16.【侵されたモノ】
都市の中でも少し入り組んだ路地を彼は進んだ。
少しの物音すら大きな音として、響きそうなほどの静かな路地の中。
彼は、そこに辿り着いた。
「……っと、ここか」
大通りの喧騒から離れたその場所に小さな喫茶店があった。雰囲気も静かで、あまり人もいない。中に入れば、穏やかな音楽と珈琲の匂いが彼を出迎えた。
「いらっしゃい」
マスターと思われる、しっかりとしたスーツを来ている男性に軽く会釈して彼は店内を進む。
そして、目的の二人の人物の側にそれとなく近寄った彼は、そのまま二人に声をかけた。
「隣良いか?」
喫茶店にいた、一組の男女。二人とも、丁寧な仕草と雰囲気を見るものに与える。言い換えると、少しばかり高貴さが感じられていた。二人の前にはそれぞれカップがある。入っているのは黒い色の液体。
偶然にも他の席は埋まっていた。彼の意図した事ではない。そもそも、席の数が少なかった。本当に、偶然の事態だった。
そんな事を知るわけもなく、夫婦は笑顔で彼の相席を受け入れた。
「大丈夫ですよ」
夫と見られる優しげなの男性の答えに、彼は腰を下ろした。
「……お二人はご夫婦、ですか?」
「ええ、まあ。前世からの付き合いです」
男性は、茶化したような言い方をした。前世、という言い方には二つの意味があるのだろう。
事実として、この世界で二度目の生を受けている事。もう一つは、ロマンチックな言い回しとして『前世からずっと愛しています』という、女性に対する格好つけのような意味。
現に、男性の隣、恥ずかしげに自身の長い青の髪を弄る女性は顔を赤くしていた。
「前世なんて、もう。普通に言えば良いじゃない」
「……少し、恥ずかしくなってきたな」
「うふふ」
顔を赤くして必死に目を逸らす男性。
そして、その様子を面白そうに眺める女性。
二人のその様子は、正に仲の良い恋人。
ふむ、と彼は言葉を切り出した。
「楽しそうで、何より」
「おや、これは失礼」
「あら……失礼しましたわ。ごめんなさいね」
「いくつか質問をしてもいいか?折角相席になったわけだし、軽く話でも如何かな」
「構いませんよ。ゆっくり、お話しましょう」
マスターに彼は声をかけ、珈琲を注文した。注文を聞き終わったマスターが下がってすぐ、彼は男性に問いかけた。
「お二人は、とても仲が良いようで」
「もちろんです。……こう、はっきり言うのは気恥ずかしいですね」
「出会いの切っ掛けを聞いても?」
彼の問いに、男性は了承の意思を示すように頷き、話し始めた。
「私が妻と出会ったのは切っ掛けは、お見合いで親から紹介された、その時ですね」
「……お見合い、と言うことはもしかして元貴族の方、とか?」
「正解です。今は、一組の夫婦としてここで暮らしていますが。元の世界では、領地を治める領主として腕を振るっておりました」
まあ、そんなに上手くは行かなかったのですが。
そう、男性は続けた。
「それなりに頑張っていたおかげか、随分と領民に慕われていました。治世とは難しいものですね。先を見通す力を鍛えて、知識も出来る限り詰め込んではいたのですが……なかなか、上手くは出来ませんでした」
「貴族でも苦労する事がある、ということか」
「似たようなことはよく言われましたよ。『貴族は苦労したこともないくせに』、と。苦労の種類が違えば、そう見えるのでしょうね」
男性はそう言いながら苦笑いを浮かべた。
貴族には貴族の、庶民には庶民の苦労がある。だがその実、現状を憂う者達の目には全く別物として、むしろ羨むほど素晴らしいように見えるのだろう。
「……苦労したんだな」
「ええ、まあ」
そう笑う男性の横で、女性は少しだけ不満げな様子を見せていた。
「こんな言い方をしてますけど、夫は凄いんですよ?」
「ちょ、ちょっと、待って……」
「ほう。具体的には?」
焦る男性を置いて、女性は力強く話し出した。
「まず、夫は基本的に努力家です。出来ない事は、元からほとんどありませんが、苦手な分野にはしっかり力を入れてます。それに、知識を出来る限り、なんて言い方でしたが、普通の人に必要な知識どころか専門的な知識まで学んでいました。領地経営に必要な知識は、完璧。それなのに、どこまでも勉強し続けていたんですよ?どこを目指しているのか、そう言いたくなるほどに。それから、夫が努力していたのは何も知識だけの話ではありません。騎士の習う剣術も覚えようとしてました。知識の勉強の小休止として時間を全て鍛錬につぎ込んでいましたし、私との時間なんて必要最低限しか取ってくれませんでした。まあ、今ではしっかり私に構ってくれているので、それは良いのですが。どうですか?夫の努力が凄い事だ、と分かっていただけましたか?」
「……まあ、本人の自己評価が低い事は分かった」
あまりにも早口な女性の言葉に彼は圧倒された。男性に至っては、俯いても隠せないほどに顔から湯気が出てしまっていた。
それからしばらく。彼の注文した珈琲が届き、男性の熱もおさまってきた頃合いで、再び彼は質問を再開した。
「さて、途中で話が逸れてしまったな。本題の、二人が知り合ったきっかけ……は、話したか。その続きを聞いても?」
「ええっと、それは……」
「是非とも私に語らせてください」
女性は強く、主張した。
その雰囲気に彼は困惑したように頷きつつ、しかしもう一人の反応に困ったような表情を浮かべた。
「別に俺はいいんだが……」
と、彼は男性を指差した。指を差された男性。その顔は、明らかに焦っていた。一筋の汗を流し、動揺を抑えきれていない表情のまま。男性は慌てた様子で女性に言った。
「頼む、後生だから言わないでくれ。あれは、僕にとっての黒歴史なんだ。話されたら、卒倒してしまう」
「お静かに」
健闘虚しく。男性は、顔を背けて耐える事にした。
「さっきも話たけど……夫は、恋人なんかよりも勉強、鍛錬、って言ってずっと私を放置してたの。あ、言ってなかったけれど、私と夫は会った時はパーティー会場だったわ。最後は結局、家同士の婚約になったけどね」
最初は反発してたけどね、と女性は話を続けた。
「私は嫌だったわ。鍛錬、勉強、鍛錬、勉強。貴族の間でも当時の夫はちょっとした有名人だった。ひたすら己を追い込み続ける変人。私もそう思っていたわ。初めての顔合わせの日に、鍛錬があったからって遅れて来た。その顔合わせだって顔を見たらさっさと鍛錬に戻って行った。何なのよ、この男は。って思った」
「……頼むから、もう勘弁してください」
真っ赤になった顔を抑えて小声で言った男性の言葉。それを、女性はまるっきり無視して再び話し出した。
「それからも何回も逢引の約束を無視されてね。私まで有名になってしまった。私もそれなりに優秀だったからやっかみとか嫉妬で、可哀想とか、哀れとか、恋人に捨てられたとか。それでも、婚約は絶対だったから、どうにも出来なかった」
女性は自分の珈琲を一口含んだ。乾いた喉を潤し、再び口を開く。
「ある日ね、夫が倒れたのよ」
「……唐突だな。原因は?」
「あれね、過労。一日とて休まなかったから。狂人よ」
「正気の沙汰とは思えないな」
「君たち容赦ないな……」
「まあ、とにかく。下手したら死ぬんじゃないか、って状態の夫を必死に看病してたら、いつの間にか今みたいな関係になってたの。少しずつ話すようになって、夫は私の事をきちんと見てくれるようになって、恋人らしくなっていった。よくある話よ」
なんて事のないように女性は話し終わったが、顔を真っ赤にして俯く男性を見る目は優しい。口では仕方ないような言い方をしながらも、本気で心配していると分かる態度。
だから、彼は呆れた。
「はあ……目の前で見せつけられると少しキツいものがあるな……」
彼のその言葉に、二人ははにかむように笑った。嬉しそうに、楽しそうに。
だから、であろうか。
夫婦は、更に気恥ずかしそうにするだけで気付くことは無かった。
「仲が良い夫婦ってのは、結構いる。が、ここまで熱愛だと少し心配になるな」
「ね、熱愛って……そんな……」
照れる女性に目を向けることも無く。彼は飲みかけの珈琲を見つめた。
ただただ黒い。この世界特有か、はたまた元の世界でもそうだったのか。普通の珈琲と比べれば遥かに苦味が強く、しかし水との比率に変化は無い。
牛乳や砂糖を一切入れていない、異常なほどの苦味だけの液体。彼はずっとそれを飲み続けていた。味覚がおかしくなるほどの苦味を、しかし彼は丁寧に味わった。
「そうだな。例えば、の話だが」
珈琲の入ったカップを、彼は静かに置いた。
「愛する相手が、浮気でもしていたら、どうする?」
「もちろん、許さないわ。それに、例え話だとしても私の夫がそんな事をするはずがない。断言してもいいわ」
彼の問いに隠れた意図に女性は気づかない。
「そうか。らしいが?」
女性の隣、顔を真っ青にして俯く男性へと彼は声をかけた。先ほどとは一転、血の気の引いた顔を浮かべる男性。
「……………え?」
その様子に、女性は彼の言葉の意味を理解してしまった。
「嘘………だよね……………?」
「…………」
沈黙する場。
彼は、更なる爆弾を投下した。
「業が深いよな。妻の妹を孕ませた夫。それを知らない妻。しかしながら、私達は心の底から愛し合っていると宣う」
再び珈琲を口に含んだ彼。
硬直する夫婦に、更に言葉を続けた。
「そして、その妻は妹を自殺に追い込んでいる。自殺の原因は、心理的ストレス」
「……は?」
「ああ、ついでに言っておくが。そこの男が妻の妹に肉体関係を迫ったのは自殺の二ヶ月前。自殺の直前には、病院に通っていたらしい。産婦人科だ」
「……」
産婦人科に通っていた女性。心理的ストレス。これらの情報だけでも何があったのか予測するのは容易い。【牢獄】で人形を抱えていた女性は、何故そのような行動をするに当たったのか。
まあどうでもいいか。そう呟いて彼は珈琲を飲み干し、席を立った。
「後はお二人で。これからも仲良く、な」
店を出て行く彼の背後で、何かが割れる音が響いていた。
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