第17話 2034年7月24日日曜日①'
井上が彼方瑠璃に向けて話した内容は、一に対してのものとは少々違う。逢沢宗一郎と生前親しくしていた友人が、彼がどの様な交友関係を持っていたか知りたいと言っている、というセンチメンタルな理由を使って会う約束を取り付けたのだ。
菜々子は、同じ女子を偽っていることを後ろめたく思っていた。男女差別では無いが、男の人よりも女の人の方が感情に対する共感性というものに優れていると、菜々子は少ない人生の中で感じてきた。それだけに、彼方瑠璃が善意で時間を作ってくれたことが申し訳ないのだ。
「はぁ……気が重いな……」
しかし、他の理由でアポイントメントを取るとどうしても〈被疑者扱い〉の意味合いが含まれてしまう。そうすると、彼女が事件に関わっていた場合に大変な事態を招く可能性がある。そういう思惑があって昨日、井上と純武達は話し合ってこの理由に決めたのだ。
「菜々っち、まだ言っとんの〜?」
座席に座り、頭の後ろで手を組んで電車に揺られる聖真が困ったような顔で言う。待ち合わせをしてから今まで、菜々子はずっと俯いている。会話はするがいつもの覇気が無い。
「しょうがないよ〜。瑠璃っちが犯人とかの可能性もゼロじゃないんやし〜」
「分かっとるよぉ」
菜々子の気分が芳しくないのはそれだけではない。聖真もそれは分かっているだろう。純武の事が気に掛かっているのだ。
もし、純武と井上が最悪の事態に陥ったらと考えると菜々子は居ても立ってもいられない。でも言えなかったのだ。私も一緒に行くと。怖いからという理由も一部あるが、本当のところの理由は違う。だからこそ、菜々子は歯痒いのだ。
「純武と井上さん、大丈夫かな?」
「まぁ、井上さんが周防実千って人と連絡取った時に安心出来る材料が出てきたでしょ?それに何かあっても刑事が付いとるんだよ?きっと大丈夫だよ〜!」
「そうだよね……。うん。大丈夫だよね」
「……ねぇ、菜々っち~」
口調が陽気を含んだものに変化した。
「……なに?」
聖真はずっと気になっていたことがあった。それは、初めて純武と菜々子と3人で図書館で課題をした時のことだ。その日からこれまで聞きたいと思っていたが空気を読んで我慢していたのだ。
「な〜んでメイクしなくなったの?」
今までの憂いていた表情が嘘のように菜々子がハツラツとしてバタバタと手を振る。菜々子は休日の今日でもナチュラルメイクだが、以前は違っていた。
「ナナナンデソソンナコト」
聖真は壊れた機械みたいな挙動をしている菜々子を見て察しがついた。あの日、純武が菜々子に接する態度が違ったことに自分は気付いていたからだ。それを菜々子が気付いていない訳がないと思っていたのだ。
「そうだよね〜。わかるよ菜々っち」
「え?」
菜々子の時が止まる。
「──わか、る?な、なにがどす──です?」
顔面が紅潮する。全身に冷や汗が出る。菜々子は顔を上げられなかった。
「一緒に居たら分かるよ〜。俺もあいつとは長いけど、多分あいつも──」
その先の言葉を聖真は続けなかった。それでも、その言葉は菜々子に元気を与えた。
菜々子は顔を上げる。上げられた。
「……純武ね、本気メイクしたら目……合わせてくれなかったんだ」
顔を上げているが視線はやや下を向いているものの、挙動はいつもの菜々子だ。
「でも、ノーメイクの時や少しのメイクの時は目をしっかり見て話しをしてくれるの。──私……純武の目を見て話をしたいんだ」
菜々子の泣いているような笑っているような表情を見て、ここに純武が居たらどういうリアクションをするのかと聖真は想像した。
「菜々っち。それ本人に言ったら、鼻血出して喜ぶと思うよ〜」
2人がそんな話をしていると、電車は目的の駅についた。
彼方瑠璃の希望で、会う場所には名古屋駅の裏にある喫茶店を指定された。普段の元気を取り戻した菜々子は、歩きながらふと気になった。
「聖真にはそういう子っていないの?」
私だけ恥ずかしい思いをしたのだから、聖真も同じ思いをしないと不公平ではないかと菜々子は思って聞いた。
すると、目をキラキラっとさせながら聖真は答えた。
「良くぞ聞いてくれた〜!俺はね、金髪の白人さんかハーフさんが好みなんや〜!」
「え、と……特定の個人じゃないのね……」
「だから〜、一・ウェイクフィールド君の知り合いか、妹か、お姉さんとかに白人orハーフの子が居たらお近づきになりたいんだよね〜ッ!馬斗っち、あだっちに期待!」
「あはは……」と愛想笑いをした菜々子は、このことは純武もきっと知っているんだろうなと容易に予想が出来た。
待ち合わせの喫茶店の雰囲気を見て菜々子も聖真も同様の感想を持った。昨日の喫茶店にそっくりだな、と。2日続けてこのような古めかしい場所を訪れたのは2人にとって初めてのことだっま。
〈チリンチリン〉と音を鳴らして入店すると、一宮の店とは違い中には結構な数の客が入っていた。2人が辺りを見回すが、誰とも目が合うことは無い。彼方瑠璃とはお互いの特徴や目印などの伝達はしていない。2人は内心しまったな、という顔をする。
「どうする?まだ来とらんのかな?」
「まだ5分前やからね〜」
菜々子が見回す視線を聖真に向けようとした時、視界に妙な光景が映った気がした。そこにもう一度視線を向けると菜々子は開いた口が塞がらないという口元を晒す。
「せ、聖真……ひょっとしてあれかな?」
聖真だけに分かるように控えめに指を指す。聖真が菜々子の指の先を見ると、新聞紙を広げている1人の客がいた。聖真も菜々子も呆気にとられた。その新聞紙にはピンポン玉くらいの穴が空いており、そこから人の眼球が露わになっていたのだ。
「(ちょ、あれ何ッ?)」
「(……うわ〜)」
席の角度の問題で、2人からは眼球以外の箇所が白い指しか見えない。しかしその眼球はこちらを向き続けている。
店の入口に居ては迷惑になると思った菜々子が今度は親指を指す。新聞と眼球の方へ「先に行ってよ」と聖真を向かわせると、菜々子はに後ろから付いて行った。広げられた新聞紙の前に来ると、聖真がいつもの如く喋りかけた。
「あの〜?彼方瑠璃さんですか?」
新聞紙から眼球が消えたと聖真は思ったが逆だった。新聞紙が下に降ろされただけだ。そこから白い細い首と腕と、白いマスクを付けた顔が表れた。
「(シッ!──声が大きいです)」
小声でたしなめる。ゆっくりした動作でマスクを外す。その動きは、眼球からだけでは分からなかった品の良さを醸し出していた。
「初めまして。私が瑠璃──です」
性を名乗らず名だけで自己紹介をした彼女を、菜々子は綺麗な人だと認識したが、それよりも現在まで経験したことのない〈何か〉の差を目の前に感じた。
「良かった〜。俺は平岩聖真、こっちは可世木菜々子。どっちも高2ですんで宜しくお願いします〜」
「……あ、今日は宜しくお願いします」
菜々子は彼女を深く観察しようとしたことで聖真にワンテンポ遅れて挨拶をする。
「そうなんですか?私、逢沢さんのご友人と伺ってたので……てっきり大人の方々がみえるものとばっかり思い込んでました。でも、私は高校1年生ですのでどちらにしても先輩方には変わりないですね」
世界の彼方自動車の会長の孫娘。昔読んだ少女漫画で出てきたご令嬢は語尾に必ず「ですわ」とか「ですってよ」とかを付けていたが、リアルではいくらなんでも言わないかと菜々子はちょっぴり安心した。普通の語尾からも高貴さは十分伝わってくるのに、これ以上のブルジョワ成分は庶民の菜々子には過多だ。
聖真が「んじゃ、ここいいかな〜?」と言うと瑠璃は「どうぞ」と返し、テーブルのソファに腰を下ろす。聖真は窓側、菜々子と瑠璃が通路側の席となるので女子が向かい合う形になる。
瑠璃を正面に見据えると菜々子はやっと本来の目的を思い出す。聖真が口を開かないので自分がと思い、座った姿勢の重心を前方に移動させかけたが、殆ど同時に瑠璃が目の前に何かを差し出した。出鼻を挫かれた菜々子は差し出された物を凝視したが、それが何か把握するのに数秒を要した。メニュー表だった。
「私もまだ注文していないので。どれにされますか?」
テーブルを見ると、おしぼりと水の入ったコップが1名分置かれているだけだった。
「そ……そうだね。えっと、私はアイスカフェオレにしようかな」
「アイスコーヒーかな、俺は〜」
瑠璃は頷くと、テーブルの隅にある本物の小さなベルを鳴らした。すぐに中年の女性が席にやって来た。
「はーい。何になさいますか?」
「アイスカフェオレとアイスコーヒー、それと〈いつもの〉をお願いします」
「はーい。かしこまりました。少々お待ち下さーい」
注文の仕方も流れるような品のある喋り方だった。しかし2人が気になったのは〈いつもの〉の方だった。それは普段からこの喫茶店を利用しているということを意味する。
菜々子には確か彼方瑠夏は津島市に住んでいると、宗一郎が言っていたと馬斗矢から聞いた記憶があった。津島市から名古屋までは電車で30分程度掛かるが、徒歩を含めると40分以上は掛かるはずである。そこまでしてこの店に通う理由があるのだろうかと疑問に感じた。
「では。『逢沢宗一郎さんの友人が生前の交友関係について知りたいと言っている』と刑事さんから伺っています。逢沢さんが亡くなられたというのは私もニュースで知りました……ショックでした」
菜々子はこちらから本題を切り出そうと心の中で準備体操をしていたが、手間が省けたことは喜ばしいことだと自分を励ました。
「逢沢さんとは、どういうきっかけで知り合ったの?」
そう聞いて(やっちゃったッ)と心中で叫ぶ。自分らは宗一郎の死を受けて、親しくしていた自分達が知らない彼のことを知っておきたいという偽りの設定を作ったのだ。であれば、ここは共感だ。女性は共感性に優れることは自分の経験上自信がある。それに則ると「私達もショックでした」という共感を示すのが普通だ。馬斗矢のお兄さんが亡くなったことは本心から残念だと思うが、目的があっての会話だ。どうしても気持ちが本題に向かおうと先走ってしまう。今の会話の流れは非常にマズいと菜々子は意識の中で頭を抱えた。まるめリレーのスタートでズッコケたのと同じだ、と自分を叱咤した。
菜々子は瑠璃の目を見て話をしているが、瑠璃の目から疑念の色が浮かんでいないか注意深く観察した。────が、しっかりとその色が伺えた。聖真の方へ顔を向けると、苦虫を噛み潰したような顔そのままの表情をしていた。
「あなた方は逢沢さんのご友人……なんですよね?」
だからだ。だから嘘を付くのは嫌だったのだと菜々子は自責する。自分はなんでも顔に出るタイプであることを自覚している。そんな自分が平然と嘘が前提の上の会話をするなど土台無理だった。聖真に任せるべきだったと後悔したが、やはり純武の件のせいか肩に力が入っていて馬鹿みたいに突っ走ってしまった。
「まぁ、変に話し込んでからバレるよりはいいんじゃない?菜々っち」
その言葉に瑠璃が2人に対して少し鋭い目を向けるが、動揺の色を見せずに聖真は瑠璃に話し掛ける。菜々子は瑠璃の視線を受けて肩幅を狭めた。
「んとね〜、俺達は逢沢宗一郎さんの弟の逢沢馬斗矢の友達なの」
「逢沢さんの……弟さん?」
2人は瑠璃から向けられた視線が柔らかくなった気がした。そうすると、瑠璃は聖真の言葉に何かを察したといった頷きをする。
「そういうことでしたか。でも……警察の方から連絡があった時に、弟さんのご友人だと言って下さっても会うことを拒んだりしませんでしたよ」
瑠璃は、宗一郎の弟のことを心配して少しでも励まそうとした友人が、故人のエピソードを聞きに来た等の理由で身分を偽っていたと勘違いしたのだと2人には分かった。
瞼を閉じて静かにそう言った声は慈愛に溢れたものだったが、だからこそ菜々子にはそれが耐えられなかった。
「ううん。そうじゃないの」
「違う……?どういうことですか?」
瑠璃は今度は困惑の色を伺わせる。
「あ〜あ……菜々っち。言っちゃうんだね」
「……やっぱり、嘘は駄目だよ」
菜々子は聖真と代わる代わる口を開き、今に至るまでの逢沢宗一郎とそれに関わる全てを瑠璃に語り始めた。
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