32.彼女

 この小さな世界は、全て彼女の意のままに変化する。彼を送り出す時はいつも虚無感に苛まれて真っ黒な、まるで何もかも飲み込むような世界へと変化する。それは、意のままに変化する世界が、彼女心の奥底にある感情を如実に表し、本来であれば自身で制御できるはずの世界が、制御できなくなってしまう事で起こる現象だ。


「……」


 ローブを揺らして、彼女は世界を変えた。

 途端に緑豊かな自然が空間に広がっていく。曖昧に天に光る陽。微かに吹く風。中央に現れたのは天蓋カーテンのついた二人分の枕が置かれた、青い装飾が随所に散りばめられた白色のベッド。天蓋カーテンを支えているものは何も無く、そこにあるのが当然のようにベッドの上に浮いていた。天蓋に繋がっている半透明のカーテンは、二重、三重と幾重にも重なっていた。それなのに重さを感じさせないほどに、柔らかく風に揺れている。

 少しの間、ぼんやりとベッドを眺めた後。彼女は右手を振ってローブと衣服を消した。その身に纏われているのは、薄手の白色のネグリジェ。彼女はベッドの上に乗り上がった。

 四つん這いで枕に頭が乗る位置まで進み、倒れ込むように横向きに寝転んだ彼女。豊かな胸が腕とベッドに挟まれて形を変えた。艶やかな四肢がベッドの上に投げ出され、胸と同様に豊かな臀部がベッドに沈む。虹色が燐光のように纏われた、半透明にも見える銀の長髪がベッドに広がり、うなじが露わになった。神秘的であり、扇情的でもある体を彼女は恥じらいも無く晒した。当然か、ここには彼女以外誰もいないのだから。宝石に見えるような黒曜石の色の瞳、もしくはあらゆる光を奪うような漆黒の瞳が、天蓋のカーテンを通った事で曖昧になった陽光とその先を見つめていた。

 たった一人の神秘的な空間。本来であれば彼女以外立ち入ることの出来ない聖域。

 立ち入る事を許されているのは、彼だけ。

 いや、彼しか立ち入る事が出来ない、が正しいだろう。彼女に付き従う者は現状では彼しかいない。

 故に、特別。

 故に、彼女は彼を頼る。


「……また、敬語だったね」


 私が彼をから今まで、彼は敬語を外そうとした事はなかった。

 嫌われているわけではない。何故なら、彼の態度から感じられるのは嫌悪の類ではなく、罪悪感だから。罪悪感を感じるべきなのは、私の方だ。それなのに、彼はいつも一歩引いた立ち位置で私に接する。


「どうすれば、貴方は……」


 何処へとも無く、何かを探るように腕を伸ばして彼女は呟く。

 彼はこの空間に長居しようとしない。世界を渡り、調停者として均衡を保ち、役割が終わって帰ってきたと思えばすぐに次の世界へと渡り、均衡を保つ。ただひたすらにそれだけを繰り返し、彼女との会話も必要最低限に収める。

 均衡の乱れを感知できるのは彼女の力だが、彼にも同じ力を渡している。この空間に彼が戻ってくるのは彼女がそう望んだからだ。もし、そうでなければ彼は世界から世界へ渡り続け、この空間に戻ってくることはないだろう。


「……話そう」


 今まで、お互いに避けていた。決定的に踏み込むつもりがなかった。だが、彼女は決意した。

 この関係を、変えようと。

 そう決心した直後の事だった。


「……あら?」


 体を起こした彼女の視線の先。空間に歪みが生まれ、ふよふよと光球がその隙間から飛び出すようにして、天蓋カーテンの外に現れた。

 最初は戸惑った様子で揺れていたが、天蓋カーテンの中で寝転ぶ彼女の方へ、静かに近づいて行った。


「そう……無事に……違う、ね」


 彼女は寝転がったまま近づいてくる精霊に手を伸ばし、呟いた。


「今から、終わらせるのね」


 彼女の手を通して精霊に霊的なエネルギーが渡される。光球からの輝きが弱まっていき、人型へと変わっていく。魔力が可視化された、細かい粒子が集まって異様に髪の長い女性の姿へと変化した。

 腰どころか、足の先まで届きそうなほどに長い髪。ただし、身長は10センチ程度。人形サイズ、表情もまるで人形のように無表情。これが、精霊としての元の姿。

 無表情ながら、彼女の周りを回る精霊。行動は、縛られた役割から解放された自由、それに対する喜びそのものを示していた。


「…………あなたも見る?面白くないかも、だけど」


 彼女は、そう言った。決して気分の良いものではないと。しかし、それでも精霊は意思を示すように彼女の側を飛び回った。


「そう。……それなら、一緒に見届けましょう」


 体を起こした彼女。体を起こした事で顔にかかった髪を片手で直しながら、彼女は腕を虚空へと向けた。見る者がいれば、【天魔】の映像化する魔術と似ていると言うかもしれない。だが、彼女が扱う力は別物だ。

 彼の視点、そして第三者のように映される彼と対峙する人物を映し出す視点。

 二つの映像が現れた。


「……最後まで、見ているからね」


 聞こえるはずの無い、映像の向こう側の彼へと彼女は語りかけた。



 【剣聖】と対峙する彼へと。

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