第29話 一つ貸しです

 ずっとアトリエにこもってどのような作品にするかアイディア出しのデッサンをしていると、不意に扉をノックする音がした。



「ここにいるのかい?、スヴニール」



扉を開けて躊躇いがちにアトリエ内へ入って来たマルクさんが、足元を見て思わず立ち止まる。



「ああすみません、滑るので気をつけてください。僕は先生のそれで二度転びました」



思いつくイメージを無我夢中で描き出していたら、アトリエの床一面を紙だらけにしてしまっていた。

 あははと頭に手を当てていると、マルクさんはそれを何枚か拾い上げた。



「これをお前が…?」


「いい案が思いつかなくて。今までは先生の作品の手伝いばかりで、一から自分で作るのは初めてなんです」



小さくなりつつある鉛筆を再び紙の上に走らせていると、彼は感心したように他のデッサンも眺め始めた。



「画家になれるんじゃないか?。絵が描けるなんて知らなかったぞ」



その後もずっとアトリエをうろうろするマルクさんに、まさか気が散るなどとは言うことが出来ず、仕方なく静かに鉛筆を置く。



「コレットとマチアスは元気にしていますか」



マルクさんの家でお世話になっていた時、僕の三つ下と五つ下の姉弟、コレットとマチアスの面倒は忙しい奥さんに代わって僕がよくみていた。



「ああ。やっとの思いでマチアスを学校に通わせているよ。二人ともお前に会いたがっている」



手をつけずにとっておいた、彼に返されてしまったお金のことを思い出す。



「育ててもらった恩もありますし、やっぱりあのお金は受け取ってください。それで旅行でもして体を休めてください」


「一度断っただろう。でもまあ…そこまで言うならお前も一緒に旅行へ行くというのなら受け取ってやる。お前も大切な家族だからな」



それでマルクさんたちに恩返し出来るならと、自然と笑みがこぼれる。また拒否されるのではないかと不安に思っていたから、受け取ってもらえてほっとした。



「奥さんもお喜びになるんじゃないでしょうか」



彼は目を瞬いてから、軽快に笑った。



「いやいや、あいつとコレットは留守番に決まっているだろう?。女には旅の土産話だけで十分だ。スヴニールも面白い冗談を言うようになったんだな」



口をきつく引き結んだ。

 マルクさんのことは好きだ。けれど、彼のこういった考え方には賛同できなかった。自分を引き取ってここまで育ててくれたのも、友人の子どもであることと僕が男であることの二つの条件が揃っていたからだろう。悪気は決してなく、ただ彼自身そういう考えの基に育ったからそれが当たり前なだけなのだろう。



「夕食の準備が整いましたよ。さあさ、冷めないうちに召し上がってください」


「おお、それはそれは。急いで席につかなくてはな」


「僕は遠慮します。モルガンおじさんともっと向き合いたいので」


「寂しいことを言うなスヴニール。骨なんかをいじるのは後にして、久しぶりに話そうじゃないか」



何も言えずにいるとラフィネさんが助け船を出してくれた。



「いいじゃありませんか。代わりに私がお相手しましょう。是非、ムッシュー・マルクのお話をお聞かせ願いたいたく存じます」



本当は、ラフィネさんはマルクさんにこれっぽっちも興味がないのだと僕にはわかるけど、マルクさんは上手くのせられてくれたようだ。

 マルクさんが機嫌よくアトリエを出て行くと、ラフィネさんは去り際に片目を瞑った。「一つ貸しです」とのことらしい。

 でもおかげで集中できる。

 マルクさんの話に思うところはあったけれど、今はモルガンおじさんの死に思いを馳せよう。

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