最後の勇者アレク

第三十二話

 勇者達はさ、みんなみんな、生きたかったんだ。


 でも、勇者の殆どは、その生への渇望を理不尽に枯渇させながら、生き急ぎ、生を捧げなければならない。

 そして、やがて無理矢理納得させるんだ。

 死だけが、希望なんだと。

 希望でなければならない。

 希望なんだと自分自身に言い聞かせ、死こそ唯一なんだと――諦める。


 そして、望むんだ。

 生を残すことなく――死にたい、と。


 死ななければならない。

 死ぬんだ。

 死ぬべきなんだ。

 死にたい。

 死にたい。

 死にたい。


 死ねますように。


 聖剣よ、僕を殺してくれ。

 魔王よ、僕を殺してくれ。

 神よ、僕を殺してくれ。


 お願いだ。


 だからきっと、勇者達の生への未練を跡形も無く消し去るために、こんな落差を付けるんだろうさ。


 幸福と、そして、絶望の――










「ううっ‥‥‥」


 僕はギュッと目を瞑り、耳を両手で塞ぎ、部屋の隅にある棚と壁の間に縮こまる。

 もう何時間も間隔を空けて繰り返す母さんの悲鳴に何もできずに、只々無事を祈って震えることしかできない。

 大きな悲鳴が聞こえる度に、母さんが死んじゃうんじゃないかと怯える。

 怖い。

 怖い。

 怖い。

 誰か助けて――。

 母さんの部屋を出入りする人達の足音がせわしなく、誰も僕の存在に構う事はない。

 そして、しばらくして一際大きく、長く続く母さんの悲鳴が聞こえ、僕の心臓はドクリとする。一気に体温が下がった感覚になり、僕はガタガタと震え、耳をふさぐ手が小刻みに動き、指の間から母さんの悲鳴が僕を刺すように飛び込んできた。

 思わず、もっと強く、もっと強くと、手に力を入れ耳を塞いでいると、誰かが僕の肩をトントンと叩く。

 いきなりの事に僕は、ビクリと大きく肩を震わせ、震えながら、それでも、状況を確認したくて恐る恐る顔を上げた。


「坊ちゃん、もう大丈夫だ。ほれ」


 垂れた目元に深い皺をさらに深めて目を細めたお婆さんが、僕に優しく声をかけながら、今度は頭を撫でてきた。名前は知らないが、ずっと母の部屋に出入りしていた中の一人だ。

 お婆さんに手を取られ、母がさっきまで悲鳴をあげていた部屋の前に歩み寄る。

 そして、お婆さんに促され、恐る恐る部屋の中を覗くと、母さんと目が合った。


「ふふ。アレク、こっちへいらっしゃい」


 さっきまで、悲鳴のような泣き声のような、唸るような大声を上げていた母さんは、いつものように優しい目で、まずは、ホッとした。

 僕は、昨日の夜からずっとずっと怖かった。部屋には入るなと言われ、母さんの苦しそうな悲鳴が時折聞こえていたから。父さんは帰ってこないし、母さんを護れるのは僕しかいない。なのに、一晩中僕は何も出来ずにただ、母さんが死にませんようにと神様に祈ることしかできなかった。


「母さん‥‥大丈夫なの?痛くない?怪我してない?」


「まぁ‥‥ありがとう。心配してくれたのね。大丈夫よ。ほら、アレク。あなたの弟ですよ」


「おと、うと‥‥!」


 母さんは、抱えている布の塊を僕の方に少し傾ける。

 そうだ‥‥!

 母さんが心配ですっかり忘れていた。

 母さんは赤ちゃんを産むのだと言っていたのだ。

 僕も、弟か妹が出来ると毎日とてもとても楽しみにしていたじゃないか。


 布の塊をそっと覗くと、赤くてしわくちゃな小さい顔が見えて、僕は目が釘付けになった。


「‥‥ちっさい」


「そうね。赤ちゃんはみんな小さいわ。アレクも生まれた時は同じくらい小さかったのですよ」


 赤ちゃんを見るのは初めてじゃない。

 時々遠目にだが、他の家の赤ちゃんを見たことはある。

 でもこんなに赤くてしわくちゃじゃなく、ふくふくとしてつるりとしたかわいいものだと思っていた。知っている赤ちゃんの様子との違いに、僕は少しビクビクしていた。

 すると、小さな口がむにゃりむにゃりと動き、次に僕よりずっと小さい両手が動かしづらそうに揺れた。


「あら、お兄様‥いえ、兄さんが来たのがわかったのね」


 無意識に、その小さな手に触れると、僕の指を三本ほど、思ったより力強く、でもか弱く、ぎゅっと握り込まれた。

 その瞬間、体中の血が駆け巡ったかと思うくらいブワッと熱くなり、なんとも言えない高揚感に「かわいい」と僕は口から言葉を流す。その自分の言葉が、耳にじわりと響き、僕は弟が可愛いのだと自覚した。


 それからは、弟に夢中の日々だ。

 弟が「あうー」と意味のない声を出すだけで嬉しいし、母さんのお乳を飲んだ後のゲップも可愛くて、弟が泣けばこの世の終わりかと思うほど心配になったけど、幸せすぎて毎日が楽しくって仕方ない。


 そんな日々が続き、弟が生まれて十日も経ってからやっと父さんが帰ってきた。


「男か。当主様にも先日男子おのこがお生まれになられたばかりだ。同じ年になるし将来はお側でお護りできる騎士に育てないとな。ははは」


 弟が生まれたのに、弟を見て発した言葉はそれだけで、弟を抱こうともしなかった。

 こんなに可愛い弟を眼の前にして、もっと言うことはないのかと思ったが、父さんはいつも通り――僕も弟も気にすることなく――振る舞い、次の日には砦に戻っていった。

 僕は、そんな父さんにがっかりしたが、弟に構うのに忙しく忘れることにした。


 僕の世界は、ずっと母さんだけ。

 たまに父さんが帰ってくるが、それはとても珍しいことで、いてもいなくても変わらない存在。

 僕と母さんは、殆ど家から出ない。理由はわからない。

 外の世界は、小さな裏庭だけで、ものすごく稀に、母さんに手を引かれて商店のある通りで買い物をすることはあるが、それだけだった。

 たまに出かけて、幼い僕でもある時わかったのは、家から殆ど出ない母さんと僕は変わり者で除け者だという事。

 笑顔を向けられたことはないし、陰口を言われたりするからだ。

 母さんは抵抗することなく、そういう時は縮こまりながら僕の手を引いて家路に急ぐのだ。

 だから、僕は気付かないふりをする。

 僕ができる精一杯に考えた――正解だ。


 そんな僕の世界に弟が加わったことで、それからの日々は目まぐるしくも、色鮮やかな眩しいものに変わった。


 朝起きて一番に弟に「兄さんだよ!おはよう!」と声を掛ける。

 僕を見て、手足をふにふに動かす様子は可愛くっていつまでも見ていたい光景だ。

 髪の毛は、僕と同じ真っ黒で、瞳も僕と同じ太陽の色。

 母さんは「二人ともそっくりね」と言ってくれる。嬉しい。

 少し大きくなって首が座ってきたら、僕が弟を抱き上げ庭の散歩も許された。

 手入れの行き届かない、雑草の小さな花しかないような殺風景な狭い庭でも、弟が一緒なだけで世界一の庭だと感じれた。

 弟が這って動けるようになってきたら、僕は家中の床を毎朝早く起きて磨くようになった。塵の一つだって弟を汚させたくない。

 母さんに褒められたくて手伝っていた床磨きは、弟を想ってのかけがえのない行為に変わったし、冬どれだけ寒くて手が凍えて真っ赤になっても、心はポカポカだ。

 毎日が、幸せで仕方ない。


「にぃしゃ、んー」


 兄さん、とまだちゃんと発音出来ない弟の舌足らずな言葉に思わずニヤけてしまう。

 特に「兄さん」の「ん」は、弟的には頑張らないといけないらしく「ん」と、目を瞑って「んー」と可愛く唸る。

 可愛すぎて、「なぁに?」と言いながら、毎回小さく丸い頭をゆっくりと撫でる。


「だっこってぇー、でねぇーはっぷぁーでねぇー、にぃしゃ、んー、んーー」

「上手に言えたね!よし、行こうか」


 ここずっと、一日何度も聞く弟の可愛いお願い事。

 抱っこして、小さい庭の隅へ向かう。

 弟の両脇を持ち、出来るだけ高く持ち上げると、ちょうど良く木の茂る葉に弟の手が届くのだ。

 短い手をわさわさと動かし、小さな手で葉を掴む。まだまだ木の方が力強いらしく、枝をしならせ随分と抵抗する。

「頑張れ、頑張れ」と応援し続け、しばらくすると、根負けしたのか、弟の可愛さに負けてくれたのか、木は抵抗を止めてくれ、漸く弟は、プチっと、葉を毟り取ることに成功する。


「はっぷぁー!」

「すごいよ!立派な葉っぱだねぇ!」

「ねぇーー、はっぷぁー!はっぷぁー!」

「昨日の葉っぱより大きい葉っぱだね」

「おっきー」

「うん、大きいね」

「おっきー!おっきー!はっぷぁー!おっきー!」


 誇らしげな弟は、とてつもなく可愛い。

 日々の生活は、単調ではあるが、弟がいるだけで全てが輝くようだ。

 大冒険をするわけではない。

 豪華な食事をするわけではない。

 綺羅びやかな装飾が手に入るわけではない。

 ただ、何でもないような日々を生きているだけなのに、その全てが輝くのだ。


 僕の生きる事の喜びは、弟そのものだった。


 その輝く日々は、天と地程の落差を以って手の届かない日々となるのだと、僕はまだ気付きさえもしていなかった。

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