第5話


 は、突然だった。

 

 国語の授業中、

 一人の女子生徒が、唐突に、立ち上がった。


 是枝俊也は、この瞬間を予測していた。

 精神壊乱事件とまったく同じ構図だから。

 

 だからといって、

 遠隔攻撃しかできない蠅と豚のチュートリアルボスに

 何ができるわけではない。


 まして、ここはリアル世界。


 様子見を決め込もうとする是枝俊也を他所に、

 女子生徒は、目を血走らせ、譫言を呟きながら、

 ポケットに忍ばせていたナイフを抜き取る。

 

 男子の驚愕と、女子の泣き叫ぶ声が狭い教室に混ざり合う。

 刃の鈍い光を見て真っ先に教室を逃げ出す新任の科目教員。

 唖然として声も出ない多数の生徒達。


 おそらく。

 是枝俊也は、落ち着きすぎていたのだろう。

 

 狂気を顔面一杯に宿しきった女子生徒と、

 しっかり、眼が、合ってしまった。

 

 三白眼の肥満体躯。

 捻り殺して恐怖を煽るには相応しい検体。

 

 とでも思ったのか、

 女子生徒が、目を血走らせながら、

 躊躇なくナイフを振りかざしてくる。

 

 刃、一閃。

 

 幸か、不幸か。

 凶行に及んだ女子生徒は、文化部所属なのか、

 経験値ゼロ、蠅と豚のチュートリアルボスでも、

 躱せる程度の伎倆しかなかった。

 

 ただし、

 

 「ぐっ!!」

 

 二回、まで。

 

 どんな大振りであっても、どんなに目標が曖昧でも、

 切り返すスピードが異様に早ければ、

 普通の人間雑魚では、躱しようがない。


 是枝俊也の背中から発された、

 超音波の叫び声が教室中に木霊する。

 まるで、うつし世の終わりをけたたましく知らせる喇叭のように。


 しかし。

 

 是枝俊也は、出血しても、意識を止めはしない。

 刃物で襲われるのは日常茶飯事。

 ビール瓶を頭に直接ぶち当てられて昏倒したこともある。


 肩にナイフが掠ったくらい、なんということもない。

 それどころか、痛みで意識が鮮明になっていく。

 

 ナイフを構えた女子生徒は、一瞬だけ驚きを口に浮かべると、

 次の瞬間、

 

 「ウリャァァァァッ!!」

 

 やみくもにナイフを振り乱してくる。

 痛みで若干覚醒した蝿豚は、

 三日に一度の反復横跳びで鍛えた鈍重な下半身で、

 ドスドスと音を立てながら椅子と机の間を躱し続ける。

 

 文化部の狂人、対、帰宅部の蝿豚。

 まるで締まらない。

 

 狂気に満ちた女子生徒からの一方的な攻撃の波を止めたのは。

 

 「!?

  な、なんだぁっ!!」

 

 真っ先に逃げて行った

 新人教員が連れてきた体育教師。

 

 刃物を振り回していると連絡がいっていなかったのか、

 はっきりいって腰が引けている。

 

 だが。

 隙を作るには、十分だった。

 

 「プィグプレスっ!」

 

 『ぐはっ!』

 

 女子生徒に生まれた一瞬の隙を、見逃さずに済んだ。

 シンプルきわまりない当身であるが、

 奇襲攻撃としては十分な効果を生んだ。

 

 豚のグラビリティに飛ばされた女子生徒は、

 黒板の端に頭をぶつけて倒れ込んだ。


 ……

 まだ、息はしている。

 

 やれやれ。

 殺人罪は免れたか。


 手から零れ落ちたナイフを拾い上げ、体育教師に渡す。


 「確保を。」

 

 是枝俊也の一言で、教師二人が弾かれたように動き出し、

 昏睡状態の女子生徒を居丈高に責めたてた。


*


 世話になりたくなど、なかったが。

 

 「あら。

  英雄って、是枝君だったの。」

 

 肩の皮膚だけが切れている程度だが、出血が激しい。

 一枚しかない制服をクリーニングに出さなければならなくなる。

 時之助でなくても、ため息をつきたくなる。

 

 ……って。

 えい、ゆう?

 

 「なんですか、それは。」

 

 「とぼけても駄目よ。

  科目担任が逃げ出したのに、

  ナイフを持った相手に一歩も引かずに応戦したんですって?」

 

 あれを応戦と言って良いか。

 ノーシード同士の、誰も見ない一回戦に過ぎなかったろうに。

 

 「病院、予約しておいたから。

  ちゃんと行ってね。」

 

 ……蓬町のJL、か。

 その必要は、ない。

 十重二十重に。

 

 「この程度であれば、止血すれば事足りるかと。」

 

 「あら。

  喧嘩慣れしてるの?」

 

 「微塵も。」

 

 一方的に暴力を振るわれる状態を、喧嘩とは定義しない。

 

 「……そう。

  そうね、じゃあ、止血をしてあげる。

  それでいい?」

 

 部屋に帰れば、一人でできなくはない。

 ただ。

 

 「お願いします。」

 

 この申し出を断るのは不自然すぎる。

 目をつけられる行動は、なるべく控えるべきだ。

 出血を収めるのは大事だ。主に制服クリーニングの観点から。

 補修費は絶対に払えない。


 川瀬成海が取り出したのは、ごく普通の消毒薬と包帯。

 中身をすり替えていないのであれば、悪いことにはならないだろう。

 ゲーム的設定から言えば大いにありえそうではあるが、

 この行動は、是枝俊也の涜神的な歪み検知センサーに引っかかっていない。

 

 「……っ。」

 

 滲み、る。

 惨たらしいくらい染み込む。

 ナイフで突き刺された時の数倍の衝撃が走る。

 一回戦消化試合といえども、アドレナリンが出ていたということだろうか。


 「あら、声は出さないのね。

  ほんと、我慢強い子ね。」


 そうではない。

 迫られていただけ。

 声を出せば、その何十倍もの打擲が来る環境では。


 「よし、できた。

  後遺症とか出るかもしれないから、

  ちゃんと大きい病院で検査して貰うのよ。いい?」

 

 労わるような優し気な声。

 保健室の天使と呼ばれるだけはある。


 ふわりとした癒し系のガワに包まれた瞳の先は、

 どうしようもなく、闇に歪んでいる。


 是枝俊也は、ただ、丁寧に頭を下げる。

 証拠など何一つ存在しない状態で、

 自分一人だけで事を構えられるわけなどない。


*


 校門を出て、茶屋町マルセルに帰ろうとした時。


 「あ、あのっ!」


 女子生徒が、是枝俊也の視界に入っている。

 転校後の自己紹介を完全に無視されたくらいだから、

 きっと人違いだ。


 「!?

  ま、待ってっ!」

 

 背丈は少し小さめ。

 髪は少し長め。

 眼は小ぶりだが、円らに輝いている。

 

 小動物のような可憐さ。


 従って、是枝俊也に関係はない。

 

 なにせ三白眼、悪相の雑魚ボスだから。

 下手に近づいて臭いとかキモイとか言われたら死ねる。

 

 心持ち歩みを早めようとした時。

 

 (っ…。)

 

 いつのまにか視界の前に、廻り込まれていた。

 見た目に寄らず、敏捷性を備えている。

 是枝俊也の反応が鈍かっただけかもしれないが。

 

 「に、逃げないで下さいっ。」

 

 可憐な顔が崩れ、泣き顔に変化する。

 まだ転校して半月も経っていないというのに、

 是枝俊也がどんな悪いことをしたというのか。

 

 謝っておこう、とりあえず。

 そして全速力で逃げよう。

 

 「ご、ご、

  ごめんなさいっ!」

 

 ……

 

 は?

 

 なぜか、謝られた。

 

 「あ、貴方を、

  た、盾にしてしまって…っ。」

 

 タテ?

 ……。

 

 あ。

 

 ……もしかして。

 あの、超音波の悲鳴を出していたのは。

 

 「どうかお気になさらないで下さい。

  たまたまですから。」

 

 「い、いえっ!

  そういうわけにはっ。」

 

 なにが、どういう。

 

 ……あ。

 今日って、確か、銭湯に入れる日だったな。

 

 「偶然とはいえ、貴方に怪我がなくて良かったイケボ

  では、失礼。」

 

 急がないと。

 週課の反復横跳びをこなせる、貴重な日だ。

 三白眼はどうにもならなくても、豚からは脱する余地がある。

 

 ほんの微かな希望くらいは持たせてほしい。

 どうせ何も変わりはしないだろうが。 


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