第9話


 地下三階の入浴場の鍵は、命綱になる。

 入浴代見合い金の一部を貯蓄できるし、

 なにより、衛生状態を常時維持できる。


 無理やり竹刀を振らされた当日は全身筋肉痛だったが、

 是枝俊也といえども成長期の躰で、

 少しずつ、だが、確実に筋力へと代わっていく。


 これに伴って体重がほんの少し下がり、

 ぶよぶよ豚蠅人間のデハブが漸く薄まり始める。

 といっても、身長から体重を引いて100残らない程度であり、

 せいぜいのところ、戦闘力5のクソ雑魚ブタ野郎である。

 

 それでも。

 希望の見える前進であることは間違いない。

 餌のカレーを呑んだりしない限りは、だが。

 

 その、わずかな希望を、

 打ち砕くように。

 

 是枝俊也の、猜疑心の強さ。

 人の弱み、歪みを見極める涜神の感覚。


 そのアンテナが、検知してしまう。


 厩戸。

 桃井道場を隠すビルが立地する、

 地下鉄駅近の猫の額のような市街。

 

 この狭隘で猥雑な路地の中で、

 誰かが、なにかを狙っている。

 

 鋭く、周囲を見回した時。

 

 え。

 

 どう、して。

 ギラリとしたは、

 まちがいようもなく。

 

 気づいたら、駆け出していた。

 

 驚愕の表情を浮かべる広瀬昌也の肩に向かって、

 ほんの少し育った脹脛を跳躍させ、

 全力でタックルする。

 

 反対側の肩が、

 ぐしゃりとひしゃげる感覚があった。

 

 「!

  お、お前っっ!?」

  

 あぁ。

 この異能を、使えた。

 正しく、使えたんだ。


 「お、おいっ!

  こ、こんの、

  ば、馬鹿野郎がぁっ!!」


 あるいは、

 これこそが、原作通りだったのかもしれない。

 

 広瀬昌也がいつ死ぬか、

 原作では、はっきりと記載はされていない。

 「二年以内のどこか」に過ぎない。


 それなら、

 これで、広瀬昌也を、助けられたのだろうか。

 涼音は、父を喪わず、

 人を疑うこともなく育ってくれるのだろうか。


 「救急車っ!! 

  は、早くしろっ!!」


 そうであれば、月宮雫と涼音の関係が近づくのに、

 あんな悲劇を招く必要もなくなる。

 河野菜摘は、騙されずに生きていられるかもしれない。

 

 あぁ。

 何の不満があるだろう。

 

 消費される経験値に過ぎなかった蝿豚人間が、

 恩人の役に立って死ねるというなら。


*


 ……

 

 生きて、る。

 撃たれた、のに。


 最初に襲った感情は、絶望だった。

 蝿豚人間になることが運命づけられているのか。

 無様に四肢を破裂させない限り、

 この世界から消滅できないとでも言うのか。

 

 次に、左肩を中心とする激しい痛み。

 是枝俊也の異様な痛覚耐性なら、気絶せずに耐えられてしまうが、

 それだけに、痛みが執拗に身体を襲い続ける。

 

 内なる全身波状攻撃に耐えながら、

 歯がボロボロになるくらい噛みしめ続けること、

 十分くらいだろうか。


 「あ、起きられてますね。」

 

 女性の看護師が、部屋の中に入ってきた。

 ネームプレートを見て、絶望が深まる。


 蓬町。

 JL

 

 地下二階に、ド〇ルド・キャ〇ロンも真っ青になるだろう

 禍々しいサイコパスに満ちたマッドサイエンティスト達を養っている。

 本編一周目では、主人公たちが潜入し、

 ストーリーの核となる六条晴海の理論本自費出版を入手した直後、

 主人公側の一人が影主に無残に殺される場所だ。


 これは、作品世界の慣性なのか。

 だとすれば、なぜ。

 

 「痛み止め、切れてますね。

  入れますね?」

 

 考える間もなく、

 強烈な麻痺剤に思考をかき消された。


*


 あぁ。

 この医者、か。

 

 「銃創、だね。

  どうやら、肉を剝いだだけで済んだようだ。」


 古屋武。

 マッドサイエンティスト集団の端くれだが、

 地下二階の影主を飼っている連中が暴れだすと、

 まっさきに殺されてしまう哀れな子羊。


 「出血量は多かったが、輸血も無事に済んだしね。

  きみはじつに運がいい。」

 

 まだ若い、な。

 原作で殺されたときは内科部長だったから、

 これから順調に闇科学者の道を歩んでいくのだろう。


 原作の時はやせぎすだったが、

 いまはまだ、肌がちょっとへこんでいるだけ。


 コイツはどうあがいても死ぬだけだし、

 広瀬昌也のような聖人ではない。


 といって、度しがたい悪人でもない。

 しかし、コイツに下手にかかわってしまえば、

 地下二階の禍々しい闇に早く触れてしまうことになる。

 

 いまはまだ、チュートリアルボスですらない。

 守るものは、最小限にとどめるべきだろう。

 

 「中学生が警察官を護って銃撃を負うなんて、

  ずいぶんと変わった話だね。」

 

 知られて、る。

 

 侮るべきでは、ない。

 小物とはいえ、闇勢力の一員であり、

 端とはいえ、一つのセクションのトップになった男だ。


 沈黙は金。

 蝿豚が黙っていてもちっとも絵にならないが。

 

 「おや、痛むのかい?」

 

 ……どっちかっていうと性根は善人寄りなんだよな、古屋武。

 それを容赦なく虫けらのように殺すからこそ

 ラスボスのサイコパスぶりが際立つわけだが。


*


 あぁ。

 そんな律儀さ、要らないんだけど。

 

 「……。」

 

 東京JL病院は、の真っただ中。

 身元がもう、割れてしまっているのに、

 なんの後ろ盾もなく、単身で乗り込んでこられたら。

 

 「……

  その、なんだ。

  

  すまんな。

  立場、逆になっちまって。」

 

 違う。

 

 たった一か月弱でも、

 14年間の人生のすべてよりも価値がある。


 豚蝿人間としての末路しかないなら、

 虹の雫を与えてくれた聖人のために命を捨てるのは、

 当然のことであって。


 それより。

 

 (中学生が警察官を護って銃撃を負うなんて)

 

 どうする。

 どうすれば、いい。

 

 監視カメラが縦横に張り巡らされている。

 ここが敵地だと自然に知らせる方法など、ない。


 あぁ、

 こう、すれば。

 

 「!

  い、痛むのか?」

 

 不細工な顔を歪めているんだから、

 さぞかし見苦しい絵面になっているだろう。

 

 「も、申し訳ありません。

  退院してからで、お願いできますか。」

 

 「あ、あぁ。

  わ、わかった。

  し、しっかり養生するんだぞっ。」

 

 古ぼけたコートをひるがえし、

 慌てた表情で去っていってくれた。


 ……よかった。

 ほんとうに、よかった。


 ……

 演技、できてたかな。

 

 ……

 あぁ。

 心拍数、めっちゃあがってる。

 この形でも掴まれているわけだ。


 しばらく心拍をあげておかないと。

 さも異常発作が起こったように見せるために。

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