時空

何も考えずに、ただただ楽しいことだけを選んできた私の人生はあともう少しで幕を閉じる。

⚪︎×△病。あの歳でこんな病気にかかるなんて私自身でもびっくりしちゃったわ。過去には娘と孫に謝っても謝りきれない迷惑をかけたのに。だから私は誰にも伝えなかった。だって今さら心配させちゃ悪いもの。でも、もしもの事があったとき用にあの人だけには伝えておいたわ。


今日も毎朝5時に起きて、外を歩く。これは仕事を辞めてから今まで続けているの。今日みたいな晴れの日はとても気持ちが良くて足が良く進む。まだ今年が始まって6日しか過ぎてない今日の朝は珍しく暖かい風が私の髪をゆらす。歩きながら今日の予定を決めて実行する。それが毎日の日課。決めた事以外でも昔からの癖なんだろう、やりたいことだけをやる私は今日も私を振り回す。まだまだ元気だなと思いながら、病気のことを考えることに。今日の予定はね、前から気になっていた川沿いにある木で出来たこじんまりとしたカフェに行くことにしたの。余命約8年、長いのか短いのか微妙な数。気にすればとても長く感じるけれど、過ごしてみたら意外と短いのかもしれないわ。今までの人生のようにね。

でも、1年でもあればやりたい事はきっとできるはず、世界一周なんて無茶なお願いは一つも無いもの。きっと全部やり遂げられるはずよ。でも、1つだけ無茶言ってもいいよって言ってくれたらきっと私はあの頃に戻りたいって言うと思うの。人生で1番楽しかった中学3年生の年。一般的には受験となるこの年は、中高一貫校に通う私からすれば、修学旅行だったりと他の学年よりも楽しみが多い年だった。人生で1番楽しかったって言い切れるその中の思い出は、オーストラリアに2週間の語学研修に行ったことね。けれど私が戻りたいのは、オーストラリアにいる時のあの時じゃなくて、普段と変わらない校舎にいつも通り登校して夕方まで友達と勉強したり、騒いだあの時よ。いつの日か、あの日々を青春と呼んで語り合おう。どこかで流れた曲の歌詞とともに私達は約束した。けれど、約束はもう果たせない。みんなといつの間にか連絡を取らないようになって、私達の繋がりは途絶えた。今となって連絡なんてしないわ。しても、きっと返ってこない。だから私は過去を語らうよりも、過去に戻りたいの。無邪気で、自由に飛び回っていたあの時にね。

お昼の少し前、11時頃。私は不意にカフェでアルバムでも見ながらゆっくり過ごそうと本棚からアルバムを引っ張り出す。

少し重くて、埃のかぶったアルバムを白いトートバッグの中に入れて、薬など必要なものを詰め込み出発する。

歩いて約15分弱のそのカフェは周りをあたたかく包むように建っている。家に帰るのと同じようにお店の扉を開けると、中にはひょろりとした男子高校生が1人で角の席に座り、常連客らしき男性が店主らしき落ち着いた雰囲気をまとう女性と楽しそうに話していた。私は川の見える窓際に荷物を置いてメニュー表を開く。

フレンチトーストセット、ドリンクはチャイティーで860円。

昔から甘党の私の体はこんな時でも糖分を求めてくる。これからも自分の意思を大切にしていくつもりよ。私の限られた時間は私の好きな事だけで消費していくの。それはアルバムの写真に映る昔の自分に似ているような気がしたわ。アルバムを見れば見るほど昔が恋しくなるの、ついこないだの事かの様にその時の事を鮮明に思い出せる。1ページにじっくりと時間をかけて最後のページをめくると、手紙が挟まれていた。私から私宛の手紙だ。

内容を思い出す事ができず、すぐに封筒から取り出して読み始めた−

赤くなった目元を隠すように下を向きながら歩く川沿い。ふと見上げた空の色は白く、風も冷たい。あの時に戻りたい。それはかつて、頭が良くて運動も性格も全部完璧なあの子を羨む時の感情に近づいていた。そんなあの子の裏で努力する姿を知らない私は、もし過去に戻れたら私は過去の私に何をしてあげられる?

今の記憶を持って過去に戻ればきっと手紙の内容はあんな事にならなかっただろう。でも、記憶を持たずに戻ればきっと何も変わらない。だから、きっとこのままでいいんだ。だって私は今心のそこから幸せと言い切れるから。過去に後悔があるから、失敗した経験があるからきっと今を幸せと呼べるのだろう。過去に成功しか経験しない私ならきっと過去を振り返ることせずに忘れてしまうのだろう。あの時やっとの思いで達成できたあの瞬間も初めてだろうが関係ない、次々と上書きされて消されてしまう。達成したとき私は今までに感じたことのないくらい最高な気分だったのに、きっと忘れてしまう。何てもったいないのかしら。

きっと人生なんてどう生きても後悔は残る。けれど、最後にはこの世界に生まれて良かったって思えるんだ。嫌な事がたくさんあっても、1つでも良い事があれば上書きされてしまうから。嫌な事は一生思い出せる。けれど、それを鮮明に思い出せる人なんて少ないと思うの。でもね良いことは鮮明に思い出せる。食事も一緒でしょ?好きな食べ物は、こんな味.食感.匂いを思い出せる。でも、嫌いな食べ物はまずいだけで、どうまずいかなんてちゃんと説明はできないと思うの。

つまりね、その時ダメだって思ってもどうせ何日後にその思いは薄れていくのよ。それなら、その時思いっきり悩んで、泣いて、吐き出した方が得じゃないかしら。私はそれを考え付くのが遅かった。これは後悔の1つよ。でも私は幸せ、それは私がこの世界に生まれてきた意味をわかっているから。意味がわかれば全ての事に納得がいく。どんなに理不尽は物事でも相手のことを考えたら納得がいく。納得できるだけで、許せるかは別だけどね。

私がこの世界に生まれた意味、それは人生という素晴らしい舞台を作るためよ。舞台の上で披露してくれるのは過去達で、観客は私1人。舞台袖で準備する未来はマジックを過去に教えてくれてるの。そして、未来の持つ技を全部出し切ったらその舞台は幕を閉じる。

今の私は私の作る舞台の台本を考える監督で、監督の考えるストーリーにアドリブだらけで演じるキャストでもあるの。監督がキャストに怒る事がたくさんあるのよ。監督の口癖は後悔ばかり増やすなって。そしたらキャストは必ず、次こそは楽しませるから待ってろって。

監督は今の私で、キャストはその時の私。

82年間続いている私の舞台はそろそろ幕を閉じそうだ。あいにく未来の持ち合わせている技が少なくてね。

私の今やりたいこと。それは、私にどんな人生でも楽しませろって伝えること。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る