「誤解のないように言っておくと、ロケットを描いたのは形が簡単だからで、他に理由なんてなかった。あの瞬間までは」

 月村はそこで一旦区切りを設け、渇いた唇を水を飲んで潤した。半田は一段落着いたことを悟り、口を開く。

「そんな趣味があったなんてな。普通に犯罪行為だろ?」

「ちょっとしたライフワークだよ。でももうやめる。新しい目的ができたから」

 新しい目的とは、いわずもがな『月にラクガキする』ことだろう。しかし、それまでの話を聞いていた半田には、月の美しさこそ分かるものの、ラクガキをするほどではないように思えた。それを先回りして月村は答える。

「これも誤解のないように言っておくけど、別に俺はあの瞬間に神を見たとか、人生観が変わったとか言うつもりはない。ただ、あのお高くとまった野郎に、俺が苦しんでいるところをわざわざ覗きに来たあの野郎に、イタズラしたら面白いと思っただけだ」

「なるほどな」半田は言った。「そういう理由で俺なわけか」

 幾分かの皮肉を込めたつもりだったが、月村は少しも悪びれる様子がなかった。

「使えるものは全部使う。この計画にはお前が必要なんだ。協力してくれないなら他を当たるけど、俺はお前にぜひ協力してほしい。そうするだけの価値がある計画だと思うし、何より絶対後悔はさせない」

 月村は興奮気味に言った。若干芝居じみているのは、彼が根っからの詐欺師タイプだからというだけで、半田を騙す意図は含まれていない、はず。半田は腕時計を見つめた。そろそろ約束の時間が近づいている。

「とりあえず研究室に行っていいか?教授に怒られるのは面倒だし。すぐに済ませて夕方にまた会おう。話はそれからでもいいだろ」半田は言った。

「お前の欠点を教えてやる」と月村。

「なんだ急に」

「何事も先延ばし、つまり保留にすることだ。急いで約束するなとは、よく聞く話だけど、約束は一人じゃできない。必ず相手がいるものだ」

「なにが言いたい」

 突然、自分の欠点を非難されて、半田はいい気がしなかった。それに、半田自身は自分にそんな傾向があるとは到底信じていなかった。むしろ常に論理的に、合理的に交渉を進められるスマートな部類の人間だと自負していた。

「分からないのか?俺たちはビジネスの話をしてるんだぞ。週末を利用して熱海旅行を計画してるわけじゃない。取引相手がお前と同じくらい利口だなんて保証はどこにもないんだ」

 月村が言い終わると、食堂のドアがガチャンと閉まる音が聞こえた来た。半田がドアの方を振り向くと、鍵のかけられたドアに何人かの学生が集まり、出られないことを不審に思っている風だ。

 やられた!半田は思った。

「すまんな。お前以外に話を持っていくっていうのは嘘だ。お前以外考えられない。是が非でも協力してもらう」

 月村は優雅に水を飲んだ。彼の思惑は明らかだった。

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