第二十四話

 その日僕は、“僕”を認識した。


 五歳になったばかりのある日、いつも世話をしてくれる大人が、いつものように僕の手を引いて庭を歩いていた。


「ほら、あの青色の小さな花が夏色草の花だよ。この花が咲くと夏が来るんだ。小さいけど綺麗な花だろう?」


「‥‥」


「摘んでみるかい?部屋に飾ろうか?」


「‥‥」


「ほら、こうして茎を‥‥ほら、簡単だろう?パウロもやってごらん」


 言われたからする。なぜする必要があるかもわからない。従うことにも特に意味はない。

 一歩踏み出し、手を伸ばしながらしゃがもうと腰を屈めたら、前のめりになり転けた。

 慌てた大人が、手を伸ばすが少し遅く、完全には地に着かなかったが、両膝を擦りむき、両手を地面に着いたので掌も擦りむいた。


「あぁ、痛かったな。間に合わなくてごめんな。でも大丈夫だ。今直してやるからな」


 大人はそう言うと、まず膝に付いた砂を払いながら続ける。


「神殿で聖職者が怪我や病を治しているだろう?俺も聖職者なんだ。だからパウロの怪我を治せるんだぞ。ほら、こうやって‥‥」


 温かい光に膝が覆われジクジクとした痛みが引く。

 擦りむけ血が滲んでいた赤い肌が元の色に戻っていく。


「‥‥」


「よし、次は手だ」


 そうして、大人は掌の土を払う。


「パウロも聖職者なら良いのになぁ‥‥」


 大人がそう言うので、擦りむけた掌をじっと見た。

 聖職者なら怪我を治せるとさっきこの大人は言った。そして、僕が聖職者なら良いと言う。

 だから、思った。


 治れ――と。


 掌が淡く温かい光を放ち、傷が治って行く。

 すると、今まで感じたことのないような圧倒的な“存在何か”が、僕を包み込む。

 全身が震えた。

 この上ない幸福感が込み上げ、熱と共に湧き出し、高揚したそれは僕の頬を染め上げ、世界が色付く。

 僕が僕だとはじめて感じた。

 今まで自分の事について何か考えたり思うことも何もなかったのに、急に僕という自分に気付いた。

 色付く世界が眩しく澄んだ世界に僕は


「パウロ‥‥おまえ‥!聖職者だったのか?!」


 ガシリと肩を掴まれ、ハッとする。それと同時に時間が動き出し、興奮からかはぁはぁとしか呼吸が出来ない。


「あぁ、神よ!パウロっ!神が‥‥、おまえにその御力を授けて下さったんだ」


「神‥‥?」


「おまえ‥‥言葉を‥‥!あぁ、神よ‥‥」


 大人は、涙を流しながら僕を抱きしめる。

 だが、そんなことはどうでもいい。


「神って?ねぇ、神って?」


「あぁ‥‥、今のパウロならわかるだろう?聖職者は皆、神を感じられるんだ」


 そう言われ、はじめて意識してさっきの“存在それ”に集中する。蕩けそうな程の多幸感をまた強く感じ、僕の全てが満たされてゆく。


 あぁ、これが、これこそが――神。


 それからは、僕は神様に夢中で、四六時中この大人に神様のことについて質問を繰り返した。


 知りたい――神様を。

 感じたい――神様を。

 近付きたい――神様に。


 朝から晩まで、寝るとき以外、ずっとずっと神様の事しか考えられない。神様は僕の全てになった。

 これまで一言も発しなかった僕が、話すことに大人達は喜び、聖職者だった事に更に喜ぶ。

 僕が神様について聞くと大人達は丁寧に教えてくれた。

 だけど、三月みつきほど経つと、いつも世話をしてくれる大人がこんな事を言う。


「あのな、パウロ。神様の事を知りたいのはわかる。俺も神様が大好きだからな。だけど、神様以外の事にもちゃんと向き合っていかなきゃいけない」


「神様以外‥‥?」


「そうだ。施設のみんなみたいに、お祈りや文字を学んだり、掃除や草抜きの手伝いをしたり、神様以外の会話をしたり」


「なんで?僕は神様をもっと知りたい。神様じゃないものなんて何もいらない」


 言ってる意味がわからなかった。神様を知る事だけの何がいけないのだろう?


「俺はこの神殿で夜の警備をしている。ほら、あそこにいる人は、神殿に来た怪我人をいつも治療をしているだろう?それが彼の仕事だ。大人はみんな仕事がある。施設の子供達にも役割がある。学んで手伝いをしてってな。パウロもそうだ。みんなのように学んだり手伝いをしなきゃならない」


「‥‥」


「わかるか?」


「わからない」


「うーん。そうだな‥‥、文字を学ぶ事で、神様の事が書いてある書物を読めるようになる」


「えっ!神様の書物?!」


「そうだ。それに勇者様の書物もたくさん神殿にはあるぞ」


「勇者様の!」


「あぁ。それにみんなと同じようにして、仲良くなれば神様や勇者様の話をもっとたくさん教えてくれるようになるぞ」


「仲良く?」


 仲良くって何?


「そうだ、仲良く。仲が悪い人や自分勝手な人に、大事な神様の話をしようとは思わないだろう?」


「なんで?」


「なんでって、それは‥‥。例えば、パウロは誰かに嫌なことされたら嫌だと思うだろ?」


「思わない」


 嫌って何?


「‥‥思わない?」


「うん。特に何も」


「‥‥美味しいものを食べたら美味しいとか幸せだとか感じるか?」


「感じない」


 美味しい?幸せ?


「怪我をしたら痛いし悲しくならないか?」


「ならない」


 悲しいって何?


 それから大人は黙り込んでしまった。しばらくしても何も話さないので、僕はいつものように言う。


「勇者マイク様の話の続きを教えて」


「‥‥‥パウロ、明日はサミュエルが来る日だ。明日ちゃんと話をしよう」


「サミュエル?明日?勇者様の話も?」


「‥‥ああ」


 その日はいつもより早く施設の部屋に送り届けられた。

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