第9話 商人の男
幌馬車がごとごと走る。
ずいぶん前から車輪の音以外に聞こえるものはなくなっていた。
追いかけてくる者もいないようだと、頭からかぶっていた布を外したブラッドとポピーは荷台で揺られている。布を取り去ったところで身動きできるほどのすき間があるわけではないので、ポピーはブラッドの膝の上に収まったままだ。
ごとごとごと。
簡素な荷馬車に窓などついてるわけもなく、外の様子はうかがえない。暗さと揺れ、そして互いの体の温もりが心地よかったのだろう。いつしかポピーはブラッドに身を預けてすうすうと穏やかな寝息をたてていた。
今ならば誰の目も無い、とブラッドはポピーの目元までかぶさるフードをそっと持ち上げる。
暗がりのなかで肌を彩る鱗と角、そして銀の髪はあわく光って見えた。
邪神として封印されていたときに輝きを放っていた結晶に似た、やさしい光だ。
月明かりにも似た穏やかさで照らされたやわらかな頬に、長いまつ毛が影を落としている。
静かな寝息にあわせてかすかに震えるまつ毛を見つめる、この気持ちを人はなんと表すのだろう。
ブラッドはより格好良い言い方を探した結果、人より語彙が豊富であったけれど、うまい言葉を見つけられなかった。
湧きあがる熱い思いと温かいもので満たされる胸。
いま、抱いているこの気持ちのなかで言えるのは──守りたい、この穏やかな寝顔。
「お兄さん、起きてる?」
不意にかけられた声に、ブラッドは「ああ」と低く返す。熱くたぎる腹の中など感じさせない、冷え切った声だ。
それというのも邪神様の安眠を妨害するなど、許される行為ではないため。聞こえるぎりぎりの低さで返した、いっそ不機嫌にすら聞こえるだろう声音にカイは気にした風もなく続ける。
「起きてたね、よかった。いまのところ前後に馬車は見えないし、僕に見える範囲で早馬が駆けていった様子もない。外に出てきてもらって問題ないと思うんだ」
「そうか」
ブラッドは応えて、ポピーの体を布の塊のうえにそっとおろした。彼女の持つ立派な角と美しい鱗を隠すため、フードをかぶせておくことも忘れない。
もちろん角にひっかることなどないよう、かつ鱗もきちんと隠しつつ目元が緩く隠れるミステリアスな配分で、だ。
フードの下にのぞく口元がむにゃ、と動くのを見つけて吐息で笑いながら、前方の幌をほどいて顔を出す。
馬車のなかほどではないが、あたりは薄暗い。日はすでに落ち、暮れきらぬ空の明るさだけがあたりの景色をぼんやりと浮かび上がらせている。
ひやりと頬を撫でた風の冷たさに、ブラッドはすぐそこにいる商人よりも先に荷物の中身に意識をやった。
ポピーの身を守る防寒具は買い求めてある。ブラッド自身は十代のころ、お気に入りの袖なしハイネックのロングコートを吹雪く季節にも身につけるという特殊な訓練を受けているので、寒さへの耐性は高い。
そのうえ今はクールな騎士の休日ファッションにこだわって揃えた私服ばかりであるため、シンプルながらも質の良いものがそろっている。やや肌寒い程度の夜ならば、問題なく越せるだろう。
「考えごとは済んだかな?」
「ああ。問題ない」
カイは姿を見せるなり黙りこくったブラッドをいぶかしがるでもなく、静かに馬車を走らせて待っていた。
商人らしい観察眼でブラッドの様子をうかがっていたのだろう。プロフェッショナルらしくて大変格好良いと思う。
「僕は今、聖都から南東にある村を目指して走っているんだよね。そのあとは東側の村をいくつか回って、数日後にはまた同じ道を通って聖都へ戻る。これがいつものルートなんだ」
ざっくりと説明して、カイは続ける。
「で、声をかけたのはお兄さんたちはどこへ行くのかな、ってことを聞かなくちゃと思っていて」
「目的地を告げたとして、あんたはそこへ連れていってくれるのか?」
あえて棘のある言い方をしたのは、カイの意図が読めないため。
見返りに金品を要求するならば、むしろわかりやすくて良いのだが。
「うーん、さすがにどこへでも連れてくよ、とは言えないけど。僕の向かう先でお兄さんたちの目的地に一番近い場所まで乗せてくことはできるね」
朗らかに言うカイに、ブラッドはますます疑いを深めた。
怪しすぎる。
ほぼ初対面の相手にここまで気を配る意図はなんなのか。
そもそも門を通過する際も彼ひとりであるならば、なんの危険もなく抜けられた。それをわざわざ荷台に他人を乗せた理由がわからない。
追い剥ぐほどではないが金品目当てであるならば、今まさに値段の交渉をするべきところであると思うのだが、それを持ちかけてくる様子もない。
ならば狙いはいったい何なのか。
さっぱりわからないブラッドは、相手の出方を探りながらも問いかける。
「あんたの利点はなんだ」
「ええ? 藪から棒だなあ」
「……門を通過できたことは実際、助かった。しかしあんたが俺たちにそこまでする意図がわからない。あんたと俺たちとは、今日たまたま行き会っただけの他人同士だろう」
クールぶってはいるものの、ブラッドは考えるよりも筋肉とパワーで人生のあれこれを乗り越えてきた。考えるのが苦手だからこそクールなキャラに憧れているのかもしれない。
だから思っていることをそのまま相手にぶつけてみたのだけれど。
「あっはは!」
カイは楽しそうに笑った。
「良いね、お兄さん。正直だ。正直すぎて商人には向かないけど、僕は好きだよ」
「む」
バカにされているのか、と眉を寄せたブラッドだったが、振り向いたカイの顔にはおだやかな微笑みが浮かんでいるだけ。相手を貶めるような雰囲気はみじんもない。
ますますもって商人の青年の言いたいことがわからなくて、ブラッドの眉間にしわが寄る。
「ああ、うん。怪しいよね。ごめんごめん、そんなに警戒しないで。理由はあるんだよ、お兄さんのお連れさん銀の髪をしているでしょう」
明るい声でカイが口にした瞬間、ブラッドの手は音もなく背中の剣に伸びていた。
瞬きの間すら許さず抜き放った愛剣を商人の首に突きつける。
「いつ目にした」
「わっ!?」
ブラッドが低い声で問いただしてはじめて、カイは自身に向けられる刃に気がついたらしい。
驚き反らされた首に、鋭い刃先がぴたりとついていく。
「我が主の姿、どこで目にした」
「いやほら、お兄さんに呼び止められて服を売ったときにさ! ちらっと見えちゃったんだよ!」
カイは慌てて答えた。
なるほど、間に合わせでかぶせた騎士のマントから買い求めた服に着替える際に見えたというなら、納得できる。納得はできるが、問わねばならないことが増えた。
「それはつまり、我が主の着替えを目にしたということだな?」
ぎちりぎちりと鳴るのは、ブラッドが力の限りに握りしめた剣の柄だ。
頑丈に作られているはずのそれを握りつぶさんばかりにしながら、ブラッドは恨みがましく続ける。
「俺だって、よそを向いているよう言われて守ったというのに!」
「いやいや、着替えって言っても上着をかぶっただけでしょう! 素肌を見せたわけでもないのに、大げさな……」
「何が大げさなものか! 敬愛する主の一挙手一投足を見守りたいと考えるのは当然のことだろうっ。それにお前、主の素肌だと!? そんな眼で主を見て、馬車に連れ込んで……いかがわしいことをするつもりだったのだな! そのような不埒な思惑など阻止するのみっ!」
主に害成すものは成敗すべし、と剣を振りかぶる。
しかし。
「ちょ! ほんとうに誤解だって!」
叫んだカイが目いっぱい手綱を引き絞ったものだから、たったか走っていた馬がぴたりと足を止めたのだ。
急ブレーキのかかった馬車は当然、大きく揺れる。
もちろんその程度でバランスを崩すブラッドではないが、今の彼には何よりも大切なものがあった。
「邪神さまっ!」
剣を背中にしまうのと同時、身を翻して馬車の荷台に飛び込む。
がったん、と大きく跳ねた荷物が小さな体を押しつぶす寸前、すくい上げて抱きしめた。
「お怪我は!」
「うむぅ?」
呼びかけに、ポピーはぼんやりと目をこすりながら顔を上げる。
「なんじゃあ、まだ暗いではないか」
ふあぁ、とあくび混じりに呑気なことを言うあたり怪我はないらしい。むしろ何が起きたのかも気づいていないだろう。
すっかり止まった馬車のなか、ほっと息を吐いたブラッドの後ろにカイがどたばたと駆け寄ってきた。
「ごめん! 銀の守り手は無事っ!?」
慌てた様子を見るに、本心から心配しているのだろう。
けれどブラッドが気になったのは商人の発言。
「銀の守り手、とは?」
もしや邪神様のことを知っているのか。
ブラッドはドキッとした。
もしやもしや、ここから聖都の商人たちに伝わる邪神様をめぐる隠されし伝説が明らかになったりするのでは。
ブラッドはワクワクッとする心を抑えられなかった。
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