第3話
翌日、志四郎は朝から真壁のもとにいた。
真壁は布団に横になっているが、医者の言いつけを守っているらしく、落ち着いている様子だった。志四郎が来ると。顔だけ向ける。
「何を迷っているのか知らんが、首を斬るなら早くしろ」
「食事はできているな」
なぜか、宝条を斬ったことを伝える気にはなれなかった。今ではない、と思ったのかもしれない。
「金の無駄だ」
真壁が脅すように言う。けれど、病人にすごまれても、いささかも怖くはない。それに、見たところ食事はしているようだ。
「また来る。それまで養生しておけ」
志四郎は言葉通りに女郎屋を出た。出るときに、先日も真壁の様子を見ていた女がいたので、とりあえずうなずいておいた。
確かに、金の無駄だろう。ただ、あぶく銭なので、そこは問題ない。
しかし、自分の行動が正しいかどうかは、自分でもよくわからなかった。とはいえ、止まるつもりはないし、手を汚した以上はもはや自らの意思で止まることもできまい。
二十年前、己と己の家族に降りかかったことに対して、気持ちだけでも決着をつけるためには、行きつくところまで行きつく必要があることだけは確信していた。その先がどうなろうと、無為の日々を生きる篠塚志四郎にとっては、どうでもいいことだった。
二日ほどして、志四郎の長屋に多田段々がやってきた。
呼びかけることもなく、いきなり戸を開けて、まだ寝床にいた志四郎をにらみつける。志四郎は身体を起こし、あぐらをかいた。刀は部屋の隅にある。それを手元に引き寄せようとしたら、多田が口を開いた。
「なぜ、真壁はまだ生きている」
刀を取ろうとするのを牽制する意味合いもあったように、志四郎には感じられた。彼は座ったまま答える。
「なかなか手ごわい男です」
「肺を病んで、放っておいても遠からず三途の川を渡る男が、か」
そんな相手を、なぜ殺そうとするのか。志四郎は自らの気持ちが表に出ないよう、注意した。
「弱っていても油断ができない男なのは、多田さまもご承知ではありませんか」
だが、つい皮肉めいた返しになってしまう。多田は怒り出すのかと思いきや、ため息をつき、話題を変えた。
「わしの友人が殺された」
声には激情を抑え込もうとする意図が感じられる。
「ほう」と、志四郎はとぼけてみた。
多田の目は、志四郎の顔ではなく、先ほど刀を取ろうとした右手に向けられている。おそらく、事実は察している。理由を図りかねているのだろう。
志四郎は、多田という男に失望していた。宝条を斬ったのが志四郎だとわかっているのなら、さっさと殺すべきだ。この期に及んでまだ話をしようとしている。覚悟もなければ、味方もいないのだ。真壁摩利俊を追い落としたのだから、どれだけの傑物かと思いきや、単なる運のいい小物だったらしい。こんなのでは、確かに身の破滅も時間の問題だ。
それと同時に、志四郎は自分にもがっかりした。恨みを抱いて二十年、ろくな人生ではなかったが、おかげで寄ってきたのはこんなつまらない愚物だけだった。世間から見たら、自分も多田と同程度のくだらない人間なのだろう。
「真壁を恨んではおらぬのか」
「恨んでいないわけがありません」
「では、なぜ斬らぬっ」
多田が怒鳴った。こらえきれなかったようだ。しかし、志四郎の心はわずかにも動かなかった。怒っているにもかかわらず、腰の刀に手をやろうともしない多田段々に、さらに失望しただけだった。
「我々には時間がない。それは、おぬしも同じはず。自ら手を下す前に、病で死なれたいのか」
「まさか」
「では、なぜ斬らぬ」
多田は同じ言葉を、今度は絞り出すように言った。
「死を覚悟した者を斬っても、恨みは晴らせません。生に執着する者を斬ってこそ、父母の仇を討ったことになるのです」
志四郎は本心を口にしてみた。
多田が鼻を鳴らす。
「死は死だ。そこに区別などない。生きていてはいけない者は、早くその命を刈り取らねばならぬ」
理解してもらえるとは思っていなかったが、それでも志四郎はいらついた。黙っていたら、多田のほうが口を開いた。
「ならば、やつのいる女郎屋を焼き払え。さすがに労咳では、逃げ出すこともままならんだろう。火と煙にまかれれば、苦しさのあまり生の執着も生まれよう」
「一理ございますな」
これも、志四郎の本心ではある。ただ、あまりにも醜い方法に思えた。同意はしても、やる気はない。
多田は、志四郎がうなずいたことで、満足したらしい。
「では、真壁の命が尽きる前に、早くやることだ」
志四郎は首を縦に動かした。
「ところで多田さま。確かに真壁を討つことは私の悲願です。しかし、藩のためだというのならば、成し遂げたあかつきには、私を藩士に戻していただけますか」
「ははっ」
と、多田が鼻を鳴らした。
「人殺しを藩士にはできぬ。それに、わかるだろう、これは人に言えぬ仕業よ。表向き、真壁は肺の病で死ぬ。おぬしの手柄は存在しない。そもそも、おぬしは自ら望んで脱藩したのだ。追っ手を出されなかっただけで満足すべきではなかろうかな」
多田段々はついに本音を漏らした。志四郎が請け負ったことで、油断したようだ。
志四郎は懐に隠し持っていた短刀を素早く抜き、とっさのことで動けない多田の心臓を刺した。
多田の唇が震える。声を出したいのか、痛みによるものか、志四郎にはわからない。何か言おうかと思ったが、どうせ意味がないと考えなおし、多田が動かなくなるまで黙って見守った。
多田が死んだのを確認したのち、志四郎はその首を斬り落とした。手ぬぐいで包むが、血はすぐに滲む。持っていた手ぬぐいをすべて使っても、血は滲み出てしまった。仕方なく布団を使って、ようやく血が見えなくなった。
首を包めるほど布団が薄っぺらいことに、志四郎は苦笑した。二十年前に、長屋の隣人にもらった布団だが、よくもまあ後生大事にここまで使ったものだ。とはいえ、とくに不自由をした記憶もない。志四郎にとっては、ちょうどいい布団だった。
一息ついて、土間を見ると、多田の血で真っ赤だった。においもきつい。
志四郎は布団ごと首を持ち、急いで自らにかかった血を井戸で洗い流すと、他に唯一持っていた小袖に着替えて長屋から離れた。幸い誰にも見られることはなかった。
多田の首は、幼馴染の八和田弥千彦のもとへ持っていった。
屋敷にあげてもらうのは憚られたので、門を入ってすぐの物陰で布団をひらいてみせた。
当然だが、八和田は絶句した。
「斬ったのか」
吐き出すように問いかける。志四郎はうなずいた。
「宝条も」
八和田が志四郎と目を合わせた。その目は大きく見開かれている。
「あれも、おまえか」
すぐに眉間にしわを寄せて、うんうん唸ってしまった。志四郎がじっと待っていると、しばらくして八和田は目を開けた。多田の首が横にあるのに、いつものお人よしの顔になっている。
「おまえは、満足できたか」
単なる疑問にも、皮肉にも聞こえる。どちらにしろ、志四郎は首を振った。
「いいや。満足したかどうかさえ、真壁を斬ってみなければわからないだろう。願わくは、それで己の気持ちが晴れやかになればと思うが」
八和田は手をのばし、志四郎が持つ多田の首を取ろうとした。志四郎は素直に渡す。
「志四郎、藩には俺が伝えておく。おまえはどうするんだ。いくらなんでも、お咎めなしでは済まないぞ」
「言ったとおり、真壁を斬りに行く。だから、悪いが一日だけ藩に報告するのを待ってくれないか」
八和田が、わずかに苦笑した。
「まあ、一日だけなら、俺でもできるだろうよ。それにしても、わからないな。おまえは、どちらの肩を持ちたいんだ」
「どちらでもない。俺は俺のために動いているんだよ。ただ、どうすれば俺のためになるのかわからないだけで」
志四郎の本音だった。ずっと、頭の中にもやがかかっているような気分だ。何をやっても取り払えず、常に気持ち悪さがまとわりついていた。
なんとなく、これを消すことが第一の目的になってしまっている気さえする。
そんなのでは、いけないのだが。
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