第15話 九死一生
何も、できなかった。
普通の人なら誰だってそうだと思う。この状況で、打つ手などあるはずがないのだ。
車もろとも落下していった女の子、あの子の恐怖と絶望に染まった表情が頭から離れなかった。
まず最初に無力感、続いて悔しさ。それらの感情が重々しく全身を蝕んでいくのを感じて……諦めが浮かびかけた、まさにその時だった。
――白き風が吹き荒れるかのごとく、俺のすぐ横をルキアが飛び抜けていった。
「っ!」
身を覆ってもあまる大きさの、白く巨大な翼。彼女の背中のそれが起こす風が、屋上駐車場に吹き渡る。
彼女は、ルキアはまだ諦めていなかったのだ。
◇ ◇ ◇
落下した車を追うように、ルキアは屋上駐車場から飛び降りた。
彼女には一片のためらいもなく、常人であれば諦める以外にないこの状況においても、立ち止まる気などなかったのだ。
背中にドラゴンの翼を出現させたまま、ルキアは真っ逆さまの体勢で、落下していく車を追った。凄まじい風圧が、彼女の髪や衣服を激しく揺るがす。だが彼女はまばたきすらせず、車の中にいる少女を視線に捉えていた。
あの女の子を救う――それ以外に考えることは何もなかった。
(間に合え!)
もちろん、がむしゃらに行動に出たわけではなく、手立ては考えていた。
落ちていく最中、ルキアの全身が淡い光に包まれ、純白のドラゴンが現れた。ルキアが、真の姿に変身したのだ。
ドラゴンの姿になったルキアは、その翼を大きく羽ばたかせて一気に加速した。本来の姿になれば、人の姿でいる時以上のスピードを出せる。彼女の翼は乱気流を物ともしない制空能力を生み、曲線を描くように細くしなやかなその体は、風の抵抗を完璧に受け流した。
車との距離がみるみるうちに縮まっていく、途中でルキアは咆哮を上げた。ドラゴンの咆哮は戦闘開始の意味を持つが、今彼女が発したそれは『絶対に助ける!』という意思表示であり、宣言でもあったのだ。
それは女の子に届いたらしく、窓ガラス越しに彼女が自分のほうを見たのを、ルキアは確認した。
ドレイクやワイバーン、それに岩石ドラゴンと対峙した時と違い、目の前に相手がいるわけではなかった。
しかし今、ルキアは『時間』という見えざる敵と交戦していたのだ。
「今!」
車が地面に衝突するまで、猶予はあと僅か――しかし、ルキアは『射程距離』にまで距離を詰められたことを確信した。
彼女は全長の半分以上を占める長大な尻尾を一気に車へと伸ばし、その車体へと巻き付けた。
尻尾の先にまで触覚があり、しっかりと車を掴んだことを感じた彼女は、翼を広げて空中で制止した。その時、車の中に女の子がいることを考慮して、できるだけ振動を与えないようにしていた。
小型の車種だったが、その車体重量は少なくとも八百キロ以上はあっただろう。さらに落下速度も加わっていたのだから、結果どれほどの重さとなっていたのかは定かではなかった。
しかしルキアは、それを支えた。
空中で車を受け止めるという離れ業をやってのけ、女の子の命を救ったのだ。
「ギリギリだったわね……」
翼を羽ばたかせて滞空しながら、ルキアは呟いた。
地面までは一メートルもなく、あと一秒遅ければ激突していたに違いない。九死に一生とはまさにこのことだと思った。
とりあえずは助かったが、車の中には女の子がいる。宙吊りの状態では怖がらせてしまうだろうと思い、安全な場所に向かうことに決めた。
その場に降ろそうと考えたが、ルキアは屋上駐車場に彼女の母親がいることを思い出した。
娘の身が心配で、きっと気が気じゃないはずだ。一刻も早く、無事であることを伝えてあげなければ。
そう結論付けたルキアは、その尻尾で車を掴んだまま、翼を羽ばたかせて屋上駐車場に向かって舞い上がった。
◇ ◇ ◇
ドラゴンの姿になったルキアが屋上駐車場に向かって舞い上がって来た時、俺は驚いた。
それもそのはず、落下したと思っていたあの車が、彼女の尻尾に支えられて無傷の状態だったのだから。
ここからは見えなかったから、何が起きたのかは分からない。察するにルキアが、落下していく車を空中で受け止め、クレーンのようにそれを持ち上げてここまで戻ってきたのだろう。
ルキアは、できるだけ音を立てないように車を屋上駐車場に着地させた。そして、巻き付けていたその尻尾を解く。
「お母さんの縄、早く解いてあげて」
ルキアに命じられるまま、俺は振り返った。
そうだった、岩石ドラゴンの人質にされていた女性は、猿轡を解かれただけで手足は縛られたままなのだ。
俺は給水タンクのほうへと駆け寄り、女性の手首を縛る縄に手をかけた。
「今、外します」
「ええ、すみません……!」
娘が心配で、いても立ってもいられないはずだった。
幸い、彼女の両手首と両足首を拘束していた縄は、それほどきつく縛り付けられてはいなかった。当初はがっちりと結ばれていたのかもしれないが、もしかしたら彼女が抵抗し続けたせいで、次第に緩んでいたのかもしれない。
自由を取り戻した女性は立ち上がり、車のほうに駆け寄った。
キーを操作してドアを開けると、彼女は女の子を抱え上げ、車外に連れ出した。
「大丈夫? 怪我はない……!?」
声は出せなかったが、女の子はしっかりと頷いた。
女性があの子の猿轡を外そうとするが、なかなか結び目を解くことができない。
「貸してください、私なら外せます」
と、そこにルキアが歩み寄って申し出た。
ドラゴンの姿でいる必要がなくなったからなのだろう、彼女はもう人の姿に戻っていた。
女性が手こずった猿轡はもちろん、女の子の手首や足首を縛っていた縄も、ルキアはいとも簡単に引き千切って取り除いた。
「ママ!」
声を出せるようになり、自由も取り戻した女の子が、女性に駆け寄る。
「ああ、よかった……怖かったね……!」
女の子の無事を、彼女は涙を浮かべて喜んでいた。
娘を抱き締め、その頭を撫でた後で、女性が俺達を振り向く。
「ふたりともありがとう、助けてくれて……」
「あ、いえ……」
感謝されるのが気恥ずかしくて、どう応じればいいかも分からなくて……俺は視線を外して、そう答えるのがやっとだった。
その後、この場に警察が駆けつけて、女性とその娘は救急隊に搬送されていった。見たところ無事のようだが、念のために検査を受けるとのことだ。
俺とルキアも事情聴取されて、事件の経緯を説明した。
そして、事件の首謀者である岩石ドラゴンは逮捕され、連行されていった。結果的に犠牲者こそ出なかったものの、無差別に多くの人を負傷させ、幼い女の子やそのお母さんの命を奪おうとした罪は軽くない。
あいつのやったことは、れっきとした殺人未遂……動機も身勝手な逆恨みによるもので、酌量の余地は一切ない。厳罰は免れないはずだった。
しかし、俺は警察官達に連れていかれる最中で、岩石ドラゴンが笑みを浮かべていたのを見たのだ。
何がおかしいんだ? これだけの惨劇を引き起こして満足しているのか、それとも他に理由でも……? そう思った時だった。
「あ、いたいた! おふたりとも!」
少女の声に振り返る。
手を振りながら駆け寄ってきたのは、あの爆発現場に俺達と一緒に居合わせ、救護活動の指揮を執ったあの女の子だった。
「もう行っちゃったかと思いました、間に合ってよかった……!」
水を操るドラゴンである彼女は、この事件における最大の功労者であるように思えた。
その能力で火を消し、俺に火傷の手当ての方法を教えてくれて……さらには岩石ドラゴンを食い止める役割も果たしてくれたのだから。
彼女がいなかったら火は消せなかっただろうし、被害はもっと大きくなっていたに違いなかった。犠牲者だって出ていたかもしれないのだ。
「どうしたの?」
ルキアが問うと、彼女はその片手に提げたビニール袋を差し出した。
「これ、届けに来たんです。あの爆発現場に置きっぱなしだったから……」
それは、俺達が買った品物が入ったレジ袋だった。
「あ! すっかり忘れてた……!」
ルキアが言った。
思い出せば、爆発を受けた人々の救護をする際に、ルキアがあの場に置いて……それっきりになっていた。まあ、あの状況で買い物の心配なんかしてる余裕はない。
「ありがとう、わざわざ持ってきてくれて……!」
レジ袋を受け取りながらお礼を言うと、彼女は首を横に振った。
左側頭部で結われた水色の髪や、胸に提げられた貝殻のペンダントが揺れた。
「お礼を言うのはこちらです、あなた達が手伝ってくれたから、被害を受けた人全員を無事に救うことができました。本当にありがとうございました」
「いや、そんな……別にお礼なんか……!」
女の子のお母さんの時もそうだったんだが、感謝されると何だか恐縮してしまう。
照れ隠しになる話題はないだろうか……と思って、俺はふと、あの場での彼女の対応を思い出した。
「それにしても、火傷の手当ての方法とかすごく詳しかったよね。そもそもあんな場で冷静に対応するなんて、俺じゃ絶対無理だよ」
「仕事柄、ああいう現場には慣れていますから」
彼女はそう答えた。
「仕事って?」
問い返したのは、ルキアだった。
「私、ライフセーバーの仕事をしているんです」
彼女がそう言った直後だった。
「プリシラ姉ちゃん、早く行こうよ!」
彼女の後方から、幼い男の子が手を振りながら呼んだ。
きっと、彼女がドラゴンステイしている家庭の子なのだろうと推測する。
「あっ、すぐ行くからちょっと待って!」
男の子に応じると、彼女は今一度俺とルキアに向き直った。
「すみません、もう行かなくちゃ。それでは、またご縁がありましたら……!」
「ええ、またどこかで」
ルキアがそう応じて、俺も無言で手を振った。
――あの子、『プリシラ』って名前なのか。
水を操るドラゴン、リヴァイアサンとしての力を駆使して人を助ける女の子。彼女が言うように、また会えたらいいな。
走り去っていく彼女の……プリシラの後ろ姿を見つめながら、俺はそう思った。
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