第5話 名無しの邪神
聖都が聖なる都と呼ばれるにはわけがある。
魔物の多い湖畔の平原にあって、魔物が入り込まない奇跡の都。
それゆえ多くの人が集い、力をたくわえ、街そのものが成長を続けることができる。
その奇跡を可能にしているのが、大聖堂を中心に広がるドーム状の結界だ。
聖都が建国されたときから張られているという結界もまた、街の成長と同様にゆっくりとその範囲を広げているらしい。
らしいと言うのは、結界がひとの目にはうっすらとしか映らないから。
運が良ければ陽が昇る朝方や夕日が沈むころに陽光を跳ね返す透明な膜が、ちらりと見えることがある程度。
せっかくの結界なのだからもっとキラキラとど派手にきらめかせるなり、呪文が渦巻くなどのおまけがあっても良いとブラッドは思っている。
そのほうが格好いいし、きっと人気も出るに違いない。
「邪神様を囲んでいた結晶はきれいだったなあ」
「む? ふぁにはいっはは?」
空を見上げてつぶやいたブラッドの声に反応して、邪神が顔をあげる。
道のあちらこちらにある屋台で買ったものを食べるため、邪神は通りの端に備え付けられた椅子に腰掛けていた。ブラッドは望まれればすぐ動けるよう、彼女のそばに立っている。
そんなブラッドを見上げた邪神は口いっぱいにほおばったまま話すものだから、何を言っているのか大変不明瞭だが、恐らく「何か言ったか」と言いたいのだろう。
「邪神様とお会いできてよかったな、と。しみじみ思っていたのです」
嘘偽りのない気持ちを告げて、懐の財布を取りだす。邪神が口いっぱいに頬張ったぶんが、買い求めた品の最後の一口だったのだ
「さあ、次はどの品を捧げましょう、邪神様?」
「もう良いい、十分じゃ! これ以上は腹がはちきれてしまう!」
「そうですか? 先ほどはほかにもあれこれと『かねてより気になっている品がある』とおっしゃっていたように思いますが」
はちきれそうだと言う腹部はゆったりとした服に隠れて見えないが、そでから覗く彼女の手首はずいぶん細い。
偉大な邪神であってほしいブラッドとしてはもっともっと食べさせたいところだけれど、きっぱりとした否定にしぶしぶ財布を懐に戻す。
後でまたなにか甘味を買って渡そう。たしかクレープも気になると言っていたはずだ。密かに決意するブラッドを邪神がちらちらと伺っている。
もしやまだ欲しいものがあったのか、とブラッドは懐に手を伸ばした。すると。
「もう十分じゃと言ったろう。それよりも、その呼び名はなんとかならんのか」
「呼び名? 邪神様とお呼びすることに問題がありましたか!」
「それじゃ、その『邪神』という呼び名! 明らかにおかしかろう」
「おかしい……? 何がでしょうか」
邪神を邪神と呼ぶことの何がおかしいと言うのか。ブラッドは心底からわからなくて首を傾げる。
対する邪神はフードの下にのぞく唇を突き出して不満顔だ。
「出会った時からわしのことを邪神と言うが、わしはそのようなおどろおどろしいものになったつもりはない。まあ、角や鱗がある者など不気味で受け入れがたいというのはわしにもわかるが、これでもちゃんと人の親から生まれた人間なのであってな……」
「不気味!? 何を言うのですかっ」
驚きのあまり叫んだブラッドは、即座にひざをついて邪神の両手を自分の手で包み込む。
「あなたはご自分の角の美しさをご存知ないのか! まろやかな額からのびる硬質な角の美しいことといったら。その質感はまるで最高級の宝石のごとく。硬質でいながらなめらかさを持ち、ゆるやかに天をつくようなその曲線はまさに芸術と呼ぶにふさわしい! その高貴な銀色が不気味わけがありましょうか。いや、ない! むしろその冷ややかな銀がもたらすのは畏敬の念でしょう」
「ぬぁ?」
「そう、人々があなたに抱くのは畏敬の念。ひれ伏し、その身に散らばる軌跡のようにきらめく銀の鱗に口づけたいと願う気持ちなのです。あなたのことを邪悪なる神だと思っているわけではありません。ただ物語にある邪神のように強く、心惹かれずにはいられない存在として『邪神様』とお呼びしているのです」
ブラッドは嘘偽りのない気持ちを真っすぐに告げた。
そもそもは聖女ピリカが『邪神』と呼んでいたのだが、ブラッドの頭からそんなこと消し飛んでいる。ブラッドにとっては『邪神』という呼び名は誉め言葉でしかないのだ。並ぶものに『魔王』『堕天使』『破壊神』があるが、なかでも『邪神』は格好良さと親しみやすさの共存する憧れの呼び名だ。
思いの丈を込めてうっとりと見上げた邪神は「お、おぉ……?」と眉をひくつかせつつもほんのりと頬を赤ている。
「よくわからんが、悪感情の無い呼び名なのはまあ、わかったが」
「が?」
「やはり、その呼び名は改めよ。いらぬ注目を集められる身でないのはわかるじゃろう」
「それは、まあ……」
ブラッドにも彼女の姿形の特異さは理解できる。今はフードで隠しているが、金属のように硬質な銀髪だけでもずいぶんとひとの目を惹き付けるだろう。
それだけでなく、彼女の姿を目にすれば誰だって目が釘付けになるのは間違いない。なにせ、これまで人生で探し求めてやまなかった『角』と『鱗』の両方を持っている人間なのだ。
いたずらに耳目を集めれば、今こうしているようにまったりと飲み食いすることは叶わなくなってしまう。
それはよろしくない。
「では、なんと呼べば良いでしょうか」
「それなのじゃがな」
どんな呼び名だろう、とわくわくしながらブラッドは待つ。
邪神らしい響きを持つ名か、それとも愛らしい見た目に似合いの少女らしい名か。邪神らしいものならば、呼ぶたびにうれしくなってしまうだろう。少女らしい呼び名であったならば、愛らしさと共存する角と鱗の異質ぶりが際立つだろう。
いずれにせよその名を口にできる栄誉に身が震えてしまいそうだ。
そんなことを考えながらブラッドは待っていたのだけれど。
「わしの名、のう……忘れてしもうた」
「は」
驚くブラッドに邪神は眉を下げ笑って見せる。
「情けないことじゃが、ずいぶんと呼ばれずにおったからのう。確かに親からもらった名があったはずなのに、思い出せんのじゃ」
なんて悲し気な顔で笑うのか。
明るい声でさらりと言ってみせる姿にいっそう胸をうたれて、ブラッドはつかんだままの邪神の手をぎゅうと握りこむ。
「そんな顔で笑わないでください」
親からもらった名を忘れるほどの間、誰にも呼ばれなかった者の気持ちなどブラッドには想像もつかない。
ほんの二十一年しか生きていないブラッドごときが想像できるとも思えない。それでも邪神の心に寄り添いたいと思う気持ちは本物だ。
「ならば、名を探しましょう」
「名を?」
「ええ!」
立ち上がったブラッドは、邪神の手を離さないまま微笑みかける。
「呼び名がわからないのなら、気に入るものを探せば良いのです。あなた様が本来の名を思い出せるそのときまでの仮の名を。幸いにもここは豊かに栄えた街、聖都。あちらこちらから様々な品物が集まっているのですから、気に入る名のひとつやふたつ、きっと見つかります」
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