第五章

第五章


 その時、三人に話しかけてきた男がいた。日焼けした顔をして素朴な狩衣を着込んでいる。

「済まない、旦那方。このナイフを買ってくれませんか」

 男は革製の太い腰帯から鹿骨の柄のナイフを出した。聞くと、その男はブルクット族よりさらに北方の森に狩猟を生業とするサンペ族の者だった。名はナンガと言った。

 乏しい路銀をいくらかでも増やそうと、つい博打に手を出して負け込んでしまったのだという。

「このままじゃ、村へ帰ることもできない。馬まで取り上げられてしまったんでね」

 まだ若いナンガは困った表情だった。セレチェンは相手にもせず横を向いていたが、カラゲルは同情するような様子だった。

「博打はまずかったな。俺たちのような田舎者はいいカモにされてしまう。相手はどいつだ」

 ナンガが指さす方を見ると隅の卓に白い粗布の長衣を着た男が座っていた。フードの中に見える横顔は目元が隠れているせいか暗く怪しげな様子だった。

「よし、俺が取り返してやろう」

 カラゲルは酔いの勢いもあって席を立った。ナンガは止めたが、カラゲルは構わずフードの男の前に座った。

「俺が相手だ。勝負しよう」

 男はおずおずと目を上げた。フードの陰から探るような目つきだ。

「どうも、あなたとは勝負したい気分にならないが。その族長の刺青が気になる」

 稲妻の刺青をブルクット族長のものと知っているこの男は、それなりの世渡りをしてきた者らしかった。近くで見ると白い長衣も砂ぼこりを吸って薄汚れている。

「俺は族長ではない、族長の息子さ。まあそんなことはどうでもいい。これは男と男の勝負だ」

「そこまでおっしゃるなら。サイコロでいいでしょうね」

「いいとも。珍しいサイコロを持っているな。よくある骨のやつではないぞ」

「これは黒水晶です。サイコロは二つ。合わせて偶数、奇数、どちらが出るか決めておいて、二人で一つずつこの木椀に投げ込むのです。もちろん同時にですよ。さあ、どっちにします」

 卓の横に立ったナンガが心配そうに二人を見比べていた。カラゲルは偶数だと言い、フードの男から渡されたサイコロを投げ込んだ。男もサイを振った。

 出た目は奇数だった。それから、カラゲルは五回立て続けに負けた。

「旦那、言わんこっちゃない。もうやめといた方がいいですよ」

 ナンガは見ず知らずのカラゲルを巻き込んでしまって後悔していた。

「何を言うのだ。お前の馬を取り戻さなくては。大丈夫、そろそろ、こっちにも風が吹いて来る頃だぞ。よし、次は銅貨四枚賭けよう」

 フードの男は、お好きなようにと言って、うつむけた顔の口元をうっすら微笑ませた。

 カラゲルはまた負けた。酔いは少し醒めてきて、代わりに焦りの感情で身体が熱くなってきた。

「よし、次は銅貨十枚だ」

「旦那、だめですよ。もうよしてください」

 ナンガはカラゲルに言っても無駄だと思ったのか、クランとセレチェンの方へ目を向けた。

 二人は自分たちの卓に座ったままサイコロ博打の木椀を見つめていた。

 クランは妙なことに気付いていた。サイコロが投げ込まれ、音がおさまり、目が決まる。その瞬間、必ずオローが短い鳴き声を上げるのだ。

 キキッ、という鳴き声は何かを警告しているように聞こえた。

「おい、セレチェン、妙じゃないか……」

 クランが説明するまでもなく、セレチェンは気付いていた。セレチェンは席を立つと賭けの卓の横へ行った。

 すっかり熱くなっているカラゲルは空になりかけている銭袋を探っていた。

「カラゲルよ、いっそのこと袋ごと賭けてしまえ。それで負けたら、お前だけ村へ帰るといい」

 セレチェンは口元に薄笑いを浮かべていた。カラゲルは、よしとばかりに銭袋を卓に投げ出した。すでに負けている銅貨がフードの男の前に小山を成していた。

「いや、悪いが、もうこれで終わりにしたい。いい勝負をさせてもらった」

 フードの男は勝負を断り、手元へ銅貨を集めにかかった。その手をセレチェンが軽く押さえて止めた。

「まあ、そう言うな。もう一勝負やってくれ。この男に旅の教訓を授けてやりたいから」

 そこへクランも手甲にオローを載せてやって来た。

 生きた鷲と刺青の鷲。二頭の鷲に気圧されたのか、フードの男は咳払いをして、それならとカラゲルに向き直った。

 カラゲルはすっかり酔いの醒めた顔を両手でごしごしこすった。

「そう来なくっちゃ。街道の精霊たちよ、我に味方したまえ。次は……偶数だ!」

 カラゲルとフードの男は同時に黒水晶のサイコロを振った。木椀の中で転がったサイコロが止まる瞬間、オローが鋭く鳴いた。目は奇数だ。

 カラゲルは両手を卓の上に突いて椀の中をのぞき込んでいたが、フードの男はサイコロの目を確かめもせず、片手を卓の下にやっていた。

「この手は何だ」

 身を屈めたセレチェンが卓の下でフードの男の手をつかんだ。それを頭の上にあげさせると、男の指は奇妙な形に曲がり、からみ合わせてあった。

「これは印じゃないか。こいつ、魔法を使っていたんだな!」

 カラゲルは卓越しに腕を伸ばし、フードの男につかみかかろうとした。

 男はセレチェンの手を振り払い、とっさに別の印を結んだ。左右の手を顔の前で振ると空中に顔の大きさと同じくらいの火球が、ごおっと音を立てて燃え上がり、こちらへ飛んできた。

 カラゲルやセレチェンが驚いて身をかわす隙にフードの男は長衣の裾をひるがえして逃げ出した。一目散に戸口へ向かい、開け放たれた外の街道へ出ていく。

 その時、戸口の横に腰かけていたシャーマンが鋭く声をかけた。

「そりゃ、娘。鷲を放て!」

 クランは反射的にオローの目隠しを取った。オローは翼を鳴らして飛び立った。

 酒場は大騒ぎになった。人混みの頭の上を巨大な鷲の翼がかすめて行く。戸口近くナホ族が座っている長い卓の上を越えた時には、みな椅子から転げ落ちる始末だ。

 オローは戸口から外へ飛び出した。続いてクランも街道へ出た。

 外はもう暗くなっていて月光だけが道の向こうに逃げて行く長衣を浮かび上がらせている。

 クランは、しまったと思った。いくら目のいい鷲といえども、こう暗くなってはその視力も利かない。

 オローは街道沿いにフードの男を追っていたが、戸惑うように空中で二度、三度と羽ばたいた。

 鷲の羽音に怖気づいた男は振り返るなり、また指で魔法印を作った。

 その瞬間、オローは迷いもなく降下し、男のフードへ鉤爪を立てた。

 叫び声を上げて男は道に倒れた。もう魔法を使う余裕もない。オローの爪はフードを切り裂き、その切れ端が男の肩のあたりに垂れ下がった。

 男は狩りの獲物のように地面に押さえ込まれた。白い長衣は泥だらけになっている。

 駆け寄ったクランが叫んだ。

「そらっ、オロー。目をえぐってやれ!」

 ヒイイッと悲鳴を上げた男は顔を伏せてうずくまった。

 クランは愉快そうに笑いながら、オローを男の長衣から引き離した。白い粗布は穴だらけになっていた。

「安心しろ、冗談だ。オローは食通なのでな、腐った人間など食わん」

 セレチェンとカラゲルが駆け寄ってうずくまった男の震える背中に目を向けた。酒場にいた者たちはみな道へ出て来て様子をうかがっていた。

「黒水晶のサイコロがどうも怪しいと思ったが、こいつめ」

 カラゲルは長靴の先で男の脇腹あたりを小突いた。セレチェンはそれを手で制すると言った。

「その白い衣、あの魔法印。ナビ教の祭司ではないのか。それがどうしてこんなことをする」

 男は泥まみれの顔を上げると、酒場の前にできた人垣の中の一人を指さした。

「あ、あの男に……そうせよと言われたんだ……」

 指さされた男は酒場の主人だった。その場の視線を一身に集めた主人は目を左右に泳がせ慌てふためいた様子だ。

 フードの男はセレチェンの言ったとおり、元はナビ教の祭司だった男だった。

 ナビ教はシュメル王が即位後、庇護を与えることを拒んだため、すっかり廃れてしまっていた。神官たちが王位継承にまつわる争いに深く関係していたことをシュメル王は憎悪していた。

 この男もかつては神殿に仕えていたが、今では王国のあちこちを放浪する乞食坊主に成り下がっていたのだ。

 宿賃が払えなくなって困っていたのを酒場の主人にイカサマ博打で稼ぐようにそそのかされた。男もそれが癖になって、ここ数日、主人と稼ぎを折半してイカサマに励んでいたというのだ。

 祭りのおかげで散財めあての田舎者の客が多い。少しくらい巻き上げたって大丈夫だと、酒場の主人は言ったらしい。

「この野郎、田舎者を馬鹿にしやがって」

 サンペ族のナンガが怒り狂って腰帯からナイフを抜いた。人垣が驚いて後ずさった時、一人だけ前に出た者がいた。メル族の紳士だ。

「どうか、お待ちください、サンペ族のお方。街道や宿駅の安全を保つのは我がメル族の務め。この主人も私と同族です。どうか、同族同士で話をさせてください」

 若いナンガは怒りが収まらないようだったが、懸命にこらえてナイフをしまった。

 メル族の紳士は主人に険しい顔を向けた。

「イカサマ博打のことは本当なのかね。正直に言ってもらいたい」

 酒場の主人は汚れた前掛けをもじもじと手でいじくりながら小首をかしげて見せた。

「え、ええ……もしかするとそんなことを言ったかも……」

「主人、あんたとは長い付き合いだ。私の隊商が王都へ向かう時も必ずこの酒場へ立ち寄るはずだ。はっきり言ってくれ、あんたはあの魔導士とグルなのか」

 主人はもう逃れられないと思ったか、頭を縦に振った。

「だ、だけど、旦那。博打なんてのは酒場のちょいとした手なぐさみで……」

「だから、旅の人をだましていいと言うのか。雨の降る日とサイコロの目は神々が決めるという言葉がある。あんたは旅の人をだまし、神々までだましている」

「そんな大げさな」

「旅の博打は運試しだ。旅路の行く末を神々に尋ねているのだ。あんたはそれをごまかしていたのだ」

 メル族の紳士はナンガに向き直ると丁寧に頭を下げた。

「サンペ族の方、あなたからだまし取った金はちゃんと返させます。どうか、我が部族の者を許してやってください」

「そりゃいいが、馬も返してもらわなくちゃ。あれは親父の馬を勝手に乗って来たもんで困るんだ」

「もちろんです。それから、ブルクット族の方へもお返しします」

 カラゲルはことさらに鷹揚そうな笑顔を見せると、ナンガの肩を叩いて言った。

「まあ許してやるとしようぜ。どこにもクズ野郎ってのはいるものだ……あれ、あいつどこへ行ったのだ……」

 いつの間にかフードの男が姿を消していた。これはナビ教の魔法ではなかった。あたりを見回すと、街道を外れて草原を逃げていく白い後ろ姿が遠く見えた。

「ちくしょう、すばしっこいイカサマ坊主め!」

 かつてのナビ教祭司なら、こんな罵声を浴びることなどありえなかった。

 今では散り散りになってしまったナビ教の祭司たちは普通の部族の民とはみなされていなかった。彼らは生まれた部族を離れると親兄弟とも縁を切って僧院で修行を積んだ。そして各地の神殿に仕え、その地の部族の民の厚い敬意を得ていた。

 王国の救世主ダファネアを崇めるナビ教の教義によれば、王国の精霊はみなダファネアに率いられた羊の群れのようなものだった。これは部族の古い信仰とは矛盾するところがあった。

 カラゲルが月光に照らし出された草原に向かって叫んだ。

「この野郎、戻って来い!」

 白い長衣はしだいに遠ざかり、見えなくなってしまった。

 馬を出そうとした者もいたが、メル族の紳士が皆に声をかけた。

「あの坊主は放っておきましょう。せっかくの祭りの気分が台無しになってしまう。今夜の酒代と宿賃は私が持ちます。酒場にいらっしゃるみんなの分をね。さあ、飲み直しましょう」

 街道に歓声が上がり、人々は酒場へ戻った。

 クランはオローを腕に据えたまま、夜の草原を透かし見ていた。

「逃げられるとはな。狩りの要領で縛り上げておけばよかった」

 その時、クランに声をかけた者があった。

「よい鷲じゃな」

 声のした方を見ると、そこにいたのはブンド族のシャーマンだった。胸の鏡に月の光が青くたたえられていた。

「ブルクット族の長老が見つけたベルーフ峰の鷲だ。こいつは魔法が分かるらしい」

「魔法は精霊の力を使う。その鷲は精霊に近い。とても近い」

 シャーマンが盲目であることにクランは気付いた。シャーマンは何事か考えこむように見えない目を伏せた。

「鷲使いよ、お前の目は青いのじゃないか。空のように、河のように」

「そうだ。どうして分かる」

「失って初めて見えるものがある」

 シャーマンは朗唱を始めた。低く、極めて低く。

 小柄な老女の身体から発するとは思えない深い響きが街道に広がった。大地から湧き上がってくるようでもあり、また、天から降り注ぐようでもある、不思議な響きだった。

 クランの腕の上でオローが鳴いた。シャーマンは朗唱を終え、口元に薄く笑みを浮かべた。

「精霊が答えた。旅路はこの先、遥かに続いている」

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