここにもお前との間に差があったな。
俺は冷静にそう分析していた。
「てぇめぇええ!!おれはぁあぁ゙!
おやにこんなことさせるために、てめえをつよくしたんじゃないんやぞおおぉ!
わぁぁ゙かっとんのかぁあぁ゙ぁ゙?!!」
歯の折れた口で勝輝が組み立てた言葉は
ただ感情をぶちまけただけの残念なものだった。
そりゃそうかもしれんな。
剣道なのになんでか知らんけど蹴りも教えてきたもんなお前。
お前は俺をどう育てたかったんだろうか。
忍者や殺し屋にでも成ってほしかったんだろうか?
分からねぇ。
そういやカタカナや英語を遠ざけてた理由も分からねぇ。
分からねぇことだらけだな。
「…知らんわそんなん。」
俺は今日まで、一切勝輝に逆らってこなかった。
それ故に、俺がぽつりとそう呟いただけなのが信じられなかったらしい。
勝輝はまたしても、顔を真っ赤にして肩で呼吸をしていた。
しかしさっきと違うのは、顔の紅潮だけでなく、鼻血も赤く見える要因なとこだ。
奴は以前俺を近づけまいと拳を握ったまま。
俺はそれを見て、小さなザリガニを連想していた。
小さな鋏を見せつけて、震えながら必死に相手を威嚇する、小さな小さなザリガニ。
哀れだなんてとんでもない。
寧ろ一層殺したくなってくる。
凛央さんと同じ空間で息吸ってんじゃねぇ。
それだけで殺す理由なんか十分だ。
勝輝は俺に殴りかかってきた。
俺より数段デカい図体から繰り出されるその打撃はふらふらで、筋の通っていない稚拙な一撃だった。俺はそれを
直後勝輝はボールを蹴るような要領で、屈んだ無防備な俺を蹴飛ばそうとした。
まぁこんくらいは受けてやるか。
そう思ったが
俺は突然赤い何かに突き飛ばされた。
「うっ…!
………もおっ……やめてよぉ……」
それは凛央さんだった。
彼女はまたしてもうずくまった。
なんでだよ。
既に背中と腹に重たい打撃をもらっているはずだ。
だからこそもう動けないと思っていただけに、俺は驚愕した。
痛みに悶える凛央さんを再び目にし
動けなくなった。
「ああああああ!!!
庇うなクソがああ!!!」
勝輝は髪を掻き毟り、唾を飛ばしながらそう叫んだ。
その声は家の外にも聞こえているのではと思う。
しかしそれを聞いたところで、ここまで凄惨な絵が出来上がっていることなんか想像できまい。
家具が乱れ、床には血が飛び散り、
ボロボロで血まみれの男が叫んでいるのを
涙で顔をがくしゃくしゃになった餓鬼と女が聞いている。
よく考えりゃ地獄そのものだ。
勝輝はまたしても俺に殴りかかってきた。
でもそれを、またしても凛央さんが庇って攻撃を受けた。
終いには俺に覆い被さって、何度も何度も蹴りを入れてくる勝輝から、完全に俺を護る体勢になった。
凛央さんが3発ほど蹴られてから、やっと俺は自分の置かれている状況を飲み込んだ。
「はっ!? 凛央さん!!凛央さん!!!
もうやめろよお!!」
「、…ッッッ…………ッ………のりおには…もう痛い…思い……させな…いッ……」
「どおけよクソ女がああぁ゙ぁ゙ア゙!!!!」
それでもなお、俺は動けなかった。
凛央さんが重いからじゃない。
そもそも凛央さんは、そんな重くない。
彼女のことをどかそうと思えばどかせれただろうし、勝輝の足元を払うなり、なんなりできることがあっただろうに、俺は動けなかった。
俺はただ眺めていただけだった。
ただ凛央さんのうめき声と鈍い音を聞いて、凛央さんの息遣いと勝輝の蹴りが空を切る感覚と振動を感じながら、自分の無力さと肝心な所で動けない無能さを呪った。
もう覚えていない。
凛央さんがどれだけの蹴りを浴びせられたかなんて。
そして勝輝は荒々しい足取りでキッチンに入っていき、なにやらがこんがこん音をならして棚を物色しだした。
やがて奴が手にして現れたのは
おぞましいほど鮮やかな
銀色に近い鈍色の、鋭利な包丁だった。
「…やめろよ………」
俺の体は動かない。
血走った勝輝の目ん玉を見た瞬間、さっきまでの威勢が嘘のように削がれた。
俺は結局こいつに逆らえないのか。
結局こいつに屈したままか。
変わっちゃいねぇな。
大切な人を守れないまま。
大切な人に護られたまま。
凛央さんの汗が俺の頬に垂れた。
涙かとも思ったが違った。
汗だった。
冷や汗なのかなんなのかは分からない。
「凛央さん…」
「…のりお……」
俺は夢の中にいるような感覚と、目眩のするような朦朧とした意識の中で
ぶすり
肉が破ける音を遠くに聞いた。
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