第4話
「慎二……よう袴が似合うようになって。立派になったな。本当に強うなった」
「いや、まだまだやわ、お祖父ちゃん。西日本予選でやっと勝てたけど、でも東西戦では負けてもうた。相手が強かったんや」記憶にあるものよりもさらに低くなった声がそれに答える。
「ほうやな、慎二ももっと強うならんとあかんな。でも西日本で勝ててよかった。次も頑張りや」それから初男は厳しい面持ちで付け加えた。「それともう一つ、言わなあかんことがある。慎二、大事な試合におやつなんか食べたりして、お痛がすぎることがあったさけえ、あれはあかんで」
「……なんやお祖父ちゃん、やっぱり知ってたんか」思い当たることがあるようで、慎二は唇を噛み耳まで赤く染めた。「大切な部員からもらったもんやし、どうしても食べたくなって」
「瀬宮甘味堂のもんやろ。あそこの菓子は旨いさけえ、気持ちは分かるけど、試合直前に食べたらあかんで。横っ腹を痛めるときもあるからの」
「だって……」と慎二は口答えをした。初男はそれを遮るように言う。
「まあ終わったもんは仕方がない。これから粗相はしたらあかんで。お祖父ちゃんは、ずっと慎二を見とるからな」
慎二は口を尖らしてしぶしぶ頷いた。慎二がこの訓示をちゃんと納得してくれたか、初男には判断しがたかった。頑固な慎二のことだ、言うことを聞かずにまた何かしでかすかもしれない。でも祖父として、そして師匠として直接本人に伝えられたことだけでも良しとしようと、初男はこの遭逢をありがたく思った。
太陽は沈みゆく最後の一筋を名残惜しそうに山の稜線に残していた。頭上の空は青みを一層濃くしていく。わずかに残された夕暮れの光は、八重葎の葉とススキの穂を赤く燃やすように照らしだしていた。鋭く伸びるススキの葉っぱが風に騒めく。空気が迫りくる夜の冷ややかさを増す。虫たちが競うように羽を響かせて壮大な音楽を作り上げていた。光と闇が肩を並べて寄り添う黄昏の時。大切な孫との再会の時がもうすぐ終わってしまうのを初男は肌で感じた。この貴重な時間を無駄にせぬようにと、初男は孫に伝えるべき次の言葉を頭の中から急いで探した。
「慎二、お祖父ちゃんはいつでもそばにいるからな。辛くても、負けてどうしようもないときでも、かるたを好きやって気持ちだけは忘れんといてな、それだけが、お祖父ちゃんと慎二を繋ぐたった一つの糸なんや。かるたを好きで、好きで、大好きでいれば、お祖父ちゃんとかるたの神様はいつでも慎二を見守ることができるでの。それを忘れんといてな」
「何言ってるんや、かるたの神様はお祖父ちゃんやで」慎二は目を細めて満面の笑みを祖父に見せた。森の奥深くで光の温もりを植物に届ける陽だまりのような笑顔だった。「お祖父ちゃんいつもそこにいてくれてるんやろう? 俺には分かるんや。お祖父ちゃん、いつも見守ってくれてありがとう。かるたを教えてくれてありがとう。お祖父ちゃんの教えてくれたかるたのお陰で、今の俺は幸せや。お祖父ちゃんがいてくれるだけで、俺は勝てる。絶対に名人になる。約束するから、もう心配せんといてな」
ゆっくりとした口調で優しく語りかける慎二の言葉は、風に流されるススキの種と一緒に初男の胸へと運ばれた。初男は口を開きかけた。けれども何かが胸に詰まったようで息ばかりが出るだけだった。唇と喉の奥がじわりと熱くなり、水が沸騰するように目の奥から溢れだした。初男は眼鏡を外し、熱くなった目頭を隠すように人差し指と親指でぎゅっと抑えた。奥歯を噛んで落ち着きを取り戻し、何度か大きく息を吐き、震える声を喉から絞り出す。
「……ほや、ほうやな、名人や。慎二ならきっとなれる。お祖父ちゃんは信じてるで」
「……ん……」
ふいに慎二の声が小さくなったような気がして、初男は指を離して目頭を開けた。ぼやけた視界から、孫の姿が消えかけていた。体は霞み、輪郭が霧のように溶けていく。真夏の猛暑でアイスクリームを溶かしてしまうかのような急速なスピードで慎二の姿は奥の景色と混ざって薄れていった。
束の間の再会と唐突な別れは、初男の思考を混乱させた。気が動転して、次に投げかける言葉を完全に見失ってしまった。口を二、三度開けて適切な台詞を模索しようと懸命に努力する。最愛の孫が再び祖父の前からいなくなろうとしている。頼むからもう少しだけ待ってくれと、初男は何かに向かって言葉にならない叫びを上げた。気が狂ったように孫の名前を呼び続けて右手を伸ばそうとした。しかしその願いは無情にも聞きとられることはなく、初男の手は何も掴めずに空を切った。慎二の足が消え、手が消え、胴体が消え、そして最後には顔までも……
そして愛する孫は、初男の目の前からいなくなった。
喉に詰まっていた不純物を叫び声とともに吐き出してしまったことで、初男は束の間放心状態にいた。辺りの靄は一層濃度を増し、公園のブランコも、滑り台も、そして砂場もすべて覆いつくしてしまった。賑やかに音楽活動に勤しむ虫もでたらめな舞いを披露するトンボたちも、もういない。静寂な靄の波に漂う中で、取り残されたススキの穂と八重葎の緑の部分が居心地悪そうに色を添えていた。虹色に鈍く輝く空を見上げながら、初男はゆっくりと息を吐き出して落ち着きを取り戻した。そして考える。どうしていつも、大切なことを伝えられないのだろう、と。肝心な時に選ぶ言葉を見失い、大切な言葉を伝えられずにいる自分の不甲斐なさに、苛立ちと情けなさを感じた。
自分が膝の病気を抱えていた頃、不自由な体を懸命に抱えてくれたのは慎二だった。お祖父ちゃん、膝が治ったら絶対にかるたをしよう、と。初男にとって、慎二は可愛い孫であるとともに、かるたと自分を繋ぎとどめてくれた恩人でもあった。その感謝の意をまだ自分は孫に伝えられていない。初男はそれだけがどうしても心残りだったのである。
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