第3話

「そのお友達、今は怒ってるかもしれんし、泣いてるかもしれん。もしかすると許してくれんかもしれんけど、かるたが好きって気持ちだけは心に置いときや。それだけが慎二とお友達を繋ぐたった一つの糸やからな。時間が経てばなんとかなるから、――ほら、もう泣くのやめや、慎二」


 慎二の顔がまたぐずぐずに歪んでいた。初男はハンカチを出そうとして慌ててズボンのポケットを探したが、あるはずもない。仕方がないので袖口のきれいな所を探して慎二の涙と洟を拭いてやった。人の気配に驚いたトンボは群れに戻り、砂山は元の無機質な色に戻った。


「お友達を信じるんやで。ほしたらお友達もきっと分かってくれるから」

「分かってくれんかったらどうするんや」と慎二は口答えをする。

「それでも信じるんや。何度も何度も信じればいい。仲良くなろう思ったらそれしかないんや。信じていれば、いつかきっと向こうも分かってくれるから」


 その答えに納得できない慎二の様子を見て、初男は続けた。

「じゃあ慎二、逆になって考えてみるとええ。もし自分が負けて欲しかったものを取られてしまった時、相手にはどう思う?」


「負けてくやしいとき……」慎二は下を向いてしばらく考え込んだ。「つぎはぜったいに勝ってやろうっておもう。そこにいて待ってろって」


「ほうやろう」初男はにっこりと慎二に笑いかけた。「負けた相手のためにも、勝ったもんが弱気になってはいかん。それは相手に失礼や。堂々と胸張って、もう一度ここまで来てみろって態度を取っていればいいんや。それが勝者の仕事やかし。わしも康男に勝った時、こいつのためにも、これからはどんな試合でも絶対に負けてやらんって神様に誓ったんやざ。それがあいつに対しての礼儀やと思っとった。康男がもう一度ここに来るまでは、この座を譲らんと。それがライバルっちゅうもんやろ?」


「ライバル……」


「そうや、ライバルや。あいつがライバルやって信じるんやったら、ケンカして負かしたことを悔いたらあかん。それだって相手に失礼なことなんやで。大切なのはな、慎二、これからお前が絶対に負けんことや。勝って、勝って、勝ちまくって、てっぺんとっていくことや。てっぺんとったらライバルが負けたことも決して無駄にはならん。それがケンカの礼儀やかし」


 慎二はしばらく何かを考え込むように俯いた。五本の指で砂をすくい、ざあっと指の隙間から流した。砂には小さな五本の川が残った。


「なあおじいちゃん、きげんを悪うしてもたもんはどうしたらいいやろ」と慎二は聞いてきた。

「ほやなあ」と初男は言った。立ち上がって腰を伸ばす。「お友達やったら大丈夫や。その子は慎二が思ってるよりも強いんやざ。お祖父ちゃんには分かるわ」

「ぼくだって分かるし」


 慎二がむくれたようにすぐさま答えるのを聞いて、初男は苦笑した。

「ああ、悪かったな、慎二。そうやな、大切なかるた仲間やしな。かるたをする子は、みんないい目をしてるでの。琥珀の宝石みたいに透き通ったガラスの目ん玉や。あれだけの綺麗な目をしている子に悪い奴はおらん。その子もな、きっとまた慎二のところに来てくれるで。慎二、よかったなあ、いいかるた仲間がぎょうさんいてくれて」


 うん、と大きく頷く慎二であったが、いつの間にか背が伸びているのに初男は気が付いた。祖父の一張羅である、黒曜石の色をした袴を纏う、高校三年生の慎二。新学期が始まり、あと一週間ほどで十八歳になる。


 慎二は立ち上がり、表情柔らかく祖父と対峙した。涙は消え、活力ある表情で祖父を見つめる。袴の色よりももっと濃い、澄み切った夜空色の瞳。すっきりとした鼻梁と無骨さを増した喉の骨格。無造作に流した髪。こめかみにある小さな傷跡。無駄な贅肉は削ぎ落とされて良質な筋肉を作り上げ、引き締まった身体つきは大人へと向かいゆく男性としての魅力を際立たせていた。背はすでに初男を抜いていて、少しばかり顔を見上げる形になる。ようやく本来の姿に戻ったことに、ああよかったと、初男は心の底から安堵した。


 そして慎二の凛々しく聡明さあふれる顔立ちを目の前にして息を飲む。こうやって孫の顔を間近に見たのはいつだったか……確か彼が高校二年生の初夏のころだった。あれから半年たったのか。たくましく成長したその姿に、初男は無常に過ぎゆく時の流れを感じた。万感たる思いに体中の血液が沸き立つような感覚を覚え、震えを抑えることのできない右手を慎二に伸ばした。国宝級の骨董品を扱うほどの繊細さでもって、孫の腕をゆっくりと摩り、そして丁寧に肩を撫でた。着物は時を経た分だけの滑らかさを増し、張りのある生地の弾力が、骨が浮き出た初男の手を程よく押し返した。風が二人の間を邪魔せぬように通り抜け、袴の裾と慎二の漆黒の前髪をわずかに揺らした。

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