第4話 ルキアの力
ダイニングテーブルに向かって家計簿をつけていた松野瑞希(まつのみずき)は、外から聞こえてくるサイレンの音に顔を上げた。
息子の智がコンビニに行くと言って家を出て、二十分ほど過ぎていた。
いつもより帰りが遅いと思ったが、きっと寄り道でもしているのだろうと思って、これといって気に留めてもいなかった。智は散歩が好きだと、瑞希は知っていたからだ。
しかし、そのサイレンの音はさほど遠くから発せられているとは思えず、瑞希は思わずボールペンを置いた。
(どこかで、火事でもあったのかしら?)
椅子から腰を上げて、窓から外を見ようとした時だった。
扉が開く音がして、ルキアが帰ってきた。その右手には、牛乳パックが三本入ったレジ袋が提げられていた。
「お母様、ただいま戻りました」
「お帰りなさいルキアちゃん、報告は済んだの?」
ルキアが本当の娘であるかのように、瑞希は微笑みつつ訊いた。
「もう大丈夫です。牛乳、買ってきました」
「ありがとう。ごめんなさいね、お買い物頼んじゃって」
「いえ、大丈夫ですよ。冷蔵庫に入れておきますね」
すると、またサイレンの音が聞こえた。
「そういえばお母様、帰ってくる途中で火事が起きているのを見ました」
冷蔵庫の扉を閉める音が聞こえた直後に、ルキアがそう言った。
「ええ、サイレンの音が聞こえていたから、知ってるわ」
ダイニングテーブルの上を片付けつつ、瑞希は応じた。
ルキアが帰ってきたので、家計簿をつけるのは中断することにした。
「ここから遠くないみたいだけど……ルキアちゃん、火事が起きた場所は見た?」
「はい、牛乳を早く持って帰らなきゃならなかったから、よくは見ませんでしたけど……コンビニの近くの家みたいで……」
コンビニの近く、という言葉が瑞希の頭に引っ掛かった。
「コンビニって、もしかして郵便局向かいのエイトイレブン?」
そこは、智がよく行くコンビニエンスストアだった。
この家から徒歩十分くらいで、息子がしばしば散歩ついでに、菓子や漫画を買いに寄っている場所だと瑞希は記憶していた。
「はい、そうです」
頷きながら、ルキアが答えた。
「っ……」
瑞希は、黙った。
頭に浮かんだ予感に、視線を落として考え込むような面持ちを浮かべた。
「どうかされましたか?」
そう問われて、瑞希は今一度、つい先日から家族となったドラゴンの少女と目を合わせた。
「いや、あのね……実は智、そのコンビニに行くって言って出ていったんだけど、まだ帰ってきていないの。いつもより遅いから、どこかで寄り道してるんだと思ってたけど……」
「えっ……!?」
何となく、胸騒ぎがしたのだ。
コンビニに行くと言って帰ってこない息子、そのコンビニの近くで起きた火事。考えすぎかとも思ったが、まったく無関係だと断じる材料も存在しない。
まさか、息子の身に何か……そう考え始めると、瑞希は不安に思えて仕方がなかった。
「ああもうあいつ、心配かけて……!」
そう呟いたルキアが、踵を返して居間から出ていく。
瑞希は、慌てて彼女を追った。
「ちょ、ルキアちゃん!?」
飛び出すように玄関から外に出たルキアの背中を、瑞希は呼び止める。
ルキアは立ち止まり、瑞希を振り返った。
「すみませんお母様、私ちょっと見てきます!」
ルキアの背中に、光が集まっていく。
光はやがて、一対の翼へと変じた。身を覆い尽くしてもあまる大きさの、巨大で美しい純白の翼だ。天使の羽のように優美であり、また空を貫かんとばかりに伸びた翼爪が、攻撃的な印象を醸してもいる。
ドラゴンであるルキアの持つ力だった。彼女は人間の姿でいるあいだでも、こうして背中に翼を出現させ、飛ぶことができるのだ。
次の瞬間、ルキアは瑞希に背を向けたかと思うと、翼を大きく羽ばたかせて一気に空へと舞い上がった。
庭に留まらず、周囲の歩道にまで波及するほどの風圧が巻き起こる。この場にのみ台風が発生したかのように、辺りの草木が激しく揺さぶられた。
瑞希は思わず、両手で顔を覆った。
「うっ!」
再び空を見上げた時、ルキアの後ろ姿が辛うじて視認できた。しかしすぐに、ドラゴンの少女は彼方へと消えていった。
◇ ◇ ◇
我ながら、無謀なことをやっていると思った。
今まさに火災が起きている家に飛び込む、自殺行為に他ならないと分かっていたのだが、ここに女の子が取り残されていると知って、黙って見てなどいられなかった。
幸いにも、火の勢いは進行不能なまでには強まっていなかったようだが、それでも熱気と煙が容赦なく襲ってくる。
「ごほっ、げほっ!」
できる限り、熱い空気を体内に取り込まないようにしなくてはならなかった。呼吸を浅くしつつ、炎を掻い潜るようにして進んでいく。
廊下に置かれた観葉植物や、壁に掛けられたリトグラフが焼けて無残な姿になっていた。家の中を彩ろうと飾ったのだろうが、こうなってしまっては皮肉なものだ。
女の子まで、同じ目に遭わせてはならない。観葉植物もリトグラフも買い替えが効くが、命は失ってしまったら終わりだ。全体に炎が燃え広がっていない今なら、まだ間に合う……!。
急がなければ……! と思った時だった。
「ママ、ママーっ!」
炎の燃焼音に混ざって、女の子の声が聞こえた。
声がしたほうを振り返ると、そこには階段があった。
今の声は、この階段の上から聞こえてきた。女の子は二階だ! 確信を得た俺は、炎を振り払うようにしながら階段を駆け上がった。
すぐに三つのドアが視界に入る。どの部屋だ? と思った矢先、また「助けて、助けてママーっ!」という声が聞こえて、その声を頼りに女の子の居場所を特定することができた。
駆け寄った俺は、すぐにドアレバーを掴んで開けようとした。
「くそっ、開かない……!」
だが、レバーは何かに引っ掛かっているように動かず、ドアを開けられなかった。
鍵が掛かっているわけではないようで、もしかしたら火に焼かれて壊れているのかも知れなかった。
「今助ける!」
こんな場所に取り残され、怖い思いをしているに違いないと思った。だから俺は、少しでも女の子を安心させたくて叫んだ。
ドアレバーを掴んだまま、俺は全身の力で扉にタックルした。ドアはびくともしない。何度かタックルを繰り返したが、やはり開かない。
どうすれば……! そう思った時だった。
右から、まるで意思を持っているかのように、炎の波が俺に向かって襲い掛かってきたのだ。
「うあっ!」
それは、俺の身長を余裕で超える大きさの炎の波――空気の流れで偶然発生したのか、火災の知識など一切持ち合わせていない俺には、何も分からなかった。
逃げる暇などなかった。俺にできたのは、目を閉じて顔を背け、両腕を顔の前で交差させるという、防衛本能に基づいた反射的な行動を取ることだけだった。
俺は、死を覚悟した。
しかし……熱さは感じなかった。炎に飲み込まれ、熱さを感じる間もなく焼け死んだのかと思ったが、そうでもないらしい。
恐る恐る、俺は目を開ける。白い何かが、視界に入った。
「っ……?」
突然目の前に現れたその物体、白い壁なのかと思った。
でも違った。壁と思ったそれは、翼だった。白く巨大な翼が俺の目の前で交差し、押し寄せてきた炎の波から俺を守る盾となっていたのだ。
炎も熱気も打ち払うほどの風圧を発しながら、俺を守った翼が防御の構えを解く。
振り返ると、翼の持ち主はすぐ後ろにいた。
「お前……!」
いつの間にそこにいたのか、ルキアが立っていた。
その背中の翼が光の粒に変じ、やがて溶け入るように消えていく。
「こんな場所で何やってんのよ!」
射抜くような視線を向けつつ、彼女は俺に言う。
「間に合ったからよかったものの……もし私が来なかったら、あんた今どうなっていたか!」
彼女の凄まじい剣幕に、俺は思わず一歩引いた。
「わ、悪い……!」
謝罪の言葉が口をつく。
しかし俺は、すぐにそれ以上に重要なことを思い出した。とにかく今は、一刻を争う状況なのだ。
ついさっきまで、どうにかブチ破ろうとしていた扉を指差す。
「いや、それよりも……このドアの向こうに女の子が取り残されてるんだ!」
「えっ……!?」
ドアの向こうから、また女の子の声が聞こえた。
その声はルキアの耳にも届いたらしく、彼女が息を飲んだのが分かる。
「このドア、壊れちまってて開かないんだ。どうにかブチ破ろうとしてたんだけど、俺の力じゃ……!」
「どいて!」
俺が説明を終えないうちに、ルキアは俺を押し退けるようにしてドアの前に立った。
右足を後ろに下げたかと思った次の瞬間、ルキアはドアに渾身の蹴りを入れた。
ドアの一部が蹴り破られ、風穴が開く。続いてルキアはその穴に手を突っ込むと、ドアを手前に引く形で力任せに壁から引きはがした。無数の木っ端や蝶番の残骸が、周囲に飛散した。
「や、やば……!」
こんな最中であるにも関わらず、ルキアの蹴りの威力と腕力に目を丸くしてしまう。
……まあ、これくらいは当たり前だろう。人間の姿になっていても、ドラゴンの力は損なわれていないのだ。
それに、ただ無為にドアを破壊したのではなかったようだ。もしドアのすぐ近くに女の子がいたら、巻き込んで怪我をさせてしまうかも知れなかった。そのリスクを考慮して、この方法を選んだのだろう。
無造作にドアを投げ捨てると、ルキアはすぐに部屋に踏み込み、俺もその背中を追った。
炎に包まれゆく部屋の中で、女の子が壁際に座り込んでいた。
まだとても小さい子で、四歳や五歳程度に見えた。両手で大きな兎のぬいぐるみを抱えていて、涙に顔を濡らしながらこっちを見ている。
ルキアが、女の子に駆け寄った。
「大丈夫、助けに来たよ」
穏やかな口調で言いつつ、ルキアは女の子を抱え上げた。
「ママ、ママ……」
母親を呼ぶ女の子。
優しい表情を見せ、ルキアは女の子の頭を撫でた。
「もう怖くないから、すぐお母さんに会わせてあげるから……だから、もう少しの辛抱ね」
女の子は泣き止まなかったけれど、確かに頷いた。ルキアの言葉にしっかりと応じたのだ。
見たところ怪我をしている様子もなく、どうにか間に合ったと安堵を覚えた。
しかし、それも束の間だった。頭上からバキバキと、嫌な音が響いたのだ。
「っ!」
弾かれるように、俺は上を見上げた。
焼け焦げた天井の一部が、今にも崩落しそうになっていたのだ。
逃げる猶予などなかった。もし押し潰されればどうなるか、そんなことは考えるまでもない。
「やばい、天井が!」
そう叫んだ俺の胸元に、ルキアが女の子を引き渡してきた。
「この子をお願い!」
困惑しつつも、さっきまでルキアがそうしていたように、俺は女の子を抱えた。
一体、どうしようというのか?
「伏せて、早く!」
俺が何かを言う前に、ルキアに命じられた。
何をする気なのか見当もつかなかったが、指示に従って身を屈ませる。
手ぶらになったルキアが、天井を見上げたまま思い切り息を吸い込んだ。
次の瞬間――ルキアは口から炎を吹き出した。オレンジ色で、視界全体に及ぶほどのそれは崩れ落ちてきた天井の残骸を焼き払い、跡形もなく消し飛ばした。
「な……」
想定外の出来事に、無意味な声を発してしまった。
ルキアにとっては、逃げる猶予もなかったこの状況で、俺と女の子を守る唯一の手段だったのだろう。伏せろ、という指示の意味が、今なら十二分に理解できた。
その口元に炎を迸らせながら、ルキアが俺を向く。
「何ボサっとしてんのよ、ここから引き上げるわよ!」
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