第8話 好物はマスカット
「ったく母さん、勘弁してよ……!」
口の中には、苦みが充満し続けていた。
その原因は言わずもがな、さっきルキアと母さんによって食べさせられたピーマンだ。
小さい頃からずっと避けてきた、緑色の恐るべき拷問器具。それを大量に口に突っ込まれたせいで、この上なく気分が悪かった。
「あはは、ごめんごめん智」
皿を洗いながら、笑い交じりに言う母さん。
はっきり言って……というかはっきり言わなくても、反省の色など微塵も感じられなかった。
「ピーマン美味しいじゃない。どこが嫌だっていうのよ?」
腕を組みながら言ったのは、ピーマン強要事件の実行犯たるドラゴン少女だった。
「美味しいわけあるかよ、お前俺を殺す気か!」
「ピーマンで人が死んだら大騒ぎよ、大袈裟よあんた」
正論で言い返されてしまう。
ピーマンが美味しいだなんて理解できん、このドラゴン少女、味覚がイカれてるんじゃなかろうか……。
「ちょっとあんた、今何か失礼なこと考えなかった?」
ルキアに睨まれて、俺はビクリと体を震わせた。
「い、いやっ、何もっ!」
機嫌を損ねれば、またピーマンを食わされるかも知れない。
人間の姿であっても、ルキアはドラゴン。力では到底敵わないのだ、何かの拍子でスイッチを入れさせてしまえば、手痛い反撃を受けることは目に見えている。
台所から、母さんの笑い声が聞こえてきた。
「楽しいわねふたりとも、それじゃあお買い物、お願いできるかしら」
洗い物を終えた母さんが手を拭き、俺達のほうに歩み寄ってくる。
さっき聞かされたのだが、母さんは今日の午前中に用事があり、俺達に買い物を頼みたいらしいのだ。
母さんが俺にチラシを手渡してくる、買ってきてほしい商品に赤マジックでマークが付けられていた。どうやら今日はデパートで日曜の特売が行われており、値段が大幅に引き下げられているらしい。
ざっと目を通したが、結構な量だった。俺ひとりで持って帰ってくるのは無理に思われたが、ルキアがいれば大丈夫だろう。
「それと……ルキアちゃん、何か食べたい物はある?」
俺がチラシを眺めていると、母さんがルキアに問うた。
「え? いえお母様、私は……」
「うん、知ってるわ」
ルキアの言いたいことを先読みしたように、母さんが言う。
「ドラゴンは食事をする必要がない。でも、味は感じられる……そうでしょう? 今夜、ルキアちゃんの歓迎会をしようと思うの」
「いえ、わざわざそんなこと、悪いです……!」
と、そこで母さんが首を横に振り、ルキアの言葉を制した。
「遠慮しなくていいわ、あなたはもう私達の『家族』なのよ。それにルキアちゃん、昨日は智を助けてくれたんでしょ? だからお礼をさせてほしいのよ」
母さんの言う通り、昨日の事件で俺はルキアに命を救われた。
彼女がいなければ、俺はあの火事が起きた家の中で、火に飲まれて……その点は間違いなく、ルキアに感謝しなくてはならなかった。
「お母様……」
母さんが笑顔を浮かべる、まるで実の娘に向けるような、愛情のすべてを注ぐような……そんな笑顔だった。
「だからルキアちゃん、好きな食べ物は?」
母さんは繰り返した。
ルキアが何と答えるか、俺は想像する。ドラゴンだし……きっと肉系統じゃなかろうか。ステーキとか、他にはハンバーグとか。
しかし、
「私は、その……マスカットが好きです」
遠慮がちにルキアが言う。
俺の予想はかすりもせず、ステーキやハンバーグどころか肉料理ですらなかった。
マスカットが好きとは意外だ。ルキアの真の姿を見る限り、鋭利に生えた牙もあったから、きっと肉系統の料理が好みだろうと思ったのだが。
「っ……」
母さんが、驚くように息をのんだ。
俺が、どうしたのかと問う前に、
「あ、すみません、安い物でもないし迷惑でしたよね……! やっぱり歓迎会なんてしていただかなくても、お母様のお気持ちだけで、私はもう……!」
慌てふためいて、ルキアが言った。
しかし母さんはまた、首を横に振った。
「ううん、教えてくれてありがとう。マスカットね、分かったわ」
快く、返事をする母さん。
マスカットが好みだと聞いた時、息をのんだように見えたのは気のせいだったのだろうか?
戸棚から赤マジックを取り出すと、母さんはそれを片手に俺のほうに歩み寄ってくる。
「智、チラシを」
俺が差し出したチラシを受け取ると、母さんはそれに視線を落とした後、「よし、これね」と呟きつつ赤マジックでマークを追加した。
再び俺に返されたチラシを見てみると、山梨県産の種なしシャインマスカットにマークが付いていた。さらに他の商品と違って、『×2』という表記がされている。つまり、これをふたつ買ってこいということだ。
一房入りパックで、値段は千三百円。これを二パックだから、計二千六百円だ。
特売でいつもより安いとはいえ、それなりに値が張る買い物だと感じた。
「それじゃあ智、よろしくお願いね」
赤マジックを戸棚に戻すと、母さんは財布を取ってきて中から一万円札を一枚取り出し、俺に手渡した。
「分かった、それじゃ行ってくるよ」
ルキアの好物がマスカットだと知った時の母さんの反応、どことなく訝しくは思えたけれど……あえて俺は触れようとせず、買い物に出掛けることにした。
マスカットは高い物だし、きっと少しばかり面食らってしまっただけだろう。
そんなこんなで、俺はルキアと一緒にスーパーに向かうこととなった。
「別に歩かなくても、私がドラゴンに変身すればひとっ飛びなのに」
「いいのさ、俺歩くの好きだし」
確かにルキアの言う通り、ドラゴンに変身した彼女の背中に乗れば、デパートにはすぐ到着するだろう。
しかしながら、それほど遠い場所に向かうわけでもないし、何よりそれをやると癖になってしまいそうだった。どこへ行くにも、ルキアに頼ってしまう気がしたのだ。
ドラゴンが移動手段のひとつとなっている昨今では、それに依存するあまり運動不足になる人が増えることが懸念されている。車と違ってガソリンも維持費も、車検も必要ないし、運転する手間も要さないドラゴン。確かに便利なのだが、それに味を占めてしまうのはまずいだろう。
それに、口に出しては言えなかったけれど……騎乗免許を取りたてで、教習所以外でドラゴンに乗ったことのない俺は、正直尻込みしていた。
運転免許を取ったが、それ以降運転したことがない人をペーパードライバーという。それになぞらえて、騎乗免許を取ったが、以降ドラゴンに乗ったことのない人間を『ペーパーライダー』というのだ。今の俺は、まさにそれだ。
「ふーん、ならいいけど」
と言うルキア。
いつかは、彼女の背中に乗って空を駆ることもあるのかも知れない。けど、少なくとも今ではないだろう。
そんなこんなで、歩くこと数分。
デパートに向かう最中にある、『俺のもうひとつの目的地』が見えてきた。
「お、よし!」
とある民家の庭先……そこに『彼』が『いる』のを視認して、俺は駆け出した。
「あ、ちょっと!」
後ろからのルキアの声を意にも介さず、俺は駆け寄った。
どうやら向こうも俺に気づいたらしく、尻尾を振りつつ、リードが届く限界の距離まで歩み出てきた。
そう、俺が寄り道してでも会いたかった存在――それは、この『犬』だ。オスのボーダーコリーで、名前は『ジャック』。
このお宅は母さんの高校時代の同級生の『宮田』さんという人が住んでる家で、通りかかったらジャックを自由に可愛がっていいというお達しが出ていた。
以来俺はしばしばここを訪れてはジャックと戯れ、いつしかジャックも俺を覚えてくれたらしい。
「よしよし、今日も可愛いな」
ジャックのそばにしゃがんで、その頭を撫でた。
舌を出して、『ハアハア』と声を出すジャック。ちなみに犬のこの仕草、『パンティング』と言うらしい。
「お手!」
俺が片手を差し出すと、ジャックは右手をそこに乗せた。
「お座り!」
俺の声に従い、ジャックはお座りの姿勢を取る。
「おーさすが、えらいぞジャック!」
ご褒美に、今一度俺はジャックの頭を撫でた。
ボーダーコリーは全犬種の中で一番賢いと聞いているが、それに関わりなくジャックは本当によくしつけられた犬だった。
楽しくて楽しくて、じゃれるたびに時間を忘れてしまい、家に連れて帰りたいとすら思ってしまう。
撫でて撫でて、しなやかなジャックの毛並みを堪能していると、
「ね、ねえ……」
俺が振り返ると、ルキアがどこかを見つめつつ、何やらそわそわしていた。
ジャックと戯れるのに夢中で、ルキアのことを忘れていた。
「ん?」
遠くに視線を向け続けるルキア、その顔が少し、赤くなっているように見えた。
一体、どうしたというのか。
「わ、私にも……触らせて」
「何を?」
俺が問い返すと、ルキアはやっとこっちに視線を向けた。
彼女の顔が赤くなっていたのは、どうやら気のせいじゃなかったようだ。
「だ、だからその……! ワンちゃん、私にも……触らせて?」
自分の意思が伝わらないのが歯がゆい、そう言わんばかりのルキアの言葉。
それで俺は、やっと彼女の気持ちを理解した。
見ているうちに、どうやらルキアもジャックと戯れたくなったらしい。
「お前……ジャックを喰うなよ?」
ドラゴンの姿に変身し、『あら、美味しいわね』だなんて言いながらジャックを丸呑みにするルキアの姿が思い浮かんで、俺は思わず忠告した。
「何言ってんのよ、食べないわよ!」
冗談めかした会話を挟み、俺は場所を譲った。
嬉々とした面持ちのルキアが、さっきまで俺がそうしていたようにジャックに触れようとする……その瞬間だった。
お座りの姿勢を解いたジャックが、まるで目の前に敵が現れたように身構え、そして、
「ワンワン、ワンワンワンッ!」
突然、ルキアに向かって吠え始めたのだ。
「え、えっ……!?」
困惑するルキア、同時に俺も驚いていた。
ジャックは穏やかな気質の犬だ、こんな風に誰かに吠えたところなんて見たことがない。
どうして……? とは思ったものの、理由を知る術などあるはずがなかった。
「ワンワンワン、ワンッ!」
「あ、ああ……!」
吠え続けるジャック、ルキアはもう、ショックと驚きでわなわなと身を震わせるだけだった。
その後、俺がジャックを宥めた。ジャックは吠えるのをやめたけれど、ルキアに唸り続けていた。
俺達は再びデパートに向かって歩き始めたのだが、その最中で俺は、ルキアを慰める役割を背負うこととなってしまった。
「そう落ち込むなって。きっとジャック、ドラゴンのにおいに慣れてなくて驚いたんだよ。あのお宅、ドラゴンを寄宿させてないからさ」
隣を歩くルキアに言う。
ジャックがルキアに吠えた理由は、俺なりに想像がついていた。初対面だったということもあるけれど、一番大きいのはやはり、ルキアがドラゴンであるということだろう。
人の姿でいても、きっとドラゴンのにおいは変わらない。ジャックはきっと、慣れないにおいに驚き、ルキアに対して警戒心を抱いたに違いなかった。
ルキアは下を向いたまま、何も言わなかった。受けた精神的ダメージは、軽くないようだ。
「嫌われたわけじゃないって、な?」
俯いていたルキアが、やっと俺のほうを向いた。
その瞳に、涙が浮かんでいた。
「あんたはいいわよ、私なんて、私なんて……! あのワンちゃんひどい……!」
俺の言葉などもはや届いていないようだ。
ルキアはさめざめと泣きだしてしまった。
気丈な彼女のイメージからかけ離れたその様子に、かける言葉も見つからない。
「ちょ、おい……!」
どうしていいのか分からず、ただそう言うのが精一杯だった。
――意外と、打たれ弱い部分もあるんだな。
初めて垣間見るルキアの一面を目の当たりにして、俺は少しばかり意外に感じた。
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