秋にそよぐ、やえむぐら

nishima-t

第1話

 思考という空間の中を、八重園やえぞの初男は歩いていた。いや歩いているのさえ分からなかった。留まっているのか、動いているのか。初男はずっとその場に佇んでいたようで、しかし周りの景色は一定ではなかった。時は風として流れ空間はあり得ないところへと繋がる。何かを見ていたようでもあり、しかし何が目の前にあるのかが漠然としていた。


 記憶は混沌とした渦を巻いて失われてゆく。いったい自分はここで何をしているのか、何をしようとしているのか、形骸化した思考に意味はなかった。時間は意味をなさず、何千年も前からいたような気もするし、一瞬だった気もする。


 白い靄のヴェールの切れ間に出た。ごくたまにこういう瞬間に出くわす。初男はあたりを見渡した。空は不思議な虹色の色彩を放って淡い光が周囲に満ちていた。風が吹くわけでもないのに、菫色の筋雲が幾層にも連なってありえないスピードで空を流れていた。時折吹き流しのように空と雲が混ざって渦巻くこともあった。太陽は出ておらず、昼か夕方なのかそれさえも分からない。靄は濃密な白さを保ったまま地面にたゆたっていたが、湿気を帯びたススキの穂が靄の隙間から先端を出して項垂れていた。


 ススキの根元に緑色の葉っぱも見える。尖った八枚の葉を風車のように茂らせる野生の雑草。あれはたしか、八重葎やえむぐらの葉っぱではなかったか。芽を出したばかりの八重葎はススキの合間のわずかな地面を覆うように群生していて、ニ十センチほどの小さな背丈を真っ直ぐに太陽へ伸ばしていた。


 急に雪が降ってきた。寒さを感じるわけでもないのに、それはたしかに雪だった。ぽとり、ぽとりと水分の多い重い雪だった。初男が手のひらにそれを受けると、雪が透き通った小さな氷に変わってやがて溶けてしまった。しかしそれが雪であろうと水であろうと、冷たさは感じられなかった。それがここでの「日常」なのだ。日にちという概念も季節感もない。


 手のひらの中にできた小さな水たまりを眺めながら、ぼんやりと脳裏に福井の重い雪が浮かんできた。それと同時に初男の周りの空気が揺らめく。この奇妙な感覚に初男は覚えがあった。めったにあることではないのだが、記憶はごく稀に、初男を思い出の地へと運ぶことがあった。多分、これもまた……


 案の定、靄はすっかりと晴れて、眼前にはあたり一面に銀色に染まったススキが広がっていた。箒を逆さまにしたようなススキの群れは、綿毛の種をびっしりと付けて、穂を重そうに風に流していた。空へと無数に伸びた細長い葉っぱと穂が同じ方向へ一斉に揺らめく姿は、滝が水しぶきをあげて落ちていくような壮麗な景色だった。時折綿毛を付けた種が遠くの地へふわりと運ばれていた。八重葎がススキの枝元でこんもりと緑を彩る。雪はいつの間にか止み、青暗い空の中で夕方の太陽が西に傾いていた。さわやかな風が頬を撫でていく。秋の虫たちが羽を震わしてかわいらしく小さな音楽を奏でていた。


 八重葎の葉を踏み分けていくと小さな空き地に出た。小さな砂場が一つに、椅子が若干斜めになってしまっている二人用のブランコ、それに錆びてペンキがかさぶたのようになってしまった滑り台。どこかで見たことがある風景に記憶を辿っていく。ああ、と初男は思い出した。昔、孫の慎二がよく遊んでいた近所の公園だ。幼稚園から一緒に帰るとき、慎二は必ずここでひとしきり遊ぶことが日課になっていた。


 気が付くとそこには慎二がいた。ふっくらとした頬に紅葉のようなふくよかな手。紺色のブレザーの制服を着た、小さな、小さな幼稚園児。目に入れても痛くないほど可愛い、大切な孫。逢いたくてたまらなかった最愛の孫がその場にいることに、初男は信じられない思いで息を飲み、しばらく動くことができなかった。


 慎二は砂山を夢中になって作っていた。周りの砂をかき集めて、山に乗せて、ペタペタ、ペタペタ。小さな手で砂を叩くと、紅葉の形をした穴がたくさんできた。砂山は二十センチほどの大きな山にまで成長した。


 時折、慎二が目を擦るのに初男は気が付いた。顔をよく見るとりんごのような頬が夕日の色を照らしていた。目はそれ以上に赤く腫れていて、口をぎゅっと閉じ、涙がぽろぽろと溢れていた。


「どうしたんや、慎二。砂が目に入ったんか」


 驚いた初男は慎二の前にしゃがんで優しく声を掛けた。顔を覗き込んだが目の周りに砂は付いていない。慎二はこちらを見なかった。悔しそうな表情のまま、袖口で頬の涙を拭き、砂をかき集めて山を太らしていく。


 園で喧嘩でもしたのだろうか。嫌なことがあった時、慎二はよくこの砂場で泣きながら砂の山を作っていた。こういうときの慎二は何を聞いても無駄だということを初男はよく知っていた。誰に似たのか、とにかく頑固で口を利かないのだ。時間が彼の心を解決するまで、こちらはじっと辛抱することが必要だった。


 鬱憤のはけ口になってしまった気の毒な砂山は何度も慎二に執拗に叩かれ、ようやく三十センチほどの大きさまで成長できた。慎二はおもちゃのジョウロで水をかけ、再びよく叩いて山を固くし、穴を掘ってトンネルを作り出した。初男も反対側から穴を開け始めた。山のてっぺんを崩さないように、慎重に手を突っ込みながら。やがて手首まで手を入れた時、初男の皺だらけの指に柔らかな感触が触れた。猫の肉球のように柔らかな慎二の指先。指は温かく、爪は泥にまみれていた。

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