第7話


 激動の日の、翌日。

 教室前の狭い廊下で。


 「あ、あのっ。」

 

 背の小さな、可憐な声の女子生徒に、

 また、呼び止められた。

 もう、用は済んだ筈だが。


 「貴方のせいではありません。

  どうかおかまいなく。」

 

 「そ、そういうわけにはっ。

  お礼もお返しもしないなんて、

  忘恩の輩ですっ。」


 気にしすぎ。

 お返しを強請ったら立派な是枝俊也じゃないか。

 お返し? お返し…。

 

 あ。

 これ、いいんじゃないか。

 

 「いまは授業前ですので、放課後にでも。」

 

 話をする時間をできるだけ先伸ばしたい。

 それに、人前でする話ではない。

 

 「は、はいっ。」


 少し高く、溌剌と響く声。

 輝く眼を綻ばせた姿がなんとも庇護欲をそそる。

 是枝俊也とは別世界線の娘だ。

 まぁ、敵方には美男美女が多いのだが。


*


 「せ、銭湯の回数券、

  です、か?」


 「ええ。」


 なかなかな良案だと思う。

 五回券を二千二百円で買い、二枚分を頂く。

 

 「三枚は貴方の手元に残ります。

  他の方に五百円より少し低い額で売れば換金もできます。

  いかがでしょう。」


 清潔そうな身なりだから、きっとお年玉とか貯金してるはず。

 二千二百円に困っているとは思えないし、実質千円弱だ。


 中学生の御礼の額としては、ちょうど良いのではないか。

 なかなかな配慮に満ちたソリューション。


 「……。」

 

 といっても、現金が動くことに変わりはない。

 まずいな、これでは強請りと同じじゃないか。

 

 「難しいようでしたら、撤回させて頂きますが。」

 

 「い、いえっ。

  あ、あの、

  そ、それなら、ウチに来ていただければ。」


 ……は?

 

 「せ、銭湯というわけではないんですが、

  その、えっと、特殊な場所なんですけれども、

  お風呂だけなら、タダで。」


 タダ。

 お風呂だけなら、タダ。

 

 激烈に興味を惹かれる。


 「そのお話、

  詳しくお聞かせ願えませんか。」


*


 茶屋町マルセルから二区画先、

 厩戸の大通りから一歩離れた、そこそこ大きな雑居ビル。

 十階建てのビルには弁護士や税理士の事務所などが入っている。

 

 「……こちらです。」

 

 ビルの正門からではなく、裏門から入り、

 鉄製のドアを開けて、管理人室からエレベーターへ。

 その、地下三階。


 ……これ、は。


 『浴場』


 「……わたしに言って頂ければ。

  水曜日と金曜日なら、稽古、ありませんから。」

 

 「稽古?」

 

 しまった、という顔をした。

 そして、頬が真っ赤に染まった。


 「ご事情がおありなら、お話頂かなくても。」

 

 「……いえ。

  いずれ、分かってしまうことでしょうし。

  ……ご案内します。」


 もう一度、エレベーターに戻り、

 地下二階を押す。


 歪みが、伝わってくる。

 緊張と、絶望感が。

 

 「……これ、は。」

 

 エレベーターを降りた先に、

 和風の木造建築物が、まるまると入っている。

 

 時代を感じる看板には。

 

 『明智館桃井道場』


 「……剣道場、です。」

 

 なる、ほど。

 それで、下が『浴場』なわけか。

 

 ん?

 剣道、だと?

 

 近接攻撃が、できる。


 ブタネードは、当たり前だが遠距離攻撃用だ。

 一人しかいないのに遠距離攻撃だけ持っていても意味はない。


 事実、原作では、あれだけの高性能装備なのに、

 主人公達の近接武器に簡単に壊されていた。


 あんなのを持ってるなら、近くに寄せる遥か前に

 キリングゾーンを作ってしまえば良かったのに。


 そもそも、いまの状況でブタネードに頼れるのかが分からない。

 それなら、近接攻撃を身に着けておいたほうがいい。

 原作でも刀剣使いは存在する。あまり役に立たなかったが。


 であれば。

 

 「桃井さん。」

 

 「!

  は、はい…。」

 

 やっぱり。

 彼女は、この建物の主に関係がある。

 

 「お願いがあります。」

 

 「な、なんでしょうか。」


 「水曜日と金曜日、

  手解きをして頂けませんか。」


 「……。」

 

 感じていた絶望感は、溜息に溶けた。

 少し、押せそうだ。

 

 「水曜日と金曜日は、この道場の稽古がない。

  ただ、貴方は、鍵をお持ちでおられますね。」

 

 「……。」

 

 黙っている。

 あぁ、容姿端麗な主人公、月宮雫あたりなら、

 魅力溢れる圧倒的な包容力で簡単に突破できそうなのに。


 仕方ない。

 

 「場所を御貸し頂くだけでも。」


 それだけでも相当お金が動きそうだが。

 スポーツジムで週二コースなら月六千円くらい。

 

 「……。」

 

 黙っている。

 唇を強く噛みしめながら。

 

 事情が、ある。

 間違いなく。

 

 でも、パラメーターが低い是枝俊也には、

 接触の機会すら与えられない。

 ブサメンは、生きていること自体が有罪だから。

 

 「……無理を申しました。

  この話はなかったこ

 

 「やります。」

 

 ……ぇ。

 力強く告げた後、戸惑いが、見える。

 やっぱり取り下げたほうが

 

 「……いえ。

  こちらの話ですから。

  

  是枝さんは、私の命の恩人です。

  恩は、しっかり返させていただきます。」


 恩返し。

 会場使用料月六千円プラス入浴料三千円で、月九千円。

 講師料含めると、どうみても過剰なお返しなんだが。


*


 「……どした、お前。」

 

 寝られなかった。

 全身が、筋肉痛に喘いでいる。

 呼吸が浅くなりすぎて、止まるかと思った。

 

 いままでの運動モドキが、いかに浅く、独りよがりのものだったか。

 ……保健室でインドメタシンを塗りまくろう。

 川瀬成海に近づきたくないけど、仕方ない。

 

 「なんでも、ありません。」

 

 「どうみたってそういう顔じゃねぇわな。

  めんどくせぇことになってんじゃねぇだろうな。」

 

 「それは、まったく。」

 

 身体が悲鳴をあげてるだけ。

 誰かから暴力を振るわれたわけじゃない。


 「……ふぅ。

  嘘じゃぁなさそうだがな。

  ま、なんかあったら言え。」

 

 中学生だからか、被害者という括りだからか、

 河野時之助は、原作主人公相手よりも優しく接してくれる。

 この容姿だというのに。聖人にもほどがある。


 カレースプーンを持つ手すら震える。

 脂汗が後から後から浮かんで来る。

 全身を殴打された時でも、身体の中に支障はなかったというのに。

 

 是枝俊也は、忍耐力だけは凄まじく高い。

 恨みに替える力の源泉だが、今回は、それが発揮されない。

 俊也自身が、望んだことだから。

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