第2話
志四郎は三日ほど悩んだが、やはり考えがまとまらなかった。やむなく、再び真壁のいる遊女屋を訪れた。にくにくしい顔を見れば、どうすべきか決められるだろうと思ってのことだ。しかし、真壁は三日前よりも弱っていた。
前回と同じ部屋で敷きっぱなしのふとんに座り、窓の外の雑踏を眺めている。志四郎が来たことに気づいても、顔を動かさない。やせ細っていた身体は、さらにやつれていた。白髪は増え、乱れるがままに任せている。あの冷たい目には、生気が感じられなかった。そばに開きっぱなしの文がある。それが、彼をこのようにした原因だろうか。
「政尚、息子が死んだ」
それが、文の中身らしい。
「めでたいな」
真壁がこちらを向いたので、志四郎はついでに軽く笑ってみせる。しかし、真壁は同じくほほえんだ。
「まさに、因果応報だ」
志四郎は口を曲げた。
「そうかよ」
まったくもってつまらない反応をするものだ、と内心で憤慨する。真壁はまた外を見た。この世に、もう一切の未練がないようだ。それではいけない。
「斬ったのは誰だ。多田か」
「多田に人を斬る腕はない。あいつの片腕だ。宝条包次。剣術をやっているうちに、人斬るのが好きになった男だ。人斬り包次なんて呼ばれて喜んでいるような愚劣さの持ち主でもある」
「知らない名だ」
「まだ三十路前のはず。おぬしが宝条の噂を知らなくても無理はない」
何か喋る気にもならず、じっと黙っていると、真壁が咳をした。ひどく激しく止まらない。その上、真壁自身はただ咳をするだけで、助けを求めることもなかった。このまま己は死ねばいいとさえ思っているのだろう。一階から女が上がってきた。今日も、そして三日前もここにいた、あのとうの立った元遊女だ。
彼女は湯呑みを持っていた。ほのかに湯気が出ているところを見ると、中身は白湯らしい。それを真壁に飲ませ、背中をさする。苦しかったのか、真壁も抵抗はしなかった。
そのうち小太りのうさんくさい男が来た。志四郎を見るなり、不満そうな顔をする。
「呼ばれたからきたが、この男はもう手遅れだ」
医者のようだ。
「すでに診たのか」
志四郎が尋ねる。医者が面白くなさそうな顔を向ける。生業に似つかわしくないほど縁起が悪い表情だった。
「はじめての客なら、さすがに文句までは言わん」
「どれくらいもつ」
うさんくさくとも本当に医者らしく、彼は咳が落ち着いて横になっている真壁の診察を始めた。脈を取り、瞳孔を確認し、やせて浮き出た肋骨を見る。その間、真壁は意識があるはずだが、まったくの無反応だった。
「前に診たのが一か月前で、そのときはもって三月だった。だが、病が思ったよりも進んでいる。もう二か月もない。よくて十日の命だろうよ」
「どうすれば命を延ばせる」
医者は志四郎を上から下までじっくりと見た。客としての品定めだろう。
「滋養のあるものを食べさせ、あとは値の張る薬だな」
「どれくらい延びる」
志四郎は医者のいやらしい態度を無視した。
「先月の見立てどおり、あと二月。それ以上は無理だ。死に神が部屋の隅で待っている。だが、本当に金がかかるぞ」
医者は眉間にしわを寄せる。
「いくらかかる」
「薬代を入れて、十日で一両。二か月でおおよそ六両だ」
志四郎は真壁を見る。目を閉じて横たわったままだ。
「金を出せ」
だが、真壁に反応はない。代わりに後ろから声がした。
「むだよ。この人にそんな大金はないわ」
医者の言う死に神が喋ったのかと、ぎょっとした志四郎だが、振り向くと、それは先ほど真壁に白湯を飲ませた女だった。死に神のように部屋の隅で様子を見守っているらしい。
志四郎は医者に顔を戻すと、ふところに手を入れ、小判を六枚取り出した。多田段々からもらった金の一部だ。
「なら、これで頼む。二月もたせてくれ」
医者は奪うように小判を取り、みずからのふところに入れた。頬が緩みそうになるのを必死に我慢しているのが、志四郎にもわかった。
「まあ、よかろう。二月は生かしてやる。とりあえず、薬を取ってくるとしよう。また戻ってくる」
医者は足取り軽く、部屋から出ていった。
「あれで約束は守るほうよ」
部屋の隅の女が言った。志四郎は立ち上がり、彼女に近づき、多田段々からの金の残り――四両を渡した。
「おまえも約束を守るほうだと信じる。この金で二月、真壁に精のつくものを食べさせてくれ」
「わかったわ。まーかせて」
なんとも心もとない返事だが、志四郎は信じることにした。肺を病んだ男をこうして世話しているのだ。なにかしら、縁があるにちがいない。
志四郎は「さてと」とつぶやいたのち、横たわったままの真壁のそばで座った。
「というわけだ。とりあえず、生きてもらう。だが、飯を食うのは自分自身でやってもらう必要がある」
真壁はようやく目を開け、虚ろな瞳だけを志四郎に向ける。
「わしは無駄が嫌いだ。死にゆく者に金をつかうな」
「俺の金の使い道は、俺が決める。ふところが痛もうがどうしようが、俺の勝手だ」
実際のところ、自分の金でさえないので、まるで痛くもかゆくもない。
「食事も薬も、わしが受け入れると思うのか」
「おまえが食わねば、俺の金が無駄になる。おまえは無駄が嫌いなのだから、出されたものはきちんと口にするんだな」
「従う道理はない」
「因果応報じゃないか。おまえは俺に斬られる覚悟をした。俺はおまえを斬るつもりだ。おまえの生き死には俺が決めていいことになる。この二月の間に、おまえにふさわしい死に方を準備してやる」
志四郎は話し合う気がなかったので、これで切り上げた。真壁が死ぬなら、それでもよかった。恨みつらみは残るだろうが、今さらの話だ。
幸い真壁から返事はなかった。
夜、志四郎は羽縄藩の江戸屋敷の門を見張っていた。やがて、提灯が二つ、門から現れ出た。これまでも何度か同じことがあったものの、志四郎の狙いとは違っていた。しかし、今回は当たりだった。
提灯の一つは下男が持ち、その脇に多田段々がいる。もう一つの提灯を持っているのは、志四郎よりも年下に見える男だった。三十は超えていまい。多田と同じく裃を着ているため、藩士なのは間違いない。とはいえ、多田と違って自分で提灯を持っているからには、少し身分が低いのだろう。
彼が宝条包次、人斬り包次にちがいない。いや、違っていてもかまうものか。多田の側近なのは違わないはずだ。
志四郎は彼らの後をつけた。途中で、宝条は多田と下男と別れた。志四郎は宝条を追う。しかし、さして面白いこともなく、宝条は自宅へ戻った。広くはないが、貧しくもない武家屋敷だ。隠れて見ている志四郎が、これからどうしたものかと逡巡していると、すぐに着流しに着替えた宝条が出てきた。志四郎のやることも決まった。
宝条は酒屋に入っていった。
そういったところは、主に町人が酒を飲みに来るため、武士は来づらい場所だった。宝条が着流しに替えたのも、それが理由だろう。ただ、そこまでして酒を飲みに行く必要があるのか、志四郎にはわからない。
しばらくして、宝条が気持ちよさそうに鼻歌をうたいながら出てきた。歩き方もおぼつかない。距離を取って、志四郎も動き出す。来た道とは違う方向を歩いていた。より人のいないほう、いないほうへと向かっていく。なぜだろうか。そのうち、片側に竹林がある場所まで来た。ここで、宝条は立ち止まる。志四郎も竹林の陰に隠れた。
酔いでも醒ましているのか、宝条はただ佇んでいた。
そこへ、提灯を持った町人が歩いてきた。宝条の横を通りすぎるとき、軽く頭を下げた。
その瞬間――
「無礼者」
宝条は叫ぶなり刀を抜いて、その町人の背中を斬りつけた。町人は声もなく倒れる。提灯が地面に落ちて、自らの炎で燃え、灰となった。
宝条は血糊を拭かずに刀を鞘に納め、上機嫌にゆっくり歩いていった。志四郎はもはや追う気力がなくなっていた。町人の命がないのは、間違いない。震える足で、できる限り急いでその場を離れた。
酔っぱらいの剣筋ではなかった。志四郎も自らの剣の腕にそこそこの自信を持っている。だからわかった。人切り包次は、自分よりも強い。
長屋に戻り、井戸から水を汲んで頭から浴びた。何度もそうしてから服を脱ぎ、じゅうぶん絞り、てきとうなところに引っかけて部屋に入る。煙草を少しふかして、布団にもぐった。
志四郎は、宝条を怖がるのを、これで終わりにしようと決めた。
翌日の夜から、志四郎は宝条の屋敷の前に立った。だが、この間の外出はたまたまだったようで、十日はそうしたが、宝条が出てくることは一度もなかった。志四郎にやめる気はないが、徐々に緊張感は薄れていく。
ゆえに、くぐり戸から宝条が顔を出したとき、何もできなかった。
本当は、腰をかがめて外に出てくる瞬間、横から宝条の顔を薙いでしまおうと思っていた。しかし、少し離れたところにいた志四郎が気づいたときには、宝条は背を向けて先日と同じ飲み屋の方角に向かっていた。志四郎も追うより他ない。
すぐに角を曲がり、武家屋敷が立ち並ぶ町から、町人たちで賑わう場所に進む。
だが、先日の飲み屋を通りすぎた。
別の飲み屋に行くのだろうか。そんなふうに考えていた志四郎は、しばらくして、背筋を凍らせた。この道筋は、辻斬りをした場所へ向かうもの。不吉な予感がする。戻るべきか逡巡するが、結論を出せないまま、まさに男が斬り捨てられた場所へたどりついた。男の死骸はすでになく、血の痕もない。今となっては普通の道だ。
そこで宝条が、唐突に振り返った。
「俺に何用だ」
隠れそこねた志四郎は、思わず踵を返しそうになる。だが、弱気を見せるわけにはいかない。
「ただの偶然ではないかな」
声を抑えるのに必死だった。
「偶然ではない。この間も俺を追っていた。ここで男を斬るのも見ていた」
「人違いだ」
宝条が歯を剥いて笑った。
「ああ、そうか。おまえが、篠塚――志四郎だな。多田様から話を聞いている。早く真壁を斬れ。おじけづいたのか知らんが、俺は病人よりもはるかに危険だぞ」
言いながら、ゆっくり刀を抜く。
彼は細かい事情には興味がないようだ。邪魔になりそうなら排除する。きっと頭を使わずに、多田の横にいるのだろう。実にうらやましいことだ。
志四郎も刀を抜いて、構えた。もはやここで正面から戦うしかない。
「ひとつ聞く。真壁の子を斬ったのは、おまえだな」
「真壁は、おまえを今のようにした相手ではないか。それなのに、真壁のために、俺を斬ろうというのか」
志四郎は首を振った。
「真壁のためではない。俺のためだ」
「理屈に合わんな」
「だから、刀を抜いたのではないか」
志四郎は一歩踏み込んだ。斬り合いになる。そう覚悟していたのに、宝条は一歩しりぞいた。駆け引きなのかと悩んだが、宝条が一向に斬りかかってこないことに違和感を覚えた。何度か牽制してみるが、間合いを取るばかりだった。
これは――怖がっている。
宝条は斬り合うのを恐れていた。理由は、わからないでもない。彼は人斬りであるが、先日見た通り、町人を不意打ちにしているだけなのだろう。真剣での殺し合いは、はじめてにちがいない。最初は虚勢を張ったが、実戦がはじまってからは、恐怖にのまれてしまったのだ。
志四郎も人を斬ったことがない。腕に自信はあるが、道場での話にすぎない。今は、ただやけくそになっているだけだった。そこは、宝条が見誤っているところだ。だがおかげで、志四郎は自分の勝ち筋が見えた。
「ええいっ」
とにかく大きな声を出す。宝条が一瞬、硬直した。そのとき、志四郎は前に出て、宝条の肩を斬った。浅かった。でも、それでいい。宝条が、自らの肩から流れ出る血に、目を見開いている。そうだ。こうするしかない。宝条が戦いに慣れる前に、決着をつけないといけない。宝条が覚悟を決めたら、終わるのはこちらだ。
志四郎はすかさず間合いを詰める。宝条は下がる。だが、そうはさせない。足を強く踏み込み、一気に宝条をとらえる。その瞬間、彼は背を向けた。逃げるつもりだ。
「無礼者」
思わず志四郎は叫び、同時に宝条の背中を深く斬った。血しぶきがあがり、宝条がくずおれる。志四郎は肩で息をしつつ、刀をしまった。まだ息のある宝条の顔を覗き込む。もはや助からないは間違いない。ほっとした。
「し……にたく……ない……たすけて……」
目に涙を浮かべ、宝条がつぶやく。その顔は、年齢よりも幼く見えた。もはや子供だ。志四郎は何も言わずに、宝条の髷を切り、ふところにしまった。そして、この場から離れていく。
宝条は髷を切られたことに驚愕し、まだ何か喋っていたが、志四郎にとってはどうでもいいことだった。
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