走るカピバラ

入間しゅか

走るカピバラ

カピバラは意外と早く走る。なんと時速五十キロ。昨日、鍵原くんが飛んだ。自宅マンションのベランダから飛んだ。八階。奇跡的に一命を取り留めた。意識が戻り次第、警察から事情聴取を受ける流れになっている。動機はわからなかった。コンビニに行くのに降りるのがめんどくさかったんだと冗談なのか本気なのかわからない噂が流れていた。


鍵原くんは細くて少し離れたつぶらな瞳をしていた。どんな時もぼーっとしているように見える大きな丸顔はカピバラに似ていた。いつもゆったりとした口調で話し、声を荒らげたり大きな声を出す姿を見た事がなかった。小柄だけど意外とがっしりとした体格をしていて、広めの歩幅でのっしのっしと歩く姿はやっぱりカピバラに似ていた。

そんな鍵原くんは、のんびりとしている見た目とは裏腹に中学時代は野球部で強豪校のレギュラーだったらしい。なんでも中学で五十メートルを七秒前半で走るんだとか。鍵原くん曰く六秒代のやつもいたから遅い方だったと言っていたが、五十メートル十秒代の運動ダメダメな私からしたら早すぎる。すごいよ!鍵原くんって言ったら、照れ隠しなのかそっぽを向いて黙ってしまった。彼はとても照れ屋なのだ。なんで野球を辞めちゃったのかな。そこだけはいつもはぐらかされる。


私と鍵原くんの出会いはベタベタだけど、高一のクラスの席が隣だったから。出席番号で決められた席順。何を考えてるのかわからないぼーっとした男の子が隣かぁハズレだなぁとその時は思った。それ以上の興味もわかなかった。興味がわかないと会話も発生しない。一学期丸々一度も会話をしなかったのではないだろうか。

その頃の鍵原くんはいつも一人だったけれど、避けられているというよりは誰にも興味を持たれていなかったように思う。私だって隣の席の子という認識でしかなかった。

しかし、二学期に入ってから空気のような存在だった鍵原くんが一躍クラスの中心になる事件が起きた。それが球技大会だった。クラス対抗のトーナメント制で女子は体育館でバレーボール、男子はグラウンドでサッカーだった。前述の通り運動ダメダメな私は球技大会が大嫌いだった。だから、生理がひどくてとか何とか理由をつけて見学をしていた。スポーツ自体あまり関心のなかった私は自分のクラスが勝とうが負けようがどうでもよかった。見ていても退屈だったので、体育館の下窓から男子の様子を見るともなく眺めていた。

何やら沸いていた。うちのクラスがゴールを決めたらしい。誰が得点したのかはわからなかった。ちゃんと応援しなよと同じクラスの見学の子に指摘されてとっさに「一組頑張れ〜!」と声を出したが、思ったより大きな声で言ってしまい変に響いて、響いた声が所在なさげにさ迷っている感じがなんとも恥ずかしかった。

で、また下窓から男子の様子を確認。また沸いていた。またうちのクラスがゴール。今度も得点者がわからなかった。スゲーなハットトリック!と言ってる声が聞こえた。ハットトリックって聞いたことある。なんかサッカーのすごいやつだ。でも、クラスの誰が肝心のハットトリックさんなのかわからなかった。だから、今度こそ見逃すまいとしてかじりつくようにサッカーを見ていた。走る走っていた。小柄の丸っこい身体の男子。そう、隣の席の鍵原くんだ。相手のタックルを素早くかわしてゴールに向かって強烈なシュート。見事ゴール。思わず私は小声ですげ〜と言っていた。すごいねといつの間にかさっき注意してきた見学の子も男子の様子を見ていたのだった。


「鍵原ってカピバラみたいな見た目の割にスゲーな」と誰が言ったのかはわからないが男子の誰かが言ったらしくて、球技大会後には鍵原くんは男子からカピバラと呼ばれていた。その時になって初めてまじまじと鍵原くんを見た。確かにカピバラというあだ名がピッタリな気がした。みんなからすごいすごいと言われているのに鍵原くんは照れくさそうにはにかんだだけだった。何だかその様子が女子ウケしたらしくなんかよく見たらかわいいかもと女子たちも俄にザワついた。

私は、でも鍵原くんのすごいとこを一番最初に見た女子は私なんだからねと心の中で勝ち誇った。

その日の帰り、偶然玄関で鍵原くんと会った。下駄箱も名前順で隣。鍵原くんは数人の男子にカピバラ一緒に帰ろうぜとか何とか声をかけられていた。私は隣で靴を取った鍵原くんの様子を見ていた。出来れば話しかけてみたかった。でも、できなかった。彼は私のことを気にもかけずに、男子の群れに飲み込まれていった。そりゃそーだ。一度も話したことないんだものと一人残されて納得した。

今まで彼に興味なかったのに、私鍵原くんに興味持たれてないって思ったら少し悲しかった。

悲しいなぁなんて思いながら靴を履こうとしたら鍵原くんが一人でもどってきていた。彼は走ってきたのか、肩で息をしながら額の汗を拭って靴を下駄箱に入れると教室の方向へ歩いていった。忘れ物かもしれないなと思った。私はなんとなく彼が戻るのを待った。五分が過ぎ、十分が過ぎ、二十分が過ぎようとしたところで私は待ちきれずに教室へ向かった。

もうみんな帰った後で、教室には鍵原くんだけだった。彼は机の前に立って何やらぼーっとしていた。いや、いつもぼーっとしているように見えるから本当は思案に暮れていたのかもしれないが。私が教室に入っても彼はこちらに一瞥しただけだった。

「どうしたの?」と私は尋ねる。

「いや……」と言ったきり彼は黙った。

「今日すごかったね。見てたよ。サッカーやってたの?」

「別に……やってないけど」

「けど?」

「イメトレはした」

「イメトレ」

「うん」

「イメトレでサッカーできるの?あんなに?すご」素直な気持ちだったが最後の「すご」が如何にも軽薄な響きがした。私の感動は「すご」なんかで片付けられないものだったのに、表すだけの言葉が見つからなくて悔しい。

私たちの間には微妙な沈黙が流れた。ここにいたら鍵原くんには迷惑だろうか。そんな気がしてきていた。

「忘れ物?」と鍵原くんが覗き込むような口調で訊いた。

「あ、いやそうじゃないんだけど」鍵原くんが気になってきたとはその時言えなかった。

「今日すごかったねって言いたかっただけ」これも素直な気持ちだった。ありがとうと鍵原くんは前を見据えて言った。その顔はやっぱりぼーっとしているように見えた。じゃ、帰るねと言って私は帰ったが、結局鍵原くんが何しに教室に戻ったのかわからなかった。


それから私は鍵原くんと話すようになった。話すと言っても一方的に私が話しかけている。私が質問して鍵原くんが答える。その答えにまた私が質問する。取り調べみたいで嫌だった。たまには質問される側になってみたかった。

鍵原くんの周りにはいつも誰かがいて私が声をかけるタイミングは限られていた。限られているから気になることを質問して、質問だけで終わってしまったといつも後悔するのだった。そんな風に時は過ぎていき、二年生になった。

クラス替えで鍵原くんとは別クラスになった。他の友達とは休み時間に会いにいけばいいやとなるが、鍵原くんとはそういう訳にはいかない気がした。私は鍵原くんと友達でもなんでもなかったのだから。このまま鍵原くんとは何事もないまま卒業するんだろうなと薄々感じ初めていた。


二年の夏休み。うだるような暑さの日が続いていた。私は家の近所を流れる大きな川の土手道を自転車を押して歩いていた。河川敷の野球場で少年たちが一心に駆けているのが見えた。暑いのによくやるよなんて思いながら通り過ぎようとしたら、土手に三角座りをした鍵原くんがいた。私は思わず自転車をその場に止めて「鍵原くん!」と声をかけた。鍵原くんはゆっくりと振り向いて、細いつぶらな瞳でこちらを確認すると柄にもなく手を振ってきた。私は彼が手を振ってきたというだけで舞い上がりそうになりながら、ジェスチャーで隣いい?と訊いた。鍵原くんはうんと頷いた。

鍵原くんの隣に座ると思いのほか周りの雑草がチクチクするのと、小さな石ころがおしりに当たって痛かった。でも、座り心地の悪さは苦にならなかった。隣に鍵原くんがいたから。なんでこんなに彼に夢中なんだろうと一瞬よぎったが、よくわからなかった。

「知ってる子でもいるの?」私は野球場を指さして訊いた。

「うん、弟」

「兄弟いたんだね、勝手に一人っ子だと思った」鍵原くんの新たな情報を手にして心が少し跳ねた。

「あ、でも、血は繋がってないんだよね」

「え?そうなの?」

「うん、母親一回離婚してるから。弟は今の父さんの連れ子」

「そっか」離婚とか血の繋がりのない兄弟とか私の日常にはない世界の出来事だった。だから、そっか以上の言葉がなかった。

「ああ、でも家族って言っても所詮は他人の集まりだから」

「そうなのかな」

それきり私たちは黙って少年野球を見ていた。どれが鍵原くんの弟なのかわからなかった。

「あ、負けた」と鍵原くんが言った。私はどっちのチームが負けたのかもわかっていなかった。

「鍵原くん、おぼえてる?一年の時の球技大会の日。終わってから一人で教室にいたでしょ?」

「あーそうだっけ?」

「うん」

「そういえばそうだったな」

「ね、あの時なにしてたの?」

鍵原くんはあーと言ってしばらく考えるように空を見上げた。

「一人になりたかった……のかも」

「ひとりに?」

「うん、みんなにすごいすごいって言われてさ、今まで話したことなかったやつとかにいきなり話しかけられたり」鍵原くんの言葉に私はちくりと胸がいたんだ。

「そういうの嫌じゃなかったけど、なんか一人になりたいなぁって。それだけ」

「そっか」

その時、強めの風が吹いた。私は立ち上がって言った。「鍵原くん、競走しない?」

「え?」鍵原くんはキョトンとしたなんとも間の抜けた顔でこちらを見上げていた。カピバラに似ていた。

「うん、競走」私は二、三十メートルくらい先にある橋を指さしてあそこまでと付け加えた。

「なんで?」

「なんとなく」

「いいよ」

「いいの?やった」

鍵原くんはゆっくり立ち上がってパンパンとスボンについた草やら土やらを落とした。

私は自転車に跨った。

競走は私が負けた。自転車だったのに、ズルしてフライングしたのに、最後は鍵原くんに抜かされていた。走る鍵原くんに抜かされる瞬間、スローモーションに見えた。永遠にこのままスローモーションで抜かれ続けたい気がした。カピバラは意外と早く走る。その時速は五十キロ。最近ネットで仕入れた知識が頭に浮かんだ。

その翌日、鍵原くんは飛んだ。


鍵原くんは死ななかったでも、意識が戻るかもわからなかった。病院に行きたかったけれど、状況的に面会はできないらしかった。私は自室でひとり、彼との会話を思い出していた。彼に追い抜かれる瞬間がスローモーションで脳内再生され続けた。どうして?という言葉が意味もなく口をついて出た。やっと、友達になれると思ったのに。

一人教室に佇む彼の姿が浮かぶ。一人になりたかった。彼の声が響く。鍵原くんは誰からどこからいつから一人になりたかったのかな。

走る鍵原くんをみんながカピバラと呼んで追いかけている。走る。走るカピバラ。負けないで。負けないでよ。走って、走って、走りきってよ。鍵原くん。私も、私だって一緒に走るから、だから、負けないでよ。ぐちゃぐちゃに泣きながら、私は家を飛び出して、走った。走りなれていない身体がすぐに音をあげてもう走れないと叫んでいた。それでも私は足が動くかぎり走った。負けない。私、負けないから。走った。

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