志四郎の望み

どんより堂

第1話

 素浪人の篠塚志四郎は雨の音を聞きながら、自分の長屋で煙管をふかしていた。煙を吐き出さなくても、息は白い。小さな火鉢で手を片方ずつ温め、ふとんもはおっているのだが、身体の震えは止まらない。

 それでも、動く気にはなれなかった。朝からずっとこうしている。今日はこのままのつもりだった。近くにある馴染みの道場に顔を出せば小遣い稼ぎにはなるだろうし、まだ今の時分なら、知り合いの一人や二人をつかまえて酒でも飲めるだろう。しかし、そんなことはしない。

 今日は月に数度ある、志四郎が己の憤怒に向き合う日だった。じっと黙って煙草を吸っているが、身体の内では二十年前から変わらず煮えたぎっている〝恨み〟が暴れていた。大きな声で叫びたい、外へ出て刀を思う存分振り回したい、そんな衝動が絶えず志四郎の中を駆け巡っている。

 突然、雨音に別のものがまじった。

 志四郎は内との戦いを置き、耳をすます。ざっざっという音が絶え間なく聞こえ、しかも徐々に大きくなっている。複数の足音だ。それが、長屋の前でとまった。その後、じゃり、じゃりと、先ほどとは違う足の音がする。人が異なるようだ。慎重に、いや重々しい。戸の障子越しに、人の影が見えた。

 志四郎は、刀を手元に引き寄せた。

「篠塚志四郎か」

 厳しく低い、年老いた男の声。聞き覚えがある。だが、誰かはわからない。とはいえ、武士なのはまちがいない。おそらく、己のいた羽縄藩の人間だ。駕籠に乗ってきたようだ。

 志四郎は、刀を少し離したところに置きなおし、ふとんを背中からはがして、部屋の隅に追いやった。

「篠塚志四郎はいるか」

 再度呼びかけられた。志四郎は煙管を咥えてあぐらをかき、煙を戸に吹きかけた。

「……おります」

 返答を待ちかねたように、戸が勢いよく開けられる。

 声と同じく、鋭い目つきの老人が入ってきた。髪は真っ白になり、顔のしわも増えたが、確かに志四郎の知っている人物だった。

「多田段々さま、おひさしゅうごさいます」

 姿勢を変えるつもりはなかったが、気づくと背筋はぴんと張っていた。

 多田は土間に立ったまま、部屋の中をぐるりと見渡す。

「貧しくはあるようだが、息災か」

「汚いところですが、どうぞお座りください」

「いい。用が済めば、すぐに立ち去る」

「用? 多田さまは、今も江戸家老で」

 多田はうなずいた。

「そうだ。我々羽縄藩の一大事である」

 志四郎は内心毒づく。

 なにが『我々』だ。俺が藩士だったのは、もう二十年も前のことではないか。それも、追い出された末に、江戸での浪人生活だ。勝手に巻き込まないでくれ。

 しかし――

「真壁摩利俊のことだ」

 そう聞くなり、志四郎は自然に立ち上がっていた。

「いかがしました」

 たずねずにはいられない。真壁摩利俊。それは、篠塚志四郎を今の生活に追いやった男の名ゆえに。


 二十年前、篠塚志四郎は羽縄藩の下級藩士だった。父のあとを継いで数年、まじめでもなく怠慢でもなく、有能でもなく無能というほどでもなく、剣の腕はそこそこという評判はあったものの他人から一目置かれるわけでもなく、ごくごく平凡な日々を送っていた。

 それが、急に蟄居を命じられてしまう。農民を扇動し謀反を起こそうとしたというのが、理由だった。志四郎に覚えはない。証拠もなかった。あったのは、国家老の真壁摩利俊の言葉のみである。

 父母も息子の無実を信じた。同時に、真壁に逆らえぬことも知っていた。そして、二人は自ら命を絶った。長年にわたって藩に仕えた父と、藩主の乳母の遠縁である母の命は、子の汚名をそそぐには至らなかった。

 だが、罰に対する猶予は与えられた。その隙に志四郎は出奔し、江戸に流れ着く。

 のちに伝え聞くところでは、謀反の動きは本当にあったらしい。首謀者は真壁摩利俊の派閥に属しており、なおかつ聡明な男だったという。謀反の話を知った真壁は、自らの役に立つその男を庇うことにした。その代わりに、志四郎を差し出した……という話だ。もちろん、これは噂である。藩の見解は、裁きが終わっているがゆえに、志四郎が首謀者であることに変わらない。

 事情を教えてくれた知人は「ただのとばっちりだった」と言うが、志四郎にしてみれば、父母の命と自分の人生を「とばっちり」などという言葉にまとめられることさえ憎しみの材料にしかならなかった。

 ただ、浪人にその憎しみを解消する手立てはない。志四郎は人を嫌い、世を嫌い、かといって死ぬ勇気を持てぬまま、いつか振るう日が来るかもしれぬとたまに剣の腕を磨きつつ、その日暮らしを続けている。知人はいても心を許せる友はおらず、命が尽きる日を待っているだけとも言えた。いっそのこと憤死できればよかったのに。時折、志四郎はそう考える。

 自らの感情が中途半端なだけなのかもしれないが、それは認められることではなかった。


「真壁は藩を出て、野に下った」と、多田の声が志四郎を現実に引き戻す。

「理由をお聞きしても?」

「国家老だった真壁は、その立場を利用し藩の金を盗んでいたのだ。だが、長年の功績を慮り、殿は追放するだけに留めてしまった」

「ずいぶんとお優しいことで」

 つい、志四郎の口から皮肉がこぼれた。しかし、多田はまじめにうなずく。

「そのとおりだ。このままではいけない。大罪はおいそれと許されてはならんのだ。特に、あのような腹黒い人間はな。そこで、おぬしに頼みがある。真壁を斬ってほしい。やつは、ここ江戸にいる」

 なるほどな、と志四郎は合点がいった。多田は説明しようとしないし、する気もないだろうが、真壁はこの多田との派閥の争いに負けたのだろう。横領も冤罪ではないだろうか。かつての志四郎のように。まともな証拠など存在しないにちがいなかった。でなければ、腹を切らずに済むはずがない。そして、多田はその状況が嫌なのだ。生きていれば、何かをきっかけに返り咲くかもしれない、と心配しているにちがいない。

 気にくわない。まったくもって気にくわない。

 多田の手駒にさせられている。それなのに、悔しいが、これはいい話だ。二十年もくすぶり続ける恨みを晴らす口実になる。

 それに、断れば別の方法を用いて真壁を殺してしまうだろう。江戸にいるという情報だけで、真壁の命が奪われる前に、自分が居場所を探し出せるとは思えない。

「やりましょう」

「おお、やってくれるか」

 多田が口元をあげる。そして懐から小判を十枚取り出した。

「まあ、いろいろ物入りであろうよ」

小判をこばめるほど志四郎は裕福ではないし、侍の矜持を保っているわけでもない。すんなり受け取った。

「どうも」

 ただ、礼を言う気にはなれなかった。

 その後、真壁がいるという場所を伝えると、多田は帰っていく。外に出るときに、志四郎にもちらっと見えたが、やはり近くに駕籠を待たせていた。

 多田がいなくなると、志四郎は再びふとんをかぶり、小さな火鉢で手を温めはじめる。身体が冷えて仕方がなかった。


 真壁摩利俊は、江戸といっても外れにある遊女屋にいるらしい。ほとんどそこに住んでいるようなもので、まったく外に出ないという。志四郎が思うに、真壁もまた多田が己の命を狙っていることを知っているのだろう。身を隠すつもりで、遊女屋にこもっているのではないか。

 こもるのが吉原ではなく、場末の遊女屋であるところに、真壁の落魄ぶりが察せられる。とはいえ、長逗留ができるだけ、その日暮らしの志四郎よりもはるかに裕福なわけだが。

 多田が来た翌日、志四郎はその遊女屋に足を運んだ。そういった場所に足を踏み入れるのははじめてだったが、それでも目的の店が豪奢でもなく、繁盛しているわけでもないのは一目でわかった。廃墟とはいいすぎだが、どこかくすんでいるような気がする。客商売にしては、異様なほど人を拒絶する店だった。

『石川屋』とある。昔はたいした店だったようだ。

 戸を開けて土間に顔を入れると、女がいた。ややとうが立っており、頬はこけ、目はうつろだったが、赤い格子柄の小袖からのぞく肩やうなじは艶めかしい。遊女にちがいない。

 だが……

「ここは廓じゃないよ」

 酒か煙草か、声がかすれている。

「じゃあ、なんなんだ」

「もう店を畳んで、今は行き場のない、使いものにならなくなった女が暮らしているのさ」

 どうも、多田の話と違う。調べ足りなかったようだ。

「ここに、真壁摩利俊がいると聞いた」

「ああ」と、女がつぶやく。

 追い出されるかと思ったが、帰ってきた答えは違った。

「上よ」

 志四郎は軽く頭を下げると、草履を脱ぎ階段を上がった。刀をさしたままでも、何もいわれない。女の脇を通るとき、香のにおいが鼻をくすぐった。はじめて嗅ぐにおいだ。

 店を畳んでいても、捨てられないものがあるのだろう。志四郎もそれは同じだ。

 二階は各部屋の障子が閉じられていて、どこに誰がいるのかわからない。無人ではなさそうだが、みなが息をひそめて生きている。――と、男が激しく咳き込む声が聞こえた。そこだ。

 志四郎はまっすぐそこを目指し、逡巡することなく障子を開けた。

 真壁はいた。六畳ほどの殺風景な部屋に、ふとんの上であぐらをかいている。

二十年経っても、この憎き顔は見間違えようがない。年を取った。今は確か五十を超え、六十に手が届く頃だろう。白髪もしわも増えていて当然だった。

 しかし、真壁には老い以上の大きな変化がある。志四郎は目を見開いていた。わずかながら、呼吸することさえ忘れてしまった。

 真壁はがりがり亡者のようにやせ細り、腹が不自然に膨れていた。顔も頬はこけ、皮膚が骨に張りついているさまがよくわかる。

「肺だ。長くはもたん」

野太く力強い声と、生物と対峙しているような気になれない冷たい目は昔のままだった。

「篠塚志四郎だな」

 志四郎は素直にうなずいた。

「多田のつかいか」

「いや、死神のつかいだ」

「俺にとっては、同じことだ」と、真壁が薄く笑う。座ったまま、動く気配がない。

「いや、俺はあんな年寄りのつかいなどやらん」

 しゃべりながら、志四郎は自分の気持ちが萎えていることに気づいていた。目の前の男は憎い。その憎悪は変わらない。だが、病気であれ暗殺であれ、すでに自らの死を受け入れている男を斬って何が楽しいのだろうか。

 そしてそれは、多田に対する疑問へと変わった。放っておけばひと月ももたないであろう老人を、多田段々はなぜ殺したいのだろうか。

「肺を病んだ俺よりも、時間がない人間がいるのだ」

 志四郎の内心を察したように、真壁が口を開いた。志四郎はいらだちで目を細める。

「易者のつもりか。俺の心を言い当てて楽しいか。まるで外れだよ」

「死が近いと、この世が惜しくなり、些細なところもよく見えるようになるらしい。おまえは、少しだが考えが顔に出る」

 気に入らない返答ではあるものの、志四郎は話を戻すことにした。

「死にぞこないよりも地獄が近いのが、多田段々か」

「あいつとその周辺の者だ」

 それから、真壁は咳に苦しみつつ、彼から見た内情を語る。

 真壁が藩を追われる原因になったのは、多田も話していたように、国家老という立場を利用して、藩の金を横領していたからだった。だがそれは志四郎の推察どおり冤罪で、実際に横領していたのは、多田段々の身内らしい。

「おぬしが謀反を起こしたというのと、同じようにな」

 真壁が鼻を鳴らす。志四郎は、刀の柄に手をかけた。だが、抜かない。そうすることが真壁の目論見に思えてしまったのだ。志四郎は数度、肩を動かすように息を吐いた。

「真壁、おまえが俺をはめてまで庇った相手、本当に謀反を起こそうとした男はどうなった」

「おぬしがいなくなってすぐ、流行り病で死んだよ」

 真壁の表情はまったく変わらない。ただ淡々と告げた。そして、今度は勝手に続ける。

「同じことが、多田のところにも起きた」

「本当に横領していた者が、死んだのか。だが、そこからは俺と同じではあるまい」

 真壁がちらと外に目を向けた。眼下では、人々がこの部屋のやりとりなど何も知らずに、道を行きかっている。

「わしが庇った男は有能だが、力はなかった。だから、死んでも藩は動かぬ。だが、横領した愚か者には自身にも力があった。いなくなれば、多田の派閥は弱くなり、人の口も軽くなる。それに、真壁と篠塚の家が同じなわけがない」

 志四郎は、返事をすると激高してしまいそうだったため、だまってうなずいた。ただ、激高してはいけない理由もないのだが。

「かくて、真壁の反撃が始まった。もうすぐ多田の仕組んだ、あの浅はかな陰謀が明らかになるであろうよ」

「おまえが肺で死ぬよりも早く、か。なるほどな」

「多田は、わしを殺せば、秤が自分にふれると思うているようだが、この真壁はそこまで甘くなかろうよ。……が、いずれにせよ、わしの汚名返上は、わしが死んだあとだな。あらゆることには時間がかかる」

 話しながら志四郎は、ここにいることがなんだかひどくつまらなく思えていた。しかし、なぜそう思ったのかはわからない。それに、今は混乱している。自分はどうすべきだろうか。判断がつかず、別のことを口にした。

「どうして、こんなしょぼくれた女郎屋にいる」

「はは」と真壁は小さく笑ったあと、苦しそうに咳をした。「死ぬときくらい、好きに生きたいものだ。ここは古なじみで落ち着くのだ。昔も今も、吉原で遊ぶ金などなかったからな」

 やはり、何も思いつかなかった。今は決められない。志四郎は真壁に背を向け、部屋を出ていこうとする。

「斬らぬのか」

 真壁の声に、わずかだが困惑がまじったような気がした。志四郎は振り向かずに首を振る。

「わからん。ただ、今日は斬らん。明日は斬るかもしれん」


 怒り、憎悪、戸惑い、悲しみ、歓喜、期待、失望、諦念――長屋に戻っても、志四郎の中には多くの感情が混ざりあい、けっして一つにまとまろうとはしなかった。

 真壁摩利俊は斬りたい。しかし、今の彼を斬ってもすっきりする気がしない。己にできる限り抵抗し、無様に命乞いをし、醜く生に執着してこそ、殺す甲斐があるというものだ。

 では、どうすればいい。

 志四郎は、今さら羽縄藩のごたごたに関わるつもりはない。だが、真壁に生きる希望を持たせてから討ちたいと思った。

 そこで翌日、とある場所に足を運んだ。二十年前と変わらなければ、そして参勤交代の年数を数え間違えていなければ、ここに知り合いがいるはずである。大きくはないが、門がある屋敷で、下男に名を告げると、主人を呼びに行ってくれた。

八和田弥千彦、志四郎の幼馴染で、かつて藩随一のお人よしと言われていた男だった。浪人風情が訪ねても会ってくれるということは、今もそれは変わっていないのだろう。

 他にこれというとりえもなかったため、出世とは縁遠かったが、そういったところも志四郎には好ましかった。

 すぐに、浅黄の小袖を来た男が出てきた。二十年の歳月が顔に与えたものは多いが、下戸なのに赤い顔はまるで変っていなかった。

「おお、志四郎。なりは変わったが、元気そうだな」

 声も同じだ。

「弥千彦、おまえは全然変わらんな」

 八和田が赤い顔をくしゃくしゃにまるめて笑い、両腕で志四郎の両肩をばんばん叩いた。お人よしには、そんな感情表現がよく似合う。志四郎も我知らず相好を崩していた。

「まあ、あがっていけよ。なにか、用事もあるんだろう」

 長い空白を感じさせないのは、彼の気遣いかもしれない。志四郎は久しぶりに人に甘えてみることにした。

 屋敷にあがり、お茶をもらった。八和田は茶菓子まで出そうとしたが、さすがに申し訳なくて断った。すると、八和田が志四郎の分というやつも自分の前に置き、自分のと含めて二人分食べていた。笑みを浮かべての食べっぷりで、嫌味は感じさせず、むしろかわいげさえ感じさせる。

 八和田が茶菓子を食べ終わり、ずずっと音をさせつつお茶を飲み干したのを見て、志四郎はゆっくり口を開いた。まずは、自分の二十年を語る。といっても、江戸でその日暮らしをしていたくらいで、たいして時間はかからなかった。

 八和田は「大変だったな」と心底つらそうに言う。志四郎はしんみりした空気を振り払おうと、首を振り、本題に入った。

「この江戸で、真壁摩利俊に会った」

 八和田の顔から柔和さが消えた。彼も武士として長く生きてきたようだ。

「斬ったのか」

「遠くから見ただけだ。だが、羽縄藩士とは思えなかった。痩せほそり、着ているものもぼろのようだった」

 八和田から、改めて真壁と多田のことを聞いた。それは多田の言うこととほぼ同じで、やはり今は多田が追い詰められようとしているらしい。

「俺のように、派閥と関係のない人間にしてみれば、どちらが勝ってもいい。早く通りすぎてほしい嵐のようなものだよ」

 眉を八の字にして、八和田は困り果てたような顔をする。しかし、志四郎には興味がなかった。

「真壁派と多田派だと、どちらが多い」

「そりゃ、真壁派だな。真壁摩利俊と入れ替わるように、彼の息子、政尚が家督を継いだのだが、これが切れ者でな。今は江戸にいて、藩の若手を率いている。それに、養子に行って、よその家督を継いだ真壁の弟二人も藩の中枢にいる。真壁摩利俊を追い落としたところで、多田派が藩を牛耳れるのは無理筋というものだ」

「なら――」と志四郎が言いかけるのを、八和田が手で制した。

「表向きは、だ。勢いがある分、陰で真壁派に反発する者も多い。正攻法では無理でも、真壁派の中心が、摩利俊のように藩からいなくなったりすれば、ひょっとしたらひょっとする」

「ありうるか」

「おおいにありうる」

 そう言ってから、八和田はもとの優しげな顔に戻った。この話は終わりらしい。

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