第2話 異常

 朝起きて愕然とした。いや、正確には朝の日課である腕時計──スマートウォッチの数値をスマホアプリで確認して愕然としたのだ。

「何……これ……?」

 表示されている脈拍の数値がおかしい。普段は分間60〜80台である脈拍数が、途中から35回が最大になっているのだ。

『どうした?』

 力を入れていないはずの口が動く。[俺]が話しかけてきたのだ。

「俺の視覚が入ってるんだろ?見ろよ!俺の脈拍数!」

『…………おわッ!こ、これ──なんかヤバイんじゃないか?病気か?』

 言われて不安になる。でも、気分は悪く無いし、熱っぽい感じもしない。自分では体調が悪いとは思えない。むしろ、身体がやたらと軽く感じるくらいだ。ただ、この脈拍数が急激に減った時刻には心当たりがある。

「これ……お前が俺に入ってきた時間じゃないか?」

『──本当だ。夕方だな……ひょっとして俺のせいなのか?』

「分からない……とりあえず今日のシフトは夕方だけだから、1回病院に行こう……」

『そうした方がいい。俺もお前の動きの邪魔をしない練習しないといけないし、何よりお前に死なれちゃ困る』

 それは確かにそうだろう。[俺]は俺だからな、と思う。

 近くにクリニックがあったはずだ。行ったことはないから多少の抵抗感はあるけど、すぐにでも身体に異常が無いか診て貰いたい。

 支度を済ませるとアパートを出た。[俺]とは会話はしたが、今のところ身体の動きに違和感は無い。ちゃんと主導権を守ってくれているなと[俺]に感謝した。



 クリニックに入ると、病院独特の匂いを感じた。考えてみると、一人暮らしを始めてから約2年、病院に掛かる程の体調不良にはなった事は無かった。だから余計に、脈拍が激減している事に恐怖心を感じているのかもしれない。

「今日はどうされましたか?」

 受付に行くと20代半ばの女性から聞かれた。

「あ、はい。どうしてか脈拍が極端に低くなったので怖くなって……1度診てもらおうかと思いまして……」

「そうなんですね。それでは、あちらの血圧計で測定してから、こちらの問診票に記入をお願いします」

 バインダーに挟まれた問診票とボールペンを渡される。明らかにマニュアル的な促しを受けて、少しムカついた。こっちは怖いって言ってるんだ。もう少し心配してくれよと思った。

 血圧計が置かれた机の椅子に座る。右腕をトンネルに突っ込み、左手で測定ボタンを押す。トンネルの中で腕が締め付けられる。次第にどんどん締め付けが弱くなっていく。〈トクン…………トクン…………〉という脈打つ感覚が腕から伝わる。その感覚からすらも、脈が少ない事が分かる。〈ジ────〉と測定結果の紙が吐き出される。紙には115/61mmHG、脈拍数29回/分とプリントされていた。

 問診票を記入してから、さっきの受付の女性に手渡す。用紙に目を落としてから俺を見ると「それでは少々おま──」と、言葉を止めてまた用紙に目を落とす。

「──えッ!」

 驚いた様子で何処かに行ってしまった。放置された俺は「ちょっ……」と声を掛けようとしたが、時すでに遅し。もぬけの殻となった受付前で立ち尽くすこととなった。

「な、なんなんだよ……」

 文句を呟いてから数秒後、血相を変えた受付の女性が戻って来た。

「す、すぐに先生が診るそうなので、診察室にどうぞ!」

「え?いいんですか?」

 背後にある待合席に座る他の患者から、極寒級の冷たい視線を感じる。横入りはしたくない。別にそこまでして早く診て欲しい訳じゃ無い。

「い、いえ、ちゃんと待ちますよ。なので──」

「何言ってるんですか!死んじゃいますよ!」



 受付の女性のその一言で、冷たい視線は無くなった。だからと言ってラッキーとも思っていない。言われるがまま診察室に押し込まれると、医者は慌ててベッドに横になるよう促された。

「大丈夫かね?!気持ち悪かったり、目まいがしたりはしないかい?!」

 いつの間にか胸元まで服をまくり上げられて聴診器を当てられる。医者の後ろでは、看護師がキャスターのついたよく分からない機械みたいなものを慌てて準備している。小さい吸盤を胸周りに沢山付けられ、手首と足首には大きい洗濯バサミみたいなもので挟まれた。

「えーと……何を、するんですか?」

「心電図だよ!不整脈かもしれない!」

 心電図と聞いて思い出した。確か高校の時にも似たような検査をした記憶がある。あれは心電図だったか。

 測定中は動くなとのことだったので、寝た姿勢のまま時間が過ぎるのを待った。計測が終わって何も問題が無かったのか、医者も看護師も先程までの慌て振りをしていなかった。


「スポーツ心臓……しか考えられんな……」

 医者は難しそうな顔をしてパソコンの画面を睨んでいる。スポーツ心臓は聞いたことがある。けれども、俺は高校までは空手をやっていたが、それ以降は大学も何の部もサークルも所属していない学生アルバイターだ。

「でも……急にスポーツ心臓になるもんですか?普通、徐々にスポーツ心臓になるもんなんじゃないですか?」

 返す言葉が無いのか、医者は押し黙る。「うーん」という考えているのかいないのか分からない声を出すと明らかに作り笑いと分かる顔で俺を見てきた。

「ま、まぁ、血圧にも心電図の波形にも異常は無いし、自覚症状も無いなら大丈夫だよ。もし、気になるなら大きい病院で精密検査を受けられるように紹介状を書くけど──どうするかね?」

 その口振りだとやってもやらなくても一緒、という様に聞こえる。それなら、無駄なお金は使いたくは無い。

「いえ……異常が無いなら結構です」

 それを聞いて、医者はうんうんと頷いた。



 会計を済ませると、無意識に左耳を触っていた。[俺]からのサインだ。

『とりあえず良かったな』

 クリニックを出て、周りに人が居ないことを確認すると、俺も口を開いた。

「まぁな。でも……何か釈然としないな」

『それは俺もだけど……異常は無いんだから大丈夫ってことだろ?』

 確かに、医者から「大丈夫」とお墨付きも貰った訳だから、本当に気にしなくてもいいのかもしれない。

『それよりも腹減ったぜ。朝飯食って無いだろ?』

「言われてみればそうだな。というか、お前にも腹が減ったって感覚は共有するんだな」

『あー、確かに』

 2人で1人なのだから当たり前なのか。いや、そもそも2人で1人というのは当たり前では無い。駄目だ。頭がこんがらがる。こういう事を考えるのはよそう。

「んじゃ、コンビニで何か買って家で食うかー」

 左耳から手が離れる。しかし、それをもう一度戻す。

『ん?どうした?』

「今度はお前に主導権をやるよ。俺も練習しないとな」

 目を閉じてベッドに横たわる感覚作る。一旦、視界が闇になるがすぐに周りの景色が見える。[俺]に主導権が渡った。

『よし。じゃ、お互い練習といこうか』

 俺は、[俺]に買い物を任せる。食べたい物も[俺]の好きにさせることにした。

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