第8話


 朝。

 教室前の狭い廊下。


 「ご、ごめんなさいっ。」

 

 …わりと、目立つんだよな。

 美女と野獣。いや、それ以下か。

 

 「や、やりすぎましたっ。」

 

 謝ってくるのはともかく、

 可憐な生徒に泣きそうな顔をされると、こっちが極悪人みたいになる。

 タカっていると言えなくもないとはいえ。

 

 「お気になさらず。

  次回も宜しくお願いします。」

 

 「!

  は、はいっ!」

 

 元気に笑顔を見せて、その直後に残念そうな顔になり、

 そして、慌てて去って行った。

 

 表情の忙しい、素直な娘だ。

 俊也の周りにいなかったタイプの。


 そもそも、周りに人間がいた試しなどない。

 だから、カネで済む関係を望み、カネの切れ目で裏切られた。

 無理もない。この容姿では、つながりなど生まれようはずがないから。

 

 いや。

 

 溜息は、幸せが逃げるという。

 現金こそ潤沢とは呼べないものの、

 雨風を凌げる安全な寝床と二食が確保されている現状は

 望外というべきだろう。

 

 掌にある、ごくささやかな幸せを護りたい。

 たとえ、神に叛逆するとしても。


*


 「インドメタシン?

  そんなものないわ。」

 

 な、なんだと。

 一般的に流通している筋肉痛の抑制剤が存在しないなんて。

 

 「若いのに筋肉痛なんてないでしょ。」

 

 ある。

 十分過ぎるくらい。

 おかしいんじゃないかこの保健医。

 

 「しょうがないのねぇ。

  50代の先生が使ってる奴借りるけど、それでいいの?」

  

 ぐっ。

 ひ、ひとりならっ……。

 

 「あはは。嫌なのね。

  そんな顔してるのに色気づいちゃって。

  湿布薬ならあるから、使うといいわ。」

  

 湿布あるじゃん。

 まったくもう。

 

 生徒に軽口を叩く保健医、川瀬成海。

 くせっけのある収まりの悪い髪と、優し気な声。

 ふんわりと癒し系の風貌を持つ彼女は、

 他の生徒からの信頼も厚い。


 なのに、是枝俊也の探知網にひっかかる。

 おっとりして見える瞳の先は、どうしようもなく歪んでいる。

 目の前で片方の口角だけニヤリと引き上げ、

 ククっと喉で笑う日がいつ来てもおかしくない。

 

 その歪みはどこから来ているのか。

 先般の女子生徒を暴れさせたのは川瀬成海なのか。

 もしそうだと言うなら、精神に介入する理由はどこにあったのか。

 

 分から、ない。


 いまの是枝俊也には、対抗力がなにもない。

 評判の悪い高圧的な体育教師が退学を要求してきたなら、

 わかりやすい叛逆心が沸くのだが。


*


 まだ、大手検索サイトが、キュレーターに汚されていない。

 その意味で、情報検索はやりやすい。

 

 思いついたことが、二つあった。

 

 六条晴海。

 

 河野菜摘の母親。

 無意識を含めた交差的認閾論の先駆者であり、

 作品中の鍵概念の一つ、「再現理論」の提唱者。

 

 彼女の業績は、密やかな書籍自費出版の形で公刊されていた。

 だからこそ、裏ボス続編の一人である間崎律が継承を試みることができた。

 ということは、六条晴海の痕跡は、この世界に残っている筈だ。

 

 そして、の力は、国内に限定されていたと考えられる。

 事実、原作では、あれだけの社会変動であるにも関わらず、

 日本国外に与えた影響はほとんどない。

 

 であれば、日本語圏のものが全て削除されていたとしても、

 英語で検索すれば、ひっかかるはずだ。

 

 <haruna rokuzyo psycologic collective unconscious paper>


 ……多いな。

 しぼりこ

 

 これ、は……


 ……

 あっ、た。


 幾つかの論文と、それに対する好意的、批判的なcritics。

 27歳。まだ大学院を出ようとするところだったのに、

 ここまでの業績を挙げていたことに、慄然とする。


 ただ、abstructを読んだ限りでは、理論的な可能性の域を出ていない。

 もう1年生きていたら、国内であれ海外であれ、

 然るべきポストに着いたことだろう。

 あと数年あれば、英語圏をも揺るがすことになったかもしれない。

 

 原作中、大きな謎がある。

 六条晴海は、誰に殺されたのか。


 原作世界では、のラスボス甲斐田良英や、

 彼の手下落胤である紅顔茶髪の美少年、

 日吉綸太郎の手によるものとの考察があるが、

 どう考えても雑である。

 

 甲斐田良英は、まだ都議の一人に過ぎない。

 日吉綸太郎に至っては、五歳。

 

 ごく単純に考えると、

 精神操作を制御技術化しようと企む黒幕は別にいて、

 甲斐田良英は、むしろ従属的な立場だった。

 その黒幕の力を、甲斐田良英が簒奪して衆議院議員となり、

 精神操作を己の野心総理を満たすツールに変容させていく。

 

 そうかどうかはまったく分からない。

 そのほうがすこしだけつじつまがあいそう、というだけのこと。


 ダウンロードした六条晴海の論文にさーっと目を通す。

 英語の論文といっても、研究チームはほぼ日本人だ。

 心理学というよりも医療系で気になる名前が幾つか出てくる。

 

 謝辞の欄にあるのは、例の大学教授だろう。

 六条晴海の業績を奪い、甲斐田良英の黒幕に売り飛ばし、

 最後は甲斐田良英に無残に殺される。


 まだ、間崎律は無邪気に研究をしている頃だろう。

 研究を完全にストップさせられるのは、二年後か、四年後か。

 間崎律が闇落ちする原因となる交際相手の両親の死は、自殺か他殺か。

 主人公まわり以外では、明かされていない謎はとても多い。

 

 ……どこをどう止めれば、世界線は変わるのか。

 世界線を替えた結果として、世界は一体どうなってしまうのか。

 本当に収束するポイントがあるのか。

 

 いや。

 チンケなチュートリアル豚に過ぎない是枝俊也が、

 大それたことを考えてもしょうがない。


 ……

 約束の時間、だ。


 今はまだ、是枝俊也の僅かな可能性を引き上げることに力を入れるべきだ。

 二周して世界を無双することが確定している完璧超人主人公、

 月宮雫が、心底羨ましい。


*


 「……ほんの少しだけ、形になって来ました。」


 よかっ、た。

 家の中でも、移動中でも、意識し続けた甲斐があった。


 「まだまだ、これからです。」

 

 少し声が高い桃井薫が、凜とした口調で告げる。

 その通りだろう。なにしろまだ四回目だ。

 

 「はい、先生。」


 「やめて下さい。」


 「では、師匠。」

 

 「からかうなら、止めますが。」

 

 少し、道場の温度が下がった気がする。

 

 「分かりました。

  ありがとうございます、桃井さん。」

 

 「……はい。

  今日はもう、上がって頂いて結構です。」


 「ありがとうございます。

  また来週。」


 「……はい。」


 更衣室に向かおうとして、ふと、振り向くと、

 桃井薫が、外したばかりの防具を着け直し、自分用の稽古を始めた。


 !


 ……凄まじい速さ、強さだ。

 是枝俊也の指導をしていた時とは雲泥の差だ。

 

 集中力と覇気がびりびりと伝わってくる。

 もう、是枝俊也のことなど、眼中にない。

 

 ……

 唇を噛みしめいていた時の悔恨に満ちた顔が、

 なぜか、是枝俊也の脳裏をよぎった。

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