第3話 ドラゴンはペットじゃない
暇な時はいつもそうしているように、俺は自室のベッドに仰向けになり、スマホでゲームに興じていた。
学校の宿題があったけれど、まだ手はつけていない。提出期限まではまだ猶予があるし、それ以上に心に引っ掛かるものがあって……どうにも机に向かう気にはならなかった。
お気に入りのアクションゲームをしていたのだが、単純なミスを連発してしまって調子が出ない。
「はあ……」
スマホの画面を切って、俺はそれをベッドの片隅に手放した。
モヤモヤするこの気持ちの正体……考えるまでなく、ルキアのことだった。
いつまでもこのままじゃダメだってことは分かっている。メスだなんて言った俺が悪いんだから……謝らないと。俺はベッドから身を起こして、自室を出る。
階段を下って居間に続くドアを開けると、エプロン姿の母さんが視線を向けてきた。
「智、どうかした?」
母さんは、洗濯物をハンガーに掛けている最中だった。
見渡してみたけれど、ルキアの姿はない。
「いや、その……ルキアは?」
「ルキアちゃん、龍界に行ってドラゴンステイ先が決まったことを報告してくるって」
出掛けているのか。
「そっか、分かった」
ルキアは今いないことを知り、部屋に引き返そうとするが、
「ルキアちゃんに何か用があるの?」
洗濯物を干す手を止めて、母さんが訊いてきた。
「あ、いや、別に……用ってほどのことでもないんだけど……」
俺は答えを濁した。ルキアに謝ろうとしていた、とは言えなかったからだ。
母さんは問いを重ねてこようとせず、ただくすりと微笑んだ。
「智、お母さんまたチーズケーキ作ったんだけど……食べる?」
「うん、食べる……」
母さんの提案に、俺は頷いた。
甘い物が好きな母さんは、しばしばこんなふうに俺に手作りのケーキやクッキー、それにドーナツやマカロンや、他にも色々なお菓子を振舞ってくれた。
中でも俺は母さんのチーズケーキが好きで、前作ってもらった時に『また食べたい』と言った。どうやら、母さんはそれを覚えていてくれたらしい。
ブルーベリージャムがかかった、濃厚でとろけるようなレアチーズケーキ……今回も、とても美味しかった。
食べ終えてフォークを置き、俺は一緒に出された牛乳を飲んでいた。
「それで智、ルキアちゃんとは仲直りできたの?」
俺と向かい合う位置に座っていた母さんが、カップに口をつけつつ問うてきた。
「え……」
予期せぬ質問に、思わず目を丸くする。
すると母さんはまた、くすりと微笑んだ。
「やっぱり、まだ仲直りできてないのね」
俺がルキアと最悪のファーストコンタクトをしてしまい、仲違いしている最中だということは、すでに承知のようだった。
空になったコップを置いて、俺は小さく頷く。
「智が希望してたドラゴンと、ルキアちゃんが全然違ったのは分かるわ。でも、『メスドラゴン』はダメだったわね」
教え諭すような穏やかな口調で、母さんは言う。
勝手にドラゴンを選んだ母さんもどうかとは思っていた。でも今は、そのことについて何かを言おうとは思わなかった。
カップをソーサーに置いて、俺を見つめる母さん……その左手薬指には、プラチナの指輪が煌めいているのが見えた。
「ドラゴンは人間のペットじゃない。楽しいことがあれば笑えて、悲しいことがあれば涙を流せて、嫌なことがあれば怒る……見た目は違っても、私達と同じように『心』があるの。分かるでしょ?」
「うん……」
たった二文字で返事をする以外に、できることはなかった。
「ドラゴンであっても、ルキアちゃんは『女の子』なのよ。もしドラゴンじゃなくて普通の人間の子だったとしても、智はあの子に『メス』だなんて言った? 絶対言わないでしょう?」
母さんの言う通りだと思った。
少なからず、俺はドラゴンを動物のように思っていた。ドラゴンをうちに迎えるのを、犬や猫を飼うのと似たものだと考えていたのだ。だから、メスだなんて言ってしまったんだと思う。
俺、バカだったな。そう思った。思わずにはいられなかった。
「間違ったら『ごめんなさい』でいいのよ、それは相手が人であってもドラゴンであっても同じこと。ここでちゃんとルキアちゃんに謝れないんじゃ、どんなドラゴンがうちに来ても良い関係を築けないわ」
下を向いていた俺は、母さんの微笑む声で顔を上げた。
いつも通り、優しくて落ち着きのある眼差しが、俺に向けられていた。
「大丈夫よ、ルキアちゃんは優しい子だもの。智がちゃんと謝れば、きっと許してくれる」
「分かったよ」
俺が返事をすると、母さんは「うんうん」と発してまたカップに口を付けた。
空になった皿とコップ、それにフォークを手に、俺は台所に向かう。スポンジを取って洗剤をつけ、それらを洗っている最中で……ふと感じたことがあった。
「母さん、ちょっと訊いていい?」
食器を洗う手を止めないまま、俺は母さんに言った。
「どうしたの?」
配膳口越しに、母さんと視線が重なった。
「いや、ちょっと気になったんだけど……何だか母さん、ルキアのことを昔から知っていたような口ぶりじゃない?」
思えば、うちに迎えるドラゴンを母さんがこんな簡単に選んだということも引っ掛かる点だった。
ドラゴンステイで寄宿させるドラゴンは、慎重に決めるものだ。新しい家族を選ぶのだから、当然だろう。
にも関わらず、こんな簡単にルキアを選んだ母さん。いつも落ち着いていて手際が良くて、先のことを考えて行動している母さんらしくないな、と思ったのだ。
「っ……!」
母さんはすぐに首を横に振った。
今、息をのんだと思ったが……気のせいだろうか。
「ううん、少し面談してみて分かったのよ。この子なら私達の家族になれる、智とも仲良くなれるって。智も知っているでしょう? お母さんは昔……」
「龍界のお屋敷でお手伝いさんをしていた、でしょ?」
もう聞き飽きた言葉だった。
食器を洗い終えた俺は、「ごちそうさま」と言い残して自室に向かおうとする。
「智、珍しいわね」
と、母さんが不意にそう言って……俺は意味が分からないまま、振り向いた。
母さんが、こっちを見つめてニコニコしていた。
「何が?」
俺が問うと、
「自分で使った食器をちゃんと洗うなんて。いつもはそんなこと、絶対にやらないでしょ?」
「んなっ……!?」
言われてみれば、どうして俺は食器を洗ったりなんて……。
理由は明確、家事を積極的に手伝うルキアの影響を受けてしまったのだ。……もちろんそんなことは、口に出してなんて言えなかったけど。
「ど、どうでもいいだろ。気分だよ気分! ちょっと俺コンビニ行ってくるから!」
「ふふ、行ってらっしゃい」
母さんの声色はいかにも楽しげだった。
……全部分かってて楽しんでるな。きっとそうだ、そうに違いない。
自室に戻ってジーンズとTシャツに着替えた俺は、財布とスマホ、それにイヤホンを持って家を出た。目的地は家から少し歩いた場所にあるコンビニで、欲しい音楽をダウンロードするためのプリペイドカードが欲しかったのだ。
自転車は使わなかった、俺は好きな曲を聞きながらのんびり外を歩くのが好きだった。
外を歩く時はいつもそうであるように、これといって何も考えずひたすら歩を進めていた。
「えっ?」
コンビニが見えてきた頃だった。
ふと視界に入ったそれに、俺は思わず足を止めた。
どこかから、黒煙が立ち昇っていたのだ。その方向に、人々が慌ただしい様子で走っていくのも見えて、イヤホンを外した。尋常ではない様子の声が、俺の鼓膜を揺らす。
まさか……俺の予感は、ものの数秒後に現実となった。
――民家が、燃えていたのだ。
「っ!」
最初は、何かの見間違いなのかと思った。だが俺の目は狂ってなどいなく、真実を映していた。
炎は二階建ての民家ほぼ全体に回っていて、俺が立っている場所にも熱気が伝わってきた。
瞬きも忘れてしまった。十五年生きているけれど、火災現場に出くわすなんて初めてのことだった。
いやちょっと待て、そんなことよりまさか……まさか、この中に誰かいないよな? そう思った時だ。
「放して、放してください!」
叫び声に、俺はそれが発せられた方向を振り返った。
ひとりの女性が、自分の腕を掴む数人の男達を振りほどこうと身動きしていた。
その女性はまだ年若く、母さんと同じくらいの年代に見えた。大体、三十中盤から四十前半だろうか。
一体、どうしたのか? 答えは、その女性自身が教えてくれた。
「お願い、行かせてください! 中に……中に娘が取り残されているんです!」
涙声を張り上げる女性、彼女の言葉に、俺は燃え盛る民家に視線を戻した。
耳を疑った。まさか、あんな炎の中に女の子が取り残されているってのか……!?
しかし周りの人達は、決して女性を行かせようとはしない。
「ダメですよ奥さん、危険です!」
「お、おい! 消防はまだかよ!」
「もう通報はしたんだ!」
時間は刻一刻と過ぎている。遅くなればなるほど、女の子の命が助かる可能性は低くなっていくだろう。
「お願い行かせて、このままだと娘が、娘が……!」
やがて女性は叫ぶこともできなくなり、男達に腕を掴まれたまま、その場に膝を崩してしまった。
娘が命の危機に晒されているのに、助けに行くこともできない。絶望感、それに無力感が重く圧し掛かっているのだろう。
彼女は俯くように視線を下げ、ただ泣き崩れるだけだった。
「誰か、誰かあの子を助けて……!」
女性の悲痛な表情が、それに彼女が流す涙が……網膜に焼き付けられるように思えた。
もう俺は、その場に突っ立ってなんかいられなかった。
使命感とも正義感とも分からない気持ちに突き動かされ、メラメラと音を立てて燃え盛る民家に向かって、俺は一心不乱に駆け出した。傍目には信じ難い行動だっただろうが、少なくとも俺に迷いはなかった。
「おい君! 何をしているんだ、戻ってこい!」
野次馬の誰かがそう言ったが、俺は聞く耳を持たなかった。
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