第2話

「繋がったの、慎二。よう頑張ったな」と初男は笑った。

 慎二は祖父の顔をようやく見た。真っ赤になった目を二、三度ぱちぱちさせた。うるんだ瞳から大粒の涙が溢れてきた。零れた涙の粒は眼鏡を曇らし、砂山を濡らした。


「おじいちゃん、どうしよう。ケンカしつんた。大事なともだちやったのに、ともだちの大切なやつを取ってもうた」

 それから慎二は大きな口を開けて唇を震わし、洟を垂らしてわあわあ泣き出した。何本か生え変わった歯が口から覗いた。砂の付いた手で顔を擦り、乾いた砂が白いペンキのようになって頬にこびり付いた。


 初男はしゃがみながら、さてこの後どうしようかとしばらく逡巡した。

 まずは慎二を落ち着かせようと小さな肩を抱き、皺だらけの手で優しく撫でて軽く叩いた。頬の砂を取ってやろうと指で払ったが、砂は涙にへばりついてなかなか離れようとはしなかった。慎二の体は激しく震えながら、何度か大きく引き攣らせていた。祖父の暖かな胸に抱かれているうちに、その小刻みな動きは次第に消えていった。


「いい子やな、慎二。もう大丈夫や。顔が砂だらけやが。綺麗にしてあげるさけ、お祖父ちゃんに顔を貸しや。ほら洟も拭いて。なんでケンカなんかしたんや」


 初男が問いかけるも、慎二は答えなかった。その声が聞こえないふりをしながら、口をへの字にして、洟を啜り、腫れた目で遠くに飛ぶ赤いトンボの群れをじっと見つめていた。トンボたちは風の波にうまく乗りながら、幾筋もの赤い軌跡を描いてでたらめなホバリングを続けていた。銀色のススキがトンボたちを振り払うように穂を何度も揺らした。一匹のトンボが気紛れにこちらまで流れてきた。それは無機質な砂の山に止まって、灰色の山に鮮やかな赤い十字架の色を添えた。


 ふと視線をずらすと、慎二の傍に「やえむぐら」の札がある。

「なんや慎二、その札どうしたんや」と札を手に取って初男は聞いた。

 慎二はようやく口を開いた。「ともだちから取った。取られるのがイヤやったんやって」

「もしかしてそれがケンカの原因け」


 慎二はこくりと頷いた。ほうか、と初男は納得した。目をしばらく閉じて、考えを巡らす。「やえむぐら」の札は八重園と縁が深い。この場所は空間を超えて時間が捻じ曲がる。きっとこの慎二は本当の姿ではないのだろう。ケンカというのは試合のこと、友達というのは試合相手だ。本来の慎二が試合で「やえむぐら」の札を取って勝利したのではないかと初男は推測した。それで負けた相手の機嫌が悪いと、そういうことか。感情を素直に表に出せない子だから、一番甘えることができる昔の姿に戻ったのだろう。そしてその甘えられるのが自分だけだということに、嬉しいやら歯がゆいやら複雑な気持ちになった。


 初男は札を元の場所に戻し、可愛い孫の背中をもう一度ゆっくりとさすった。手のひらに収まってしまうほどの狭い背中だ。

「ほうかあ。慎二にとったら大切なお友達やったんやなあ。お祖父ちゃんにもよう分かる。お祖父ちゃんだって、どうしても譲れんもんがあって、大切な人の大切なもん奪ってしまったことがあるんやで」


「……おじいちゃんもなんか?」涙で洗われて澄んだ瞳が初男を映した。

「ほうや、お祖父ちゃんもや」と初男は答えた。「お祖父ちゃんが欲しかったんはな、名人の座や。戦ったのは弟の康男やった。慎二も知っとるやろ、親戚の渡野原のおっちゃんや。お祖父ちゃんが名人になったときに、何度も何度も挑戦してきて。でもあいつにだけは一度もその座を譲らんかった」


 初男は目を細めて笑った。秋の風が土の香りを運んできて鼻腔に抜けていく。

「そんなにジャマされていてイヤやなかったんか、おじいちゃん」

「まあ嫌じゃないって言えば嘘になるけどな。でも兄弟やし、名人の座を欲しいっちゅうのは当たり前のことやし、憎たらしいっては思わんかったで」


「なんで? おじいちゃんの気持ちがようわからん」

「そうかもしれんな。もう少し大人になったら、こういうのはそのうち分かる。慎二はそのお友達のこと、好きなんか」


「うん」と、慎二は大きく頷いた。清らかな水鏡に反射されたような光が慎二の表情に宿った。ようやく穏やかになった顔つきに安堵して、初男は相好を崩した。

「好きと思えるんなら大丈夫や。大切なお友達やったら、その気持ちだけは絶対に忘れたらあかんで」


 そう言って初男は目線を遠くの山並みへと移した。ぼんやりと赤く染まった太陽が山の稜線に形を崩して伸びていた。ラベンダー色の筋雲が太陽の髭のように影を作っていた。穏やかな秋の景色はあまりにも壮麗で牧歌的で、二人並んで座っていると、何かの映画のワンシーンを見ているような気分になった。

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