第3話 終わる日常

 コンビニの前まで来るとドアを外開きに開く。丁度、中から同年代くらいのニット帽を被った女性が出てきてすれ違った。何故か[俺]はその女性を振り返って見た。女性と目が合ったが[俺]はすぐに目を逸らした。その理由は分かる。目の色が冷たかったからだ。女性が離れて行くのを見て、すぐに俺は左耳を触る。

「どうした?」

『……今の子──いや、何でも無い』

 そうか、と心の中で言った。

「何か目が怖かったな」

『あ、あぁ……』

 [俺]は何か言いたげだったが、そのまま弁当コーナーへ向かうと何を食べるかを吟味し始めた。



 朝昼兼用のコンビニ弁当を食べるのも[俺]に任せてみた。不思議な感覚だった。目を閉じて横になっているつもりなのに、視覚と味覚、口に入れたものの食感、硬さや満腹感が伝わってくる。食べることは好きだが、これなら主導権を交代していても食事の楽しみは共有出来る。

『どうだ?ちゃんと共有出来てるか?』

「あぁ、問題無いな。これならお前も主導権が自分に無くても、食の楽しみは体感出来るよ」

『それは良かった!喧嘩にならずに済む』

 俺は[俺]だから、ゴミの片付けも俺のやり方と変わらない。こういう所でストレスが無いのは良いかもしれない。見ていて腹が立たない。



 夕方になるまで、お互いに先の話が気になっていたアニメをサブスクで観ていた。バイトに行く時間が迫ると、重大な事に気付いた。それは、バイトの時の主導権を分担出来るのではないか、という事だ。これが出来れば、お互いにとってかなり都合が良い。何せ1/2の労力で1人分の給料が得られるのだ。

『流石俺!ナイスだぜ!』

「だろ?で、今日はどうする?」

 「ん〜」と、どっちが言っているのか分からなかったが、[俺]が『しょうがない。居候の俺が先にやるよ』と言ったので、その申し出を受けた。



 満満軒までの道のりも[俺]に任せても良いと言うので、その言葉に甘えた。しかし楽だ。これなら将来、社会人になった時も負担が1/2になる。しかも、殆どの感覚が共有出来るので様々な楽しさも味わえる。意外と俺と[俺]との共存生活は悪くないのかもしれない。



『おはようございまーす』

 満満軒に着くと、いつもの様に裏口から入り挨拶をする。裏口の近くには、ラードの入った缶を整理している店長の田村さんが居た。

「おう!おはよう。随分と機嫌が良いね〜、何か良い事でもあったのかい?」

 俺が見ているアニメを店長にも紹介したところ、ドハマリしたみたいだった。ちょくちょくそのアニメに出てくる登場人物の真似をしてくる。だが、メタボ体型の店長にそれを言われても、どうしたってそのアニメ作品の侮辱に感じられる。

『店長、いい歳なんですからそれ止めて下さいよー』

「何ィ?!敷島君、恋の成就の恩人に対してその言い草は無いだろう」

 最近は大体毎日こんなやり取りをしている気がする。[俺]も俺と同じみたいだ。

「うん?どうした?元気が無くなったみたいだが……もしかしてもう別れちゃった?」

『──いえいえ、そういう訳じゃなくてッ。すぐ準備します!』

「あ、あぁ……」

 今、店長が言っていた言葉。[俺]は何で元気を無くしたんだろう。──そうか、斗希奈ちゃんの事だ。多分[俺]はこの世界の斗希奈ちゃんじゃなくて、向こうの世界の斗希奈ちゃんの事を考えていたんだろう。さっき[俺]との共存生活も悪くないかもと思ったのは、あんまり良くないことだったかもしれない。[俺]にとったら、ここは自分の世界であって違うのだから。



「おはようございます!」

 厨房に入ると、パートの斉藤さんがチャーハンと天津飯用の生卵を大量に割ってボールに溜めているところだった。カウンター席の向こう側に、フロア係の机を拭いている斗希奈ちゃんも目に入った。

「敷島君、おはよう」

「あっ──おはよう、英玖汰君」

 小柄で目がクリっとしていて肌が白くて本当に可愛い。この子が自分の彼女だなんて今でも信じられない。斗希奈ちゃんを見るだけで、胸がギュッとなる感覚があった。斉藤さんの声は聞こえたが聞きたくなかった。斗希奈ちゃんの声の余韻が、俺の意識の中に心地良く響く。

「昨日はあの後大丈夫だった?」

『うん。悪かったね……心配してくれてありがとう』

「ううん。何も無ければ良かったよー」

『──また、どっか行こうね』

 斗希奈ちゃんは「うんっ」と言うと、小走りでまだ拭いていない奥のテーブルに駆けていった。

「敷島君、店長が敷島君には、ネギを刻んで欲しいって言ってたから宜しく頼むよ」

 斎藤さんから声を掛けられた。さっきから水を差すなよと言いたいが、仕事中なので仕方が無い。

『え……あ、はい──』

 [俺]の反応が悪いと感じる。まださっきの店長の言葉を気にしているのか。俺ならもっとハキハキとした返事をするはずだ。しっかりしろ、と言いたいが──[俺]のことを思えば言えない。

 斎藤さんに言われたように、業務用の大きい冷蔵庫からネギの束を取り出す。中央付近に巻かれたテープを剥がしてから中華包丁を手に取る。まな板にネギを置いて輪切りに細かく刻んでいく。〈タタタタタタッ〉と刻む手つきは、やはり俺と同じものだった。すると、横から視線を感じた。

「敷島君」

 卵を割る手を止めて、斉藤さんが話し掛けてきた。視線は斎藤さんのものだったみたいだ。

『は、はい!な、何でしょう?』

 今の返事もそうだが、何で[俺]はずっと言葉がぎこちないのか。斗希奈ちゃんを意識しているからなのか。

「ちょっと裏に来てもらっていいかな?店長に頼まれた仕事があるんだったよ」

『わ、分かりました──』

 中華包丁をまな板の上に置くと、斉藤さんについて行く。裏口までの通路にさっきまで居た店長の姿は無かった。この時間だと近くの酒屋に行って仕入れの確認をしているのかもしれない。


 その時、左耳に手が触れた。これもサインだ。主導権を持っている時でも、中の自分に話し掛けたい時は左耳を触れる事にしている。背中を向けてはいるが斉藤さんは目の前にいる。小声で話すように努めた。

「(どうした?)」

『(おい、このおじさん────誰だ?)』

 俺の中で何かが止まった。俺は感覚的には目を閉じて横になっている。身体は動かしていない。事実、俺の脚は[俺]によって今も歩いている。なのに、何かが止まった。意識の中で身体を止める様な感覚があったのだ。

「(誰って……斉藤さんだよ)」

『(だからぁ、その斉藤さんを俺は知らねぇんだよ!)』

 どういうことなんだ。この世界と向こうの世界では微妙に人間関係が違うのだろうか。よく分からないが、そういう事もあるということか。

 斉藤さんが脚を止める。背を向けたまま話し掛けてくる。

「敷島君────まさか、敷島君がねぇ……」

『な、何ですか?』

 斉藤さんが左側から急に振り返った──はずだったが、動きがスローモーションに見える。凄く遅く見える。斉藤さんの手元を[俺]が見る。その右手には中華包丁が握られていた。この軌道だと俺の首に当たる。避けなくてはいけない。いや、そもそも何故斉藤さんは俺に包丁を──俺を殺そうとするのだ。

 中華包丁の刃が俺の喉物に近づく。避けなくては。この包丁をかわすには──。

 [俺]は後ろにバックステップをした。包丁をかわすと、動きがスローモーションで無くなった。斉藤さんが振った中華包丁が俺の右側にあるラードの缶と調味料の並べてある棚に激突した。ガシャーンッと音を立てて、棚の物がアスファルトの床に落ちる。

『何するんですかッ!?』

 中華包丁が木材の棚に刺さりバランスを崩した斉藤さんは、中腰の姿勢のまま俺を見上げて笑った。その歪んだ顔は、俺の知っている斉藤さんの顔では無かった。人間の顔がここまで歪に見えたのは初めてだ。目は充血し、口の端からは涎が垂れている。

「お前らはジャマなんだよ。だから──死ねェッ!!」

 棚に刺さった包丁を力一杯引っこ抜く。斉藤さんはそのまま、水平に近い軌道で再度俺の首を狙ってくる。

 まただ。また動きがスローモーションに見える。この速度だったら中華包丁の刃先を指で掴めそうだ。でも、そんな危険なことは出来ないだろう。再び[俺]はバックステップをする。またもやスローモーションが終わる。豪快に空振りした動きで斎藤さんがふらついた。

『おいッ!!どういう事だッ!!』

 それが俺に向けて言った言葉だということが分かった。しかしそれに答えている隙は無い。

「斎藤さんッ!!どうしたんですかッ?!」

 その問い掛けに反応を示さず、今度は中華包丁を投げつけてきた。途端、スローモーションの時間になる。ゆっくりと、本当にゆっくりと包丁が回転しながら俺の顔めがけて飛んでくる。これだけ遅ければ、かわすのは簡単のはずだ。というか、俺は何故さっきからこんなに全ての動きを遅く感じるのか。

 空手の大会で似たような感覚を体験した事はあったが、後にも先にも1回だけだ。それに、こんなに欠伸が出る程遅く、長い体感時間じゃなかった。

 さっきの俺の動きからすると、[俺]にも同じくスローモーションに見えているはずだ。斎藤さんが俺を殺そうとする理由は分からないけど、もしかしたら精神病とか違法薬物とかでおかしくなったのかもしれない。とにかく、行動不能にするか気絶させるのが得策だ。水落に一撃を入れるしか無さそうだが[俺]はどうするつもりだろうか。

 [俺]は包丁に回り込む様にしてかわし、斎藤さんとの距離を詰める。動きで分かった。[俺]は俺の考えと同じく、水落に入れるつもりだ。その時、背後で気配がした。すると、スローモーションが終わる。

「どうしたの?英玖汰く────」

 振り返ると────。

 また、スローモーションに見えた。回転する中華包丁が、厨房から出てきていた斗希奈ちゃんに向かって飛んでいく。助けなくては。だが、斉藤さんとの距離を詰めたことによって、厨房からはかなり離れてしまった。もう中華包丁の刃先は斗希奈ちゃんの額の目と鼻の先だ。止めてくれ。このスローモーションを見せないで欲しい。ゆっくりと、斗希奈ちゃんの額に中華包丁が入刀される。斗希奈ちゃんのクリっとした瞳の中の黒目が、左右に向いていく。綺麗な鼻筋が、玉ねぎを半分に切る時の様に分かれる。鼻下も上唇も裂ける様子をじっくりと観察させられた。

 〈グワシャッ!!ピシャピシャッ!!〉

 俺の自慢の彼女。白い肌、クリっとした目、可愛いその小柄な女性と顔が────真っ赤に染まった。スローモーションが終わる。血がアスファルトの床に飛び散る。赤い雨を降らせながら、斗希奈ちゃんがダンスをしていた。俺の顔に、生温かい感触が伝わった。それに気付いた時には、ダンスは終わり、床に倒れていた。

『「と────斗希奈ァ────!!」』

 まだ付き合って1回しかデートをしていない。まだ手だって繋いだこともない。抱き締めたこともない。キスだって、その先だって。素人の俺にだって分かる。斗希奈ちゃんは、確実に死んでしまったのだ。

 また、背後から気配がする。斎藤さん──いや、斎藤だ。

 斗希奈ちゃんの笑った顔が浮かぶ。斗希奈ちゃんの心配する顔が浮かぶ。斗希奈ちゃんの今の顔が────。

 俺と[俺]の中の何かがプツンと切れた。振り返ると、スローモーションの動きになった斎藤が、レスリングのタックルみたいな姿勢で飛び込んできているのが見える。スローモーションに見える理由は分からない。分からないが、許すものか。許してなるものか。

 [俺]がザッと構える。その構えから何をしようとしているかが、俺には分かる。その姿勢から何千、何万も繰り返した一撃を撃つ。斎藤の顔面目がけて、[俺]だけではなく、俺も、渾身の正拳突きを────!!

『「うぉぉぉぉぉぉぉ────ッ!!」』

 〈パァ────ンッ!!〉

 ────スローモーションが終わる。目の前には真っ赤な霧が浮遊している。斎藤がドサッと倒れ伏す。倒れたそれには、本来あるべきの頭が付いていなかった。

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