17.【壊されたモノ】

 都市のある場所にある教会の前で、その男性は歩いていた。


「こんにちは、神父様!!」

「こんにちは。元気で大変よろしい」

「あら、神父様、こんにちは」

「こんにちは、ご婦人」


 元気な子供の声に、女性の声に、その男は返事をした。

 修道服に身を包み、髪を後ろに撫でつけたまさに神父といった容姿の男性。

 都市の中で教会と呼ばれる場所、もしくはその周辺にいつもいる人物。慕われている事は、今の様子を見ていれば誰にでも理解できるだろう。

 走り回る子供達。神父と話す婦人達。皆が快い表情で迎えている。

 笑顔で離す神父は、ふと呟いた。


「……そろそろ、時間ですね」

「え?あ、お祈りの時間ですか?」

「ええ。習慣ですから」


 神父は婦人達に頭を下げた後、子供達に断りを入れてから協会の建物の中に入っていった。


「……この祈りが、貴方に届いていると良いのですが」


 神父は歩を進める。扉を開けた先。真っ直ぐ中央にある、神父が信仰している女神を模した像。二列並べられた十程度の長椅子。ガラス窓から差し込む光が、まるで後光のように女神像を飾る。

 一通り部屋の中を見まわした神父は、首を傾げて呟いた。


「……おや?」


 いつもであれば誰もいない礼拝堂の中。最前列の長椅子に、一人の人物が座っている。左側には武器が立てかけてある。首元の白いマフラーが特徴的な男。その男は静かに女神像を見つめていた。

 神父はその男の隣に腰を下ろし、声をかけた。


「こんにちは。……熱心に女神様を見られていますね。何か、お悩みでも?」

「……いや、悩みがあるわけではない」


 彼は女神像を見つめたまま、言葉を続けた。


「綺麗だと、思ってな。信仰のための像なんざ、ただの物だと思っていたが……存外、そうでもないようだ」

「……女神様が、お嫌いで?」

「嫌いじゃあないさ。だが好きでもない」


 彼は、そこでようやく神父の顔を見た。

 垂れた目元、しかし全体的に強い意志を感じさせるような雰囲気の表情。若干白髪の混ざった髪は、彼の謙虚さを示すようにすら見えた。


「逆にアンタはどうなんだ?神父だから女神様が好き、なんて事はないだろう?」

「なかなか手厳しい言葉ですね。……ええ、私も決して女神様が好き、というわけでもありません」

「……予想外だな。まさか、そう返されるとは」


 神父は微笑み、神父らしくないかもしれませんね、とそう呟いた。


「私は、元々孤児だったんです」

「……そうなのか」

「ええ。当時は、よく神様を恨んだものです。今信仰している女神様に限らず、ですが。何故両親を助けてくれなかったのか、何故こんなに苦しんでいるのに神様は助けてくれないのか、何故神様は何も言ってくれないのか。何故、何故、何故、何故、何故、と」


 彼は、静かに神父の言葉を聞いていた。


「ある日、盗みを働きました」


 懺悔するように、神父は言った。


「それが私の運命を変えました。素人の手による盗難。すぐに捕まり、叩きのめされ。しかし、助けてくれた人がいたのです。私の前に立ち塞がり、私にやり直すチャンスを与えてあげてほしい、と」

「チャンスを、か。誰だったんだ?」

「その方は寂れた教会のシスターでした。歳の差は……五年、ぐらいですね。信仰心のとても厚い、優しいお方です。私は彼女に引き取られ、教会で見習いとして暮らすことになったのです」


 女神像を眩しそうに見ながら、神父は言葉を続けた。シスターとの思い出、まともな生活を送ることが難しい中での楽しかった思い出、苦労した思い出。

 楽しそうに彼へと語りかける神父は、まるで少年のような笑顔を浮かべていた。


「ーーそうして、私は神父として認められました」


 話終わった神父を横目に、彼は問いかけた。


「……そのシスターは、どうしたんだ?」

「それは……ある日、失踪してしまったんです。理由は分かりませんが……」


 悲しそうに神父は答えた。

 だが、彼は続けて質問した。


「そうか。それはそうと、女神様を信仰するにあたって、禁じられた行為はあるのか?」

「……?ああ、戒律の事ですか?ありますよ。経典も今持っていますから、見せて差し上げます」


 そう言って神父は手元の本を開いた。分厚い、使い古された経典。開かれたページには何行もの字が綴られていた。


「簡単に纏めると、そうですね……まずは、無益な殺生。詐欺詐称、嘘をつくこと。盗難。人種、住んでいた場所などによる不条理な排斥。日課である黙祷の、理由の無い中止。こういったものですね」

「犯罪の類と差別の禁止。怠惰は許さず、そんな感じか」

「大方は。実際には、もっと詳しいですが。……急な質問でしたね?どうしてですか?」


 彼は、再び女神像を見つめた。静かに佇む、その堅い表情が変わる事は決してない。



 目の前に罪人が居ようとも。



 彼は神父と目を合わせた。

 優しげな笑みを浮かべ続けている目の前の相手に。神父に対して。彼は、静かに告げた。


「アンタは、戒律を破った」


 ゾクリと、神父の背筋が泡立った。思わず立ち上がり、彼を警戒する。誰にも知られていない秘密。まさか、そんなわけがないと平静を保とうと。

 しかし、続く彼の言葉で神父の心の防壁は決壊した。


「復讐をした人間を、私欲に走った人間を、身勝手に人を殺した人間を、女神様は許すのか?」

「……何、で」

「何で?その問いに答えたとして、だ。俺が知っていたら、何か問題でもあるのか?」


 顔を俯かせ、震える神父へ、尚も彼は言葉を続けた。


「復讐が、お前の行った殺しが有益か無益かは、俺には判断がつかない。が、少なくともお前自身は復讐は悪だと、あの殺しは正しかったのか、無益な殺生にあたると感じていたはずだ」

「……」

「どうなんだ?答えろ」


 彼の言葉に。

 神父は、ゆっくりと顔を上げた。


「……意外な顔だな」


 彼は、思わず呟いた。

 笑っていた。

 悪人が開き直ったかのような笑みではない。諦観のような、待ちわびてかのような、そんな笑み。

 神父は、むしろ安心したかのように彼の隣に再び座った。


「そうですか……あの方から、聞いたのですね?」


 床に視線を落として問いを投げかける神父。


「お前の言うあの方が、彼女を示しているならその通りだ。直接聞いた」

「直接……やはり、この世界にいたのですね。私の、および知らぬ所に」


 彼の目に映る神父は、嬉しそうに笑っていた。『神父』としての作り笑いではない。人と上手く付き合うための愛想笑いではない。本当に、心の底から嬉しそうに笑っていた。


「彼女は、もう殺した」


 笑みが、凍った。


「ついさっき、俺が二度目の死を与えた」

「……そう、ですか」

「痛みも苦しみも、無かったはずだ。確実に息の根は止めたが、苦しめたいわけじゃない」


 神父は、俯いた。かつての彼女との生活を、笑顔を想起し。だが、すぐに顔を上げた。今度は悲しそうな笑みを浮かべて彼に問うた。


「彼女が、そう望んだのでしょう?自らの死を。……分かっています、彼女は生を求めていなかったことぐらい」

「……」

「意外と、人間臭い方ですね、貴方は。私は、貴方が来ることを分かっていました。彼女から教わった、この眼で」


 神父は右眼を抑えた。少しして開かれた瞼の内側。そこには銀色に光る瞳があった。視線の先を見ているはずなのに、まるで違う何かが見えているような。

 消えていく銀の残光。

 惜しむように、神父はそれを見送った。


「未来を、見る力。限定的な【予知魔法】の一種です。……悔しいものですよ、未来を知っていてもどうしようもない、というのは」

「……お前は、彼女が集団強姦によって心を喪う事を知っていたのか」


 ええ、と神父は答えた。


「知った時には、彼女は既に行方不明になっていました。識っているのに、私には手段が無かった。助けを求めても、彼女は何処にでもいる一人の敬虔なシスターでしかなかった」

「……どうやって見つけたんだ?」

「右眼の光を失う事を、対価に。限界点を底上げして彼女を探しました。……でも、もう遅かった。ようやく見つけた時、彼女は既に心を喪っていました。複数人の男に襲われ、容赦なく彼女の尊厳を奪ったどころか、まるでゴミを捨てるかのように使い捨てにした」


 穏やかな顔を、怒りに歪めて神父は言葉を続ける。


「彼女の体は、ボロボロでした。暴行の痕が体中のそこかしこに散らばって、内臓だっていくつか傷付いていた。あまりの損傷によって治癒など不可能な部位まであった。……私は、持ち得る全ての貯蓄を使って彼女を治そうとしました。ですが……」


 そう言って、神父は口を閉ざした。その表情は暗いまま、じっと床を見つめている。

 途切れた言葉の先を、彼は繋いだ。


「彼女は、死を望んだ」


 神父はその言葉に、ゆっくりと頷いた。


「ええ。私に、殺してくれと。最後のお願いだから、と。……卑怯ですよね。私は、彼女を尊敬していた。彼女を大切に思っていた。彼女を……殺したく、なかった」


 両手の皮膚から血が出るほど、神父は強く手を握っていた。怒りと悔しさと、自分に対する侮蔑。

 地面に落ちていく血の量が、その感情の強さを物語っていた。


「ですが、私は彼女を殺した。……最後の言葉は、今でも覚えています」


 ーー私を殺してくれる人が、貴方で本当に良かった。愛してました。


「私が彼女の心臓を突き刺した後に、そう言ったんです。酷い人ですよね。それから、私は彼女の為に……いえ、違いますね。私の怒りと憎しみで、殺意で、私怨によって、彼女に暴行を加えた男達を一人ずつ殺しました。不思議なことに、とても簡単でした。一人、一人、一人、また一人。全員を殺すために、丁寧に、露見しないように。最後の一人を殺した後も、誰一人として私を疑う人はいなかった」


 自嘲するように神父は笑った。


「私は、絶望し、自殺しました。誰も私の犯した過ちに気付かない。誰も私を裁いてくれない。私の抱える罪悪を、罪悪感を、誰も許してはくれない。女神様だって、そうだった」


 だから、と神父は彼を見た。

 善悪の感情を持っているかも分からない、表情。自分を睨むでもなく、責めるでもなく、同情するでもなく、憐れむこともないその眼。

 もしかしたら。

 待ちわびた時がついに訪れたのか。

 神父は悲しそうに微笑んだ。


「貴方が私の罪を暴いた時……私は、安心しました。いえ、違うかもしれません。ああ、ついにこの時が……私の、終わりが来た。私の罪の、清算の時が来た。彼女が苦しんでいた時に、のうのうと生きていた私を、殺してくれる方が」


 誰も知らない。誰も理解しない。

 『神父』という仮面の下にある、見栄っ張りで、醜悪な、ただの一人の人間でしかないその姿を。

 人々の懺悔を聞き、人々に赦しを与える立場。

 私のような罪悪に塗れた人間に、これ以上求めないでくれ。

 その悲鳴は、ずっと神父の心の奥にあった。



 理不尽な二度目の人生を、与えられてから、ずっと。



「お願いがあります」

「ああ、分かった」


 彼は立ち上がった。左手で持っていた鞘から右手で静かに抜刀し、女神像の前に立った。


「……言葉にせずとも、通じる。不思議な感覚ですね。それに、信仰している女神様の前で殺そうとする。何とも、冒涜的な」

「だが、お前の望んだ事だ」

「……その通りです。私は、それを望んでいる」


 神父は、彼と向き合うように立った。

 入り口のドアから見れば、二人の男の間に女神様がいるように見える立ち位置。


「ただ、このままお前を殺すわけにはいかない」

「……どうしてですか?」

「最後に、彼女からの遺言を伝えておかなければならないからだ」

「……」


 神父は思わず顔を伏せた。

 彼女からの遺言。

 身勝手な自分の行動を、彼女の死後の行動を、彼女は識っていたはずだ。心臓を突き刺した時、彼女の右眼は銀に輝いていたのだから。

 説教か、侮蔑か、落胆か、それとも。

 心の中で際限なく湧き出る罪悪に基づいた自罰的な考えと予想。

 しかし、彼の口から伝えられた言葉はそのどれでも無かった。



「『貴方は、許されていい。貴方の行動は、私の罪。私のために、貴方が苦しまなくていい』」



 ハッと顔を上げた神父の前で。彼は告げた。



「『最早信仰を失った私は、女神様の元へ行く事は出来ないでしょう。……ですが、それでいいのです。女神様の元へ行けなくとも。私は、あなたに出会うことが出来た。この世界で二度目の人生が与えられた、という奇跡があったのです。いつか、来世で、貴方と私が結ばれることだってあり得るはずです』」



 彼は、そこで言葉を区切った。

 最後の、一言。



「『愛してます。ずっと、永遠に。来世で、また会いましょう』」



 あり得ない話。希望的観測を、多分に含んだ、彼女の遺言。

 それでも、神父は朗らかに笑った。その目から涙を流し、一生懸命に拭いながら、笑った。


「……以上だ。何か、聞いておきたい、言い残したい事はあるか?」


 刃を神父に向け、彼は問うた。


「……貴方は、来世で私が彼女ともう一度出会えると、その可能性はあるか、分かりますか?」

「決して無い、とまではいかない。だが、ほとんどゼロに近い確率だ。文字通りの奇跡が起きなければ出会うことすらあり得ないだろう」

「……奇跡、ですか。ならば、その確率で十分です」


 少年のような純粋な、真っ直ぐな瞳で神父は彼に言った。


「何百、何千、何万と。繰り返したのならば。私は、きっと彼女に再び会える。記憶がなくとも、確証がなくとも。私は、そう信じています」

「……そうか」


 彼は、瞼を閉じた神父の胸に長刀を突き立てた。

 静かに、丁寧に突き刺された刃。心臓を貫く感覚を、神父は明確に感じた。


「……安らかに眠れ」


 彼のその言葉とともに、刃が引き抜かれた。刃が引かれるのに合わせて、胸から血が溢れ出すが、神父は立っていた。


「……意、外と、痛く、ない、で、す、ね」


 静かに神父は歩いた。

 零れ落ちる命を支え、女神像の前で背を向けて座った神父は、それを見た。

 己の隣で笑っている彼女を。

 在りし日の、幸せな記憶を。

 二人で座って見上げた、綺麗な星空を。


「ありがとう…………私は……………」


 言葉は最後まで続く事は無い。幸福を、その顔に見せて神父は意識を手放した。


「……」


 彼は、静かにその場を立ち去った。

 静謐で厳かなその空間の中で。

 一人の神父が、その命を終えた。

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