第7話 2034年7月18日火曜日③

 父親の車に乗り、この一宮警察署に着いたのはどれくらい前だろうか。1時間か2時間か、それとも30分くらいしか経っていないのか。

 よくドラマで家族が遺体と面会する時に、まるで眠っている様だ、と表現する。実際に実の兄の遺体を目の前にして、馬斗矢も同じ事を思った。

 8歳も離れているからか、小さい頃から兄には沢山遊んでもらった。周りでは兄弟の間では喧嘩が絶えないという声が聞こえてきたが、宗一郎は馬斗矢にとても優しく喧嘩などした記憶がない。頭も大変に良く、うちの高校なら余裕で学年1位だろう。東京大学だって受ければ、まず受かると言われていた程だった。そんな非凡な才能を持っていても、兄は凡庸な弟を貶すこと無く可愛がってくれた。家から通えるからと名古屋大学に難なく入り、量子力学を専攻し、大学院まで常にトップの成績を取った。卒業後は在学中からスカウトされていたという研究所に就職し、そのエリートぶりを弟ながら誇りに思っていた。両親はその比ではなく、特に母親は溺愛していた。馬斗矢にも愛情を注いでくれているのは分かるが、客観的に見ても兄への溺愛ぶりを感じずにはいられなかった。それでも両親のことは好きだし、兄のことはそれ以上に好きだったかもしれない。

 遺体と対面した時、父親は気丈に振る舞っていたが、母親は気が狂うのではないかという程号泣していた。馬斗矢も当然悲しみに打ちひしがれたが、母親のあの姿を見せられると自分がしっかりしなくてはと思わせられたので、何とか精神状態を保つことが出来た。

 担当した警察官が遺体を引き渡すための手続きを両親に促していたが、父親が母親を落ち着かせるまで待つということになった。

 その間に馬斗矢は1人廊下に出て、長椅子に座りスマホを手に取る。足立から「まだ?」というメッセージが届いていた。返信する気力は残っておらず、液晶の光が灯ったままポケットに入れる。足下に見えるコーヒーのシミを凝視しし続け、今は何も考えられないことを自覚した。

 すると、いつの間にか視界に茶色い革靴が紛れていた。顔を上げると、顎からもみあげにかけてうっすらとヒゲを生やした40代くらいの男が馬斗矢を見下ろしていた。男は椅子に座るわけでもなくしゃがみ込み、目線の高さを合わせて何処からか手帳を取り出した。

「大変お気の毒でした。逢沢馬斗矢君ですね?」

 手帳は警察手帳で、井上渉と名前が書かれている。警察官であった。ぼんやりと手帳を見つめていると、パタッと閉じられズボンのポケットに帰っていく。

「私、捜査一課の井上と申します。逢沢宗一郎さんのことについて、少々伺いたいことがあるのですが宜しいですか?」

 高校生の自分に対して敬語を崩さないこの警察官に好感を感じた。しかし、落ち着かない気持ちになるので「敬語じゃなくていいですよ」と答えた。それが質問の了承だと捉えた井上は頷き、柔らかい物腰で口を開く。

「これは形式的なものだから、気を悪くしないで聞いてもらえるかな?」

 目で同意の意志を伝えると、そのまま質問を続ける。

「宗一郎さん…お兄さんが、誰かから恨まれるような心当たりはあるかな?」

 馬斗矢は勢いよく頭を上げた。

「事件性は無いんじゃなかったんですか?!」

 遺体と面会する時に兄の大まかな死因について聞かされた。理由は不明だが外傷が無いのに脳が損傷していること、損傷が目立ったのは頭頂葉という場所だったと。それ以外に薬物やウイルス・細菌も見つからず、同様の急死がおよそ1年前から全国で4人出ていたということも聞いた。どちらにしても原因不明の急死としか言えないと。それなのに、この警察官は他殺の動機を確認してきた。つい声を荒げてしまった。

「落ち着いて。形式的な質問だと言っただろ?」

 言われて「あっ」と視線を下げる。

「どうかな?」

「──わかりません。でも、兄が、恨まれるというのはイメージがつきません……」

「お兄さんはもの凄く優秀な研究員だったみたいだね。学業も名大でトップ。そういう優秀な人は、知らず知らずに周りの反感を買いそうなもんだけど──」

「そんな訳ありません!」

 先程この警察官に好感を持ったことを馬斗矢は恥じた。兄を亡くしてばかりで、ろくに考えることも出来ない人間に対してよくもそんな事を。傷に塩を塗るとは正にこのことだ。

「すまなかった。」

 白髪が混じり初めている頭部が眼前に飛び込んできた。予想外の出来事に馬斗矢は戸惑う。もうこの井上という人物が良い人なのか、そうでないのか分からなくなってきた。姿勢を戻した井上は物腰は柔らかいまま、目の奥に火を灯す。

「これは俺の勘みたいなものだ……だから他言はしないでくれ。兄さんを亡くしたばかりの弟の君に、こんな事は言わない方が良いとは思うが、俺の心の中の何かが君に言えと命じている。──だとしても、聞きたいかい?」

 井上の抑揚のついた言葉に、馬斗矢は無意識に頷いた。

「俺はこの──お兄さんを含めたこの急死は、連続殺人事件だと考えている。だが……上は他殺を証明付ける証拠が無いことを理由に、事件として扱わないことを決定した──!」

 肩に力が入っていることに気が付いたのか、井上は一息置いた。首を軽く回し、蛍光灯に何度も突進している蛾を見る。吊られて馬斗矢もその蛾を見た。

「警察官は単独行動が取りにくい。学生の君にこんな事を頼むのはどうかしてる。それは分かってる。だけど感じるんだ。“におい”を。だから──」

 井上は事件には“におい”があると信じている。それは現場からも感じたが、重要なキーパーソンからも感じることがある。今回、この逢沢馬斗矢から“におい”を間違いなく感じる。必ず、この不可解な事件の役に立つはずだ。

「協力してくれないか?」

 とっくに蛾から目を離し、馬斗矢の目を真っ直ぐと睨む。それなのに、敵意等のネガティブな感情は感じない。

 確信した。井上は良い人間だと。この人の言葉の節々に怒りを感じた。この人は正義の人だと。自分の正義を貫こうとしていると。兄がもしも、誰かに殺されたのだとしたら、必ず仇を取りたい。そうでなくとも最低でも死の真相を知りたい。馬斗矢は指先が真っ白になる程強く、拳を握った。

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