淡き鏡の中
ノロア
淡き鏡の中
今日は何も変わらない、平凡な日常だったはず。
学校終わりの夕方。
突然、目の前に"もう一人の自分"が現れたのであった。
「待ってこれ笑える!」
「ちょーおもろいよね!」
クラスメイトの甲高い声と笑い声が聞こえる。
「芽依」はそれに目も当てず、スクールバッグに荷物を詰める。
(元気で良いよねぇ…。)
そう、心の中で悪態のような言葉を放つ。
そしてバックを肩にかけ、走り去るようにさっさと教室から姿を消す。
ここは女子校の為、皆が品性をかなぐり捨てて騒いでいる。
耳障りとかの話ではない。
授業の邪魔になることばかりして、芽依は彼女達に呆れることしかできなかった。
校舎から出て帰路についた時、芽依は先程のクラスメイトの様子がふと脳裏に浮かんだ。
ああやっていつもテンションが高くて、直ぐに友達と群がるような子たちはあまり得意ではなかった。
所謂、日向にいる人。
とても眩しく見えるけれど、芽依はその子たちのようにはなりたくはなかった。
ピアスや髪の染髪、校則を破る行為をしなきゃ楽しめないような子たちだと、芽依の中では軽蔑の部類に入っていた。
しかし芽依には友達がいないので、傍から見ればただの嫉妬になってしまうのだろう。
そのため、芽依のその感情は誰にも明かさず心の内に秘めている。
(まあこんなこと考えたって、時間の無駄なんだけど…)
そうやって無駄な思考を巡らせていると、気づけばもう家の前に立っていた。
「はぁ…」
芽依は周りに誰も居ないことを確認してから、夕方の空にため息を吐いた。
家族とご飯を食べてから、芽依は自分の部屋のベッドで漫画を嗜んでいた。
(この時間が一番楽しいよねぇ)
唯一何も考えないでいられる時間であるこの一時が、芽依にとっては癒やしだった。
別に学校が苦痛という訳では無い。
授業はつまらなくもないし、勉強が嫌いでもない。
あの騒がしいクラスメイト以外は気障りは無い。
そんな事が頭を過ぎったため、芽依は漫画を読むのを止めてベッドの上に寝っ転がる。
「…私もいつか、漫画の主人公になれるのかな…」
そう、独り言を溢す。
いつも明るくて、誰からも頼られる。
責任感に満ち溢れ、誰かを助けられる。
そんな人に、芽依はなりたかった。
でもそれはせいぜい漫画の中のお話。
芽依はそれを弁えているつもりだったが、いつの間にか妄想の中に身体を浮かせているのがいつもの流れ。
すると芽依はおもむろに漫画の表紙を見つめた。
芽依が望む将来像が瞳に映る。
しかし、その時だった。
何かが芽依の顔に影を落としたのだ。
そしてそれを目で確認するより先に、声が聞こえた。
『ねぇ、何読んでんの?』
突然のあどけない声に、芽依は混乱し
「…え?」
と阿呆みたいな声を出した。
そしてその影に目のピントを合わせる。
すると、芽依にそっくりな少女が芽依の顔を覗き込んでいたのだ。
(……はえ…?)
何が起こっているのか分からず、数秒その少女と目を見つめ合っていた。
そして少女の方が芽依の様子に呆れて首を傾げ
『え、ちょっと、大丈夫?』
と心配するように言った。
すると芽依は急いでベッドから上半身を起き上がらせた。
「……待って…これって幻覚?私おかしくなっちゃった?」
焦り気味に独り言を呟く。
芽依が起き上がるのを避けるようにした少女は芽依の横で
『幻覚じゃないよ?私はここにいるもん』
と芽依にそっと触れながら言った。
すると芽依は息を飲み、突然立ち上がって勉強机の椅子を持ち上げた。
「触らないで!あんた、誰なのよ!?」
芽依は椅子を持ち上げた手と声を震わせながら叫ぶようにそう言う。
すると少女はやっと焦ったようで
『だ、誰って言われても…私は芽依だよ?あなたと一緒!』
と早口になりながら言うが、芽依本人は何も分かっていないようでポカンとした表情を浮かべている。
『あーじゃあ、違う説明の仕方するね。私は別の世界線から来た芽依なんだ。なんというか、私は私で別の世界で生きてるの。…言葉だけじゃ分からないかもだけどね』
少女がそう説明すると、芽依は絶望めいた表情をしながらゆっくりと椅子を床に置き、ふらふらとベッドの端に脱力するように腰を下ろした。
すると芽依は自分の手を見つめる。
「…やっぱりおかしくなっちゃったんだ。病気かなぁ…」
声を震わせながらポツリと言った。
すると少女は少しムッとして、
『だから!幻覚なんかじゃないってば!』
と怒り、芽依の頬を両手で叩くように当てた。
そして無理やり顔を少女と向き合うように上にあげる。
『幻覚だったら触れないでしょ!ほら、私の手も触ってみて』
芽依は少女に促され、芽依の頬に付いた少女の手を包むように触れた。
「…うん、触れる…」
そう、少し冷静になった芽依が呟く。
すると少女は安心したように険しかった顔を和らげた。
『でしょ?これで信じてくれる?』
少女は芽依の頬から手を離しながら言う。
「う、うん、分かった。これは現実なんだね?分かった全部理解した。」
芽依は未だに焦っているようで、言葉を上手く並べられていない。
しかし一応は理解したようだ。
「それで、何をするためにここに来たの?わざわざ別の世界線?から来るってことは、何か理由があるんでしょ?」
芽依は両手を忙しなく動かしながら少女にそう聞いた。
すると少女はその質問を待っていたかと言うように目を輝かせ、意気揚々と話し始めた。
『ふふーん!よくぞ聞いてくれたね!』
芽依はその様子に啞然としながらも少女の話を聞いた。
『私はね、あなたを変えるためにここに来たの!とは言っても、これがちゃんとした説明かって言われるとなんとも言えないんだけどね…』
少女はそう苦笑しながら言った。
「…変える…って何を?容姿とかの話?」
芽依は少し混乱しながら、その「変える」という言葉の意味を知ろうとした。
少女に「変える」と称して何をされるのかが怖かったのだ。
『んー私も詳しくは分からないんだよね〜…。でも、芽依はこうなりたいっていう将来像?みたいのってないの?』
わからないのかよ…とツッコミそうになるが、芽依は将来像という言葉に反応する。
「私は…」
………誰かの力になれる人…誰かを助けられる人…誰かの涙を拭える人…。
そんな言葉が頭の中を過る。
しかしそれを口から出そうとすると、喉の奥につっかえて出てこない。
これを言葉にしてよいのだろうか。
言葉にしたら、もうそんな人にはなれないような気がして。
そんなもどかしさを感じていたその時、部屋の外から階段を登る足音が聞こえる。
「っ!」
瞬間、少女の両肩を掴み
「早く隠れてっ!」
と小声でベッドの下に潜るように促す。
『え、えぇぇなんで!?私は他の人からはぁ!』
何かを言おうとしていた少女を無視して這いつくばった少女をベッドの下に押し込む。
しかし足音はもう扉の目の前だ。
もう間に合わない…!
その時だった。
部屋の扉が開く。
少女はまだ下半身がベッドの下からはみ出している。
「(やばい…!!)」
「芽依?お風呂沸いたから入っちゃいなさい。」
そんなお母さんの声が聞こえた。
もうダメだ…と一瞬思うが、部屋に入ってきたお母さんはベッドからはみ出ている足に気づいていない。
いや、見えていないのだ。
少女の両足は激しく暴れている。
それなのにお母さんは何も反応しなかった。
「…芽依?大丈夫?」
再びお母さんの声が聞こえる。
「…あ!あぁうん!大丈夫すぐ入っちゃうね!」
芽依の返事はあからさまに怪しかったが、お母さんはその様子を訝しむことなく微笑んだ。
すると、ふと何かを思い出したように首を傾げた。
「そういえば、さっき誰かと話してる声がしたような気がしたんだけど、電話でもしてたの?」
その問いに芽依は一瞬焦るも、冷静に
「あーうん、友達と電話してたんだ!うるさかったかな?」
と眉をハの字にしながら言った。
すると、お母さんは
「あらそうだったの。ほどほどにしなさいね」
とまた微笑んで言った。
そしてさっさと部屋から出ていった。
足音が消え、芽依は凝り固まった身体をベッドに落とした。
「っはー危なかった!」
ベッドの上で仰向けになりながらそう叫んだ。
『ねーもう出ていい?ここ狭い!』
少女は文句を言いながらベッドの下から這い出てきた。
『他の人には見えないって言おうとしたのに、全然聞きやしないんだから〜』
少女はそうほざくが、芽依にはその言葉は聞こえていなかった。
翌日、まだ少女が目の前にいることに絶望しながら、学校へと向かった。
まだ火曜日という事実を忘れたい程憂鬱だ。
少女はというと、人通りの少ない道では『私の世界とどれくらい違うんだろー』とか『今日の授業はなにー?』とか色々なことを聞いてきたが、学校が近くなり人通りが多くなった道では景色を見たり他の生徒を眺めたりしていた。
そういう気遣いは出来るんだな…と思いながら教室に入る。
自分の席に着くやいなや、うるさい金切り声が教室に近づく。
「ねーあれめっちゃおもろかったよねぇ!」
「それなぁ〜」
またくだらない話をしている。
私が嫌いな人達。
自分が世界の中心にいると勘違いしている奴らだ。
「そういえばさぁ、あいつまだ懲りないみたいだから今日もやっちゃおうよ〜」
「いいねぇ、今日は何する?水でもぶっかける?」
汚い笑い方を教室の中に充満させる。
あぁ、またやるのだろうか。
あの"いじめ"を。
櫻井 怜子(さくらい れいこ)
彼女は入学早々に彼女達に目を付けられ、酷いいじめを受けている。
学校には誰よりも一番最初に来て、勉強をしているような子だ。
怜子の何が気に入らなかったのかは分からないが、彼女達の標的になってしまったのだ。
そして、そのいじめの中心にいるのは「アズサ」という性格も行動もひん曲がった奴。
机に落書き、教科書を破る、上履きを捨てる。
そんなのは日常茶飯事だ。
先生達はというと、いじめの問題などは無いの一点張りで、怜子が怪我をしていようと髪を切られていようと気にはしなかった。
というか、見て見ぬふりだ。
いじめがあることは事実なのに、それを認めようとはしないのだ。
そしてそれを感じ取ったアズサ達は堂々といじめを決行している。
クラスの数人は怜子さんを助けようと歯向かったものの失敗し、不登校になるまでいじめ抜かれた。
その結果、自分が歯向かえばターゲットは自分になる。
その恐怖が身体を縛り付けるようになったのだ。
『……ねぇあの子達、なにしようとしてるの…?』
少女は何かを察したようで芽依にそう聞くが、芽依は恐ろしくて「いじめをしようとしている」という言葉が喉から出なかった。
やがて嫌な笑いが聞こえてきた。
そしてバシャンという水の音も聞こえる。
『っ!?』
少女の、言葉にならない驚きの声が聞こえてくる。
ふと怜子の事を見ると、水でびしょ濡れになり、彼女達に笑われているのが見えた。
水の入ったバケツをひっくり返されたのだ。
他の生徒はその光景を見ないように俯いたまま黙っている。
「なんか言えよメガネ!その態度直したらぁ!?」
アズサは大きな声で怜子に怒鳴りつける。
机を蹴る音と、その汚い笑い声が教室に籠もる。
アズサの取り巻きも一緒になって笑っている。
誰も、あの子を助けない。
助けられない。
助ける勇気より、いじめのターゲットになる恐怖の方が勝つ。
芽依もそうだ。
その恐怖で身体が震えている。
『……なによあいつら!!あの子が可哀想じゃん!?』
しかしそんな芽依の横で、少女は堂々とそう叫んだ。
『なんでいじめなんてするの!?弱い人をいじめて何が楽しいの!?』
そう、喉が枯れそうな勢いでそう叫ぶ。
『意味わかんない…!ねぇ芽依!止めさせてよ!!』
少女は芽依の方を向き、涙目になりながらそう言った。
しかし、芽依の身体は震えるだけ。
激しい鼓動が芽依の震えを増幅させる。
「…………できない……………私には…できない……」
そう、小さな声を震わせながら芽依は言う。
だって私は弱いから。
だって私は怖がりだから。
だって私は……漫画の主人公じゃないから…。
すると、それを見兼ねた少女は
『………わかった…もういい』
と言い残し、駆け足で教室から出ていった。
それを、芽依は追い掛けることが出来なかった。
自分の情けなさに、無情さに、不甲斐ない気持ちを当てはめるしか出来なかったのだ。
帰り道、少女はやけに静かだった。
怒っているのか、何もできない自分に嫌気が差しているのか、芽依にはわからなかった。
ただ俯いて歩く。
まるで地面がベルトコンベアーのようで、まるで進んだ気がしない。
つらいなぁ…。
そんなことを思った時だった。
突然、少女が口を開いたのだ。
『ねぇ、一つ聞いて良い?』
少女は恐る恐るそう言った。
「…何?」
芽依は小さく言い返す。
『なんで…なんでいじめが起こると思う?』
先程のことを思い出したのか、少女は声を震わせてそう言った。
「なんでって言われても……自己満足とか?」
芽依は適当にそう返した。
正直、あまりその事を考えたくないのだ。
自分がいじめの対象になんてなったことないけど、芽依が立ち向かえるほど簡単なことではない。
そう分かっていても、やはりあの現象は起こる。
必然とでも思えてしまう。
『自己満足か……それもあるかもね』
ため息混じりに少女はそう言う。
「何が言いたいの?」
芽依は口ごもる少女に嫌気が差し、そう言い放った。
『………いじめはね、自分の弱さを隠すために起こるんだよ。よく言うじゃん、弱い犬程よく吠えるって』
そう、少女は嘲笑うように言った。
「…どういう意味?」
芽依は少女が言った意味が理解出来なかった。
『いじめってさ、いじめられる人が弱い人だって思われるでしょ?でもそれって実際は逆でさ。いじめている人が弱いんだよ。』
「……」
『自分の弱さを隠すため、自分が優位に立って見下したい。そんな欲望の塊なんだ。』
そういうことか…と、芽依は少女の話が腑に落ちていた。
昔から、いじめが起こるといじめられる人が弱い人で、いじめる人が強い人という図が完成していたのだ。
「じゃあ…怜子さんは強い人だね。」
そう、意図とは関係なく口にしていた。
「怜子さんは、毎回あの屈辱に耐えてるんだ。だって、声を上げたところなんて見たことないんだよ?物凄く辛い筈なのに、誰かに助けを求めたい筈なのに……私達の気持ちも知ってるから。いじめの対象にされるのが嫌って分かってるから。」
そう、思ったことを次々と口から零した。
そして、不思議と芽依の目からも涙が零れていた。
「そんなあの子を……私は救えない……。やっぱり身体が動かないの…。怖いの…。」
『………』
「でも私は……助けたい。」
いつから憧れたかは分からない。
でも芽依がなりたい姿はいつも、明るくて正義感に溢れて誰でも救ってしまう主人公、正義のヒーローだった。
漫画の中の話だから実際にそんな人がいるわけもない。
しかし芽依は確実に、あの人に憧れたんだ。
「でも、行動に移せないのが私の悪い癖なんだよね」
芽依は無理矢理笑いながらそう言った。
その様子を見て、少女は憂いを帯びた表情で
『…芽依自身の物語は、芽依が主人公なんだよ?』
と呟いた。
「んへへ、何よそれ」
零れた涙を拭いながら、からかうように笑った。
それをみて、少女も一緒になって笑った。
週末になって二人は気分転換にとショッピングモールへ足を運んでいた。
傍からみれば芽依が一人で歩いているように見えるが、もちろん少女も一緒だ。
『こういう所に来るの久しぶりだな〜』
少女は芽依の隣でスキップをしながらそう言った。
「そっちの世界でもこういう施設はあるの?」
『もちろんあるよ!売ってるものもほとんど一緒!』
少女は笑いながら答える。
芽依も久しぶりに来たため、心が軽やかに躍っていた。
しかし、変な人と思われないように俯きながら小声で少女に話しかけなければならないのには苦労した。
『ねぇねぇ!あっち行こうよ!服とか見てみたい!』
芽依の苦労も知らず、少女は店に向かって走りながらそう言った。
芽依は仕方なく追いかけ、店の中を見始めた。
そうやって二人様々なで店を回っていた時、芽依はふと気が付いた。
少女は好きなものは好き、嫌いなものは嫌いと、自分で主張してくるのだ。
それに、感情の表現が豊かだ。
色々なことに対して顔で感情を表すというか、感情自体が表情を作っているような錯覚に陥る。
身振り手振りも激しいし、なんというか……元気過ぎるという言葉が似合うのだ。
怜子をいじめるあの子達のような、嫌な元気さではない。
清々しくて、心が洗われるような。
そんな気分になる。
心の底から楽しい、嬉しいと伝わってくる。
とても、美しい笑みだった。
芽依はずっと、他人を気にして自分の行動や仕草を制御していた。
自己中ではあるが、ずっと誰かに見られているようで。
だから、素直に感情を相手に伝えられない。
だから、すぐに行動に移せない。
何かをしようとすると、他人の評価が気になって誰かの後についていくことしか出来ないのだ。
そう自分の現状を思い出すと、突然芽依が息を呑んだ。
「(…………だから私は…ずっと我慢してたんだ。この子みたいに表現することを、行動することを、満面の笑顔を見せることを、素直に誰かの為に泣いて助けようとしたことを。全部、我慢してたんだ。)」
やっと、芽依はそう気付いた。
それと同時に、自分の弱さにも。
今までその弱さから目を背けてたことに気が付いた。
するとその時、隣で服を見ていた少女が
『ぼーっとしてるけど、大丈夫?熱でも出た?』
と、芽依の顔を覗き込むようにして言った。
「あぁごめん…大丈夫だよ」
曖昧な答えを少女に返す。
『そう?…あ、そういえば芽依、ご飯食べてなくない?何か食べなくていいの?』
少女は思い出したように、そして心配するようにそう言った。
すると、その言葉に返事をするように芽依のお腹がぐぅと鳴った。
「お腹空いてたの気付かなかった…。あ、あそこにうどん屋さんあるからそこで食べようよ」
『いいよ〜!』
二人は軽い足取りで店の中に入っていった。
芽依が注文をしようとすると、少女が
『私の分はいらないよ〜』
と言ったので、芽依は一人分の注文をした。
「なんで注文しなかったの?うどん嫌いだった?」
人目を気にして辺りの人が少ない席に座ると、芽依は少女にそう聞いた。
『私さ〜この世界に来てからお腹空かないんだよね〜。食べたい気持ちはあるんだけど…』
確かに家にいて、芽依が夕食を食べる為にリビングに降りる時も少女は部屋で待っている。
何か物を食べたところを見たことがなかったのだ。
「だから何も食べなかったんだ。好き嫌いしてんのかと思ってた」
芽依は箸を割りながらそう言った。
『好き嫌いなんてしないよ〜私雑食だし!』
「雑食って言い方も変でしょ…」
芽依の返事に少女がくすくすと笑うと、ふと少女はため息をついた。
『……明日はいじめられないといいね…。』
学校のことを思い出したのだろう。
不安そうな表情をしている。
「……きっと、大丈夫だよ…。」
明日がどうなるなんて分からない。
それ故、芽依は少女を不安にさせまいとそう言ったのだ。
『まあ、明日に任せよう。今不安がっても何も変わらないもんね』
少女は自分に言い聞かせるようにそう言った。
そんな少女を見ると、芽依は不安を忘れる為にうどんを勢いよく啜った。
これで気持ちが晴れれば良かったが、芽依はうどんを喉に詰まらせたのだった。
翌日の月曜日、憂鬱な気分を思い出しながら登校した。
少女も前より静かで、緊張した面持ちで芽依の隣を歩いている。
教室に着いてから、席についてさりげなくため息をつく。
もう怜子は席にいて、いつものように勉強をしている。
あの子が卑劣ないじめを受けているということを忘れるほど、怜子の周りの空気は清々しかった。
しかし、暫くしてその時間も終わりを告げた。
クラスメイトが集まった直後、アズサ達が金切り声を撒き散らしながら教室に入ってきた。
「あれー?まだあいつ生きてんだけど〜!」
と、いつも通りの汚い笑い声を上げながらそう言う。
「そろそろ死んでくれても良いんじゃない?私達の為だと思ってさ」
つくづく自分勝手だ。
いじめた奴らの為に死ぬなんて…。
こっちから願い下げだと、芽依は俯きながら心の中で悪態をついた。
「返事ぐらいしろや」
怜子の机を蹴り上げながらアズサは冷たい声で言った。
やはり、芽依含め他の子達はその光景を見る事さえ出来ない。
怜子はやはり返事を返さなかった。
「はぁ〜。やっぱりさ、こういう子ってバカだから躾けないと分からないんだね」
アズサがそう言うと、怜子の胸ぐらを掴んで立ち上がらせた。
芽依は椅子の鋭い音に恐怖心を煽られ、「っ!」と息を呑んだ。
その瞬間、「あはははっ!」と取り巻き共の歓声に近い笑い声が聞こえる。
「めっちゃ無様だね」
「ウケる」
汚い笑い声と共にそんな声が飛び交う。
するとアズサは興奮したのか、笑いながら怜子の腹部を殴る。
「んぐっ……!?」
怜子の耐える声。
しかし怜子は悶えるだけで叫んだりは決してしなかった。
絶対に、周りの皆を巻き込みたくないから。
叫んだらその声が「助けて」という意味になってしまうから。
「ねーちょっとは叫んだりしてくんない!?全然楽しく無いんだけどっ!」
そうして、アズサは怜子の胸ぐらから手を離し、怜子を乱暴に椅子に投げた。
怜子は痛みに耐え、笑いの渦の中でうずくまった。
…………
…………………こんな事があって……いいのかな…?
そう、芽依は酷く痛む胸の中で、この言葉を繰り返した。
だって、この世界に傷付けられる人がいて良い訳が無い。
なのに目の前で、残酷な瞬間が1秒1秒過ぎていく。
なのに………私が憧れた、"正義のヒーロー"は現れない。
「なんで……なんでよ…」
芽依は理不尽な現実に、そう小さく叫んでぶつけた。
しかし、その時だった。
芽依の後ろに立っていた少女が、突然叫んだ。
『どうして…どうしてこんなことするの!?』
芽依の鼓膜が激しく揺れる。
芽依は咄嗟に、少女の方を向く。
少女は、激しく嗚咽しながら泣いていた。
嘆いていた。
この惨劇が繰り広げられている間、ずっと耐えていたのはこの子も一緒だった。
『もう…やめてよ……こんな事をされる為に生まれてきたんじゃない…あの子は…っ…自分の世界を生きるために生まれてきたんだよ…』
その時だった。
その時やっと、少女が言った言葉の意味がわかった。
"芽依自身の物語は、芽依が主人公なんだよ?"
(…そういうことか…。自分の物語は自分自身が主人公なんだ。他の人に左右される人生なんて、自分の人生じゃない。誰かに傷付けられる人生なんて自分の人生じゃない。今助けられる人を助けない人生なんて……私じゃない。そうだ私は……。)
ふと、怜子の顔を見る。
必死に耐えて、なんの言葉も口にしなかった。
ただ耐えている。
その言葉が、異常なほどに当てはまった。
それを見た芽依は決意した。
もう、"我慢はしない"。
「やめて!!!」
気付けば、椅子から立ち上がりそう叫んでいた。
「もう、傷付けるのはやめて」
そう、アズサたちが唖然とする程の声量で言った。
そして俯いていた子達も芽依の方を見る。
芽依の心臓は激しく鼓動を打つが、そんなことを気にしている暇なんてなかった。
机から離れ、取り巻き達の間を縫って怜子を庇うようにしてアズサの前に堂々と立った。
「あははっ、なんのつもりよ」
アズサが芽依に突っ掛かるが芽依は微動だにせずアズサの目を見続けた。
そして、芽依は蔑むような目で見ると
「自分の弱さを隠すために他人を使わないで。怜子さんは、あなた達の道具として使われる為にここにいるんじゃない」
と、人が変わったような口調で淡々と言った。
すると、アズサはいかにもムカついたような表情をして
「何言ってんの?私が弱いって?ふざけんじゃない」
と強く言った。
クラスの皆が息を呑むのが分かる。
この後、芽依がいじめられる想像が優にできたのだろう。
しかし、芽依は後戻りをしようとは決して思わなかった。
「あなたは弱い人だよ。誰かを弱らせて、自分が優位に立てる状況に満足してる。でも、それに耐えてる怜子さんはとても強い人なんだよ。あなたがいじめていても絶対に助けを求めなかった。自分が犠牲になれば皆が助かるって分かってるから。怜子さんは皆を守ろうとしてたから。」
言葉に詰まることなく、芽依は心の内をアズサにぶつけた。
アズサは唖然とした表情で立ち尽くしている。
しかし、その中でも芽依は言葉を続けた。
「どれだけ怖くたって痛くたって、怜子さんは皆を守ろうとした。私も、助けられてた。でも今度は私が怜子さんを助ける番。私は、あんたなんかに負けない。」
と、断言した。
清々しいほどに、きっぱりとそう言い張った。
するとアズサはタガが外れたように
「は?意味分かんないんだけど。仲良く友情ごっこでもしようっての?笑えるわ」
と、焦りを隠すような笑い声と共にそう言った。
アズサの取り巻き達は労いの言葉も発せず、ただ立ち尽くしていた。
「…くそっ!気分悪い。お前ら行くよ」
アズサは憤怒の表情でそう言い放つと、くるりと振り返り教室から出ていった。
そしてアズサの取り巻きも芽依をチラチラと見ながら教室から出た。
足音が遠のくと、一瞬教室が静寂に包まれる。
咄嗟に、芽依は少女を見た。
少女も唖然とした表情で、泣きそうになっている。
そして少女は表情を変え、微笑みながら
『ありがとう』
と言った。
それを聞いた瞬間、芽依は自分がしたことを思い出し、勢いよく振り返って怜子の方を向いた。
「だ、大丈夫!?怪我してない!?保健室行く!?」
と、早口になって怜子に言葉をぶつけた。
もう、いつもの芽依に戻っている。
いつもの、弱虫で、怖がりな芽依に戻っていた。
でも、芽依の中では何かが変わった。
確実に、"何か"が変わったのだ。
怜子も唖然としていて、うっすらと涙を残した目を芽依に向けていた。
すると怜子も、震えた声で
「あ…ありがとう」
と言って涙を再び流した。
その姿を見て、芽依は何かがぷつんと切れたような気がした。
その瞬間、芽依の目からも大粒の涙が零れだし、突然怜子を抱き締めると
「…………ごめぇぇん!!…っ!今まで…っ!助けられなくて…っ!辛い思いさせて…っ!ごめぇぇぇぇん!!!」
と、激しく嗚咽しながらそう叫んだ。
抱き締められされるがままの怜子だったが、怜子も芽依を抱き締めて、
「ううん…助けてくれて、ほんとにありがとう…。」
と安堵の涙を流しながら短くそう言った。
少女はその空間を眺め、安心したのかその場に座り込んで
『良かったぁ…』
と呟いた。
「ほんとに…これで良かったのかな?」
軽い怪我をしていた怜子を家まで送ったあと、芽依は家に帰るやいなやベッドに寝っ転がり、そう呟いた。
先程の出来事を、ずっと繰り返し思い出していたのだ。
自分がしたことが正しかったのか、未だに分からない。
『……正しくなくたっていいんだよ。確かに怜子さんを救ったんだから』
そう、少女は芽依の隣で優しく呟く。
『芽依の行動が間違ってたとしたら、怜子さんはああやって泣いてありがとうなんて言わないよ』
「…そう…なのかなぁ?」
芽依は晴れない表情をしている。
自己肯定感の低さ故、自分が正しい事をしたと到底思えないのだ。
『…もし誰かが間違ってるって言っても、怜子さんやクラスの皆を救ったことには間違いないよ。もし批判されて、芽依が泣きたくなっても、芽依が助けた皆が芽依を支えてくれる。皆が芽依を助けてくれるんだよ。そういう循環が、この世にはあるのさ〜』
少女は芽依に語りかけるように話す。
えらく達観したように見えるが、これでも芽依と同じ高校生だ。
芽依の性格が変わったとしても、こんな大人のような語り口にはなれないだろう。
「…………」
その時、芽依は少女と出会った時のことを思い出した。
「(私はね、あなたを変えるためにここに来たの…)」
そんな少女の言葉を思い出す。
「……私、変われたかな」
独り言を呟くように芽依はそう言う。
しかしその声は少女にも届いていた。
『うん、変わったよ。』
少女は、それしか言わなかった。
しかし、段々と芽依の心からごちゃごちゃとしたものが湧き出てきた。
「私…強くなれたかな…誰かを助けられる人になれたかな…正義のヒーローになれたかな…」
「主人公に、なれたかな…」
涙がボロボロと零れだす。
何故だろう。
悲しいんじゃない、苦しいんじゃない。
そんな簡単な感情じゃない。
言葉にできない感情が、芽依の中で暴れる。
不安でも、心配でもない。
喜びも、怒りも違う。
ただ、芽依の知らない思いが、流れている涙として頬を伝った。
そうやって芽依が葛藤していると、少女はためらいながらゆっくりと芽依の手を取った。
『…私は芽依を信じてる。だって私はこの目で見たもん。怜子さんだけじゃない、皆を助けたとこをね。その時の芽依は、誰が見ても主人公だった。ヒーローだったよ』
少女は芽依の手を強く握る。
『芽依は、私のヒーローだよ』
その言葉が、芽依の心にゆっくりと刺さる。
芽依は、「誰かの何か」になりたかった。
誰かの隣に居ても良い何かになりたかったことに、今気が付いた。
その願いが、今この言葉で形あるものに変わったのだ。
「っ…!」
その時だった。
芽依は何の前触れもなく、急に上半身を起き上がらせた。
そして、その勢いのまま少女に抱きついた。
『わ、びっくりした!…どーしたの?』
少女は混乱し、両手を空中で泳がせた。
しかし少女には、芽依の鼻をすする音としゃっくりの音が薄っすらと聞こえていた。
『…大丈夫、私はここにいるよ』
芽依の耳元で少女は呟く。
いくら違う世界の自分だったとしても、芽依は誰かが近くにいてくれる感覚を忘れたくなかった。
「…っ…ありがとう。私を変えてくれて…っ…ありがとう…。側にいてくれて…ありがとう…。」
ただ主人公みたいになりたかった訳では無い。
ただ、ただ孤独でない感覚を知りたかっただけ。
孤独ではない主人公という存在が、芽依にとっての憧れだったのだ。
『感謝されることなんて、私はしてないよ。…でも私、帰らなきゃ。元の世界に』
少女も感情を隠しているが、やはり寂しいのだろう。
芽依の背中を強く抱いて、息を吐いた。
「…そうだよね。でも、もう寂しくないや。私はもう、一人じゃないって分かったからね!」
芽依は少女を抱き締めるのを止め、少女と向き合って涙目のまま満面の笑みを浮かべて言った。
芽依のその様子に少女は微笑むと、
『私はずっと、芽依の側にいるよ。それに、芽衣には怜子さんもいる。怜子さんを守って、側に居てあげて』
と優しく言った。
「うん。わかった。でも、私も芽依の側にいる。忘れないでね」
芽依は力強く自身に溢れた声でそう言った。
『んへへ、初めて芽依って言ってくれたね!』
「え、言ったことなかったっけ?」
そうやって笑い合いながら、二人は最後の夜を過ごしたのだった。
「怜子ちゃん、今日部活?」
「ううん、今日はこのまま帰るよ」
「じゃあ一緒に帰ろ」
「うん!」
そんな会話が賑やかな教室から聞こえてくる。
今日も長い一日が終わった。
あの日から一週間、二人は一緒にいることが多くなった。
あれ以来、アズサはこちらを毛嫌いして無視するようにはなったが、直接いじめてくることはなかった。
恐らく芽依の言葉が図星を突いたのだろう。
怜子はアズサに関してはもう気にしてないようで、あの件に関して何も言ってこない。
しかし芽依は、怜子の笑顔が増えたように感じていた。
芽依が冗談を言えば必ず笑って返してくれるし、積極的に自分の話を笑顔で話してくれる。
そんなことをしみじみと思い出していると、横を歩いていた怜子が芽依の腕を突っついた。
「あのさ、私のお母さんに今までの事全部話したんだ。そしたら芽依ちゃんにお礼をしたいって言いだして。だから、今日遊びに来てくれる?忙しかったら全然来なくて良いんだけどね」
怜子は気恥ずかしそうに言い、芽依の瞳をじっと見つめた。
芽依は、怜子が母親にいじめについて話したこと驚きながらも
「お礼なんて恥ずかしいなぁ。それに、お礼される為ににやったことじゃないし。…でも、怜子ちゃんと遊びたいから行こうかな!」
と意気揚々にそう言った。
すると怜子の表情は明るくなり、
「やったぁ!」
と小さく飛び跳ね喜んだ。
恐らく、芽依と同じように怜子も感情を抑え込んで生きてきたのだろう。
しかし芽依と共にいる時間が増えてから、心から喜ぶ姿を何度も見た。
怜子も同じく、明るい表情を見せる人がいなかった、孤独だったのだ。
それが芽依と怜子の共通点であり、二人一緒にいれば共に乗り越えられる壁だった。
そして互いが互いを必要としていた。
もちろん芽依は、少女の事を決して忘れてはいなかった。
少女がいなかったらまだ怜子へのいじめは続いていただろうし、それをただ見つめる日々はきっと変わらなかったから。
「あ、昨日面白い漫画買ったから一緒に読もうよ!」
「いいね〜私漫画大好き!」
そんな二人の声が、次第に夕方の空と混ざり合う。
二人を映したこの光景が、何時までも続きますように。
少女のその願いも、同じ空に溶けていった。
淡き鏡の中 ノロア @NOROA
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