第二話 ヤギくんのおはなし

「恋愛なんて嫌い……大嫌い……応援なんて絶対にいくもんか……」


 フラミンゴ色に染まった教室で、ポツンと一人、怨嗟のような声で愚痴を吐く女子生徒が一人いた。彼女は大上朱莉おおかみあかり。そう、蒼太のクラスで一番モテる女子だった。


 クラスの男子が聞けば、泣きそうなことを言っている。


「なんで私なのよ……──いるじゃん……──はほんとムカつく……バーカ、バーカ」


 朱莉は誰もいないと気を抜いているようだ。良く通る声で、朱莉はぐちぐちと文句を言っていた。明確に文句を言いたい相手がいるようで、その相手の席と思われる方向に向かって、瞼を下げてベーと舌を出していた。文句の言い方といい、舌を出す動作といい、まるで小さな子供のようだった。


(なんか、クラスで見たときは印象が違うな……)


 蒼太の薄らとした記憶の中の朱莉は、もう少し大人しかった。少なくとも今みたいに、バーカとか言うタイプには見えなかった。


 そんなことを少しだけ考えながら、蒼太は自分の席までまっすぐ歩く。普通ならその場を立ち去ったり、相手の心配をして話を聞いたりするだろう。


 しかし、蒼太はズレている。

 勉強にしか興味ない蒼太にとって、朱莉が何を言ってようがどうでもよかったのだ。


 いまだ不満の燃料を燃やす朱莉を無視して自分の席──朱莉の隣へ向かう。

 一歩一歩、近づいていくと、朱莉の声がよりはっきりと聞こえるようになった。と言っても、愚痴を吐いてることに変わりはないのだが。


「何が送っていくよ、余計なお世話だっつーの! 私のことを好きって言ってくる人も、こんな校則も全部大嫌い、バー……え?」


 教室にいるのが自分一人じゃないことに、朱莉はようやく気が付いたようだ。

 蒼太を発見するや、朱莉は幽霊に遭遇したかのように固まっている。「え、うそでしょ……」と、小さい声でつぶやく朱莉は真っ青になっていた。夢であって欲しいというような顔つきだ。

 しかしこれが現実だと認識すると、音程の狂った声で話し出した。


「ち、違うの……! こ、これは──」

 

 錯乱しているように手足をばたつかせながら、朱莉が机から立ち上がろうとしたとき。

 ドスンと、痛そうな音が響いた。バランスを崩した朱莉が、机から落ちた音だ。


「あー……大丈夫?」


 朱莉に向かって手を伸ばしながら、蒼太が声をかける。朱莉は怯えたように何度も頷くだけで、蒼太の手を取ろうとはしなかった。


「どこか痛めたのか?」


 俯いたまま、黙って首を振る朱莉。ケガはしてないようだ。


「……そう、それは良かった」


(なら、なんでコイツは立ち上がろうとしないんだ?)


 蒼太の目の前で、朱莉はいまだ俯いたままだった。

 だがケガしてないとのことなので、蒼太は放っておくことに決めた。

 目の前の朱莉よりも、これから買いに行く問題集。

 冷たいのかもしれないが、これがいつも通りの蒼太だ。


(とはいえ、俺から一つくらいアドバイスをしておくか)


 目の前の朱莉を見れば、そのまま去るのもためらうものがあった。


「独り言を話すときはもっと小さな声のほうがいいぞ。じゃ、俺は帰るから」


 最適なアドバイスをしたと言わんばかりに、どや顔を浮かべる蒼太は朱莉に背を向ける。最も、デリカシーのかけらもない余計な一言ではあったが。


「ちょ、ちょっと待って!」


 朱莉の悲鳴にも近い声が、二人だけの教室に静かに響く。足を止めて蒼太が振り返ると、立ち上がって手を伸ばす朱莉が立っていた。


 そこでようやく蒼太は、朱莉と目が合い、顔を見ることができた。


 窓からさす夕陽にきらきらと反射する艶やかなロングの髪。色は栗色に染められている。さらさらとなびく髪は、上等な動物の毛皮のようにきれいだ。クリッとしたチョコレート色の瞳は小動物にように愛らしい。

 名字のせいなのか、動物でたとえるなら犬系がしっくりくる。


(確かに、クラスのみんなが騒ぐわけだ)


 勉強にしか興味ない蒼太でさえ、一瞬、目を奪われてしまったくらいだ。

 そんならしくないことを考える蒼太を、切羽詰まった朱莉の声が中断させる。


「い、今の話き、きいて………た……?」

「恋愛が嫌いって話か? 残念ながら聞こえてたよ。というか、さっきも同じことを言ったと思うが」

「だ、だよね……あはは……どうして……」


 自嘲気味に笑う朱莉。


「どうして? そりゃあ、お前の不注意が原因だろ。あれだけ大きい声で話してたなら、嫌でも聞こえる」

「分かってるから、そんな風に正論で詰めないでよ……」


 落ち込んだ陰気な声で話す朱莉の表情は、くしゃくしゃに歪んでいる。


「そ、それで……や、八木君はさっきの話を言いふらす……の……?」

 

 ──ばらされたらどうしよう。

 ──聞かれたくなかった。


 声に出てたわけではないが、朱莉のそんな気持ちが漏れているようだった。今にも泣きそうな朱莉を見ていると、蒼太としてもなぜか悪いことをしたような気持ちになってしまう。


 思わずため息を零してしまう。すると、朱莉の肩がビクッと跳ねあがった。


「……あー、とりあえず、そんなに怖がらなくてもいい」


 蒼太は最初よりもなんとなく声をやわらげた。


「別にバラしたりしないし、今日のことは忘れるようにする。それでいいか?」


 蒼太の言葉を反復するように、朱莉は長いまつげをしばたたかせていた。そして蒼太の言ったことが理解できるや、パァーッと表情をほころばせた。しかしそれは一瞬のことで、首をぶんぶんと横に振って、朱莉は頬をパンと叩く。


「~~っ」


 気を緩めまいとしたようだが、力加減を間違ったのだろう。朱莉は痛そうに顔をゆがめていた。なんというか、隙だらけである。


 そんな朱莉を蒼太は呆れたように、半目になって見ていた。


「八木君はどうして黙っててくれるの?」

「どうしてって……?」


(理由なんて別にいらなくないか?)


 それでも強いて挙げるとするなら。


「興味がないからだよ。大上が裏で何を考えてようと、誰かの悪口を言ってても俺には関係ないから」 

「悪口って、そんな言い方しなくてもいいじゃん……」

「だけど、自分のことを好きっていう人に対して嫌いって言うのは悪口だろ?」


 蒼太の返答に、朱莉はシュンと視線を床に落とした。


「……そんな風に正論で詰めないでよ……私だってひどいこと言ってるの分かってるんだから……」


 グスッと朱莉から鼻をすする音が聞こえてきた。


「わ、悪かった……!」


 泣きそうになった朱莉を見て、蒼太は反射的に誤った。


「うん、別に悪口とかじゃないよな……うんうん、俺は分ってるぞ」


 勉強至上主義者で人を気遣えない蒼太だが、決して誰かを傷つけたいとかそんなことは思っていない。今だって、ちくりと良心が痛んでいる。


 今の朱莉に何を言うべきなのか、蒼太は考える。でも、何を言えばいいのかもよく分からなかったので、飾らない気持ちをそのまま話すことに決めた。


「あのな、大上。いいか?」


 蒼太の言葉に、朱莉が顔を上げる。


「正直、俺はお前がどうしてそんなにビクビクしてるのかが良く分からん。仮に俺がさっきのことをバラして嫌われたとしても、そんなの気にしなければいいって思う。他人が何を言っても無視しておけばよくないか?」


 蒼太の言葉は続く。


「俺は勉強が大好きだ。愛してると言ってもいい。そしてなぜか、周囲の人間はそれをおかしいと笑うが俺には関係の話だ」


 そこで言葉を区切る蒼太は一度、息を吸う。

 そして、大事なことを伝えた。


「たったそれだけのことで、俺の好きが揺らぐことがないからだ」


 『八木君』と小さく呟く朱莉の瞳はキラキラと輝いている。泣きそうになっていたのが、嘘のようだ。


「だからお前も、他人がどうこう言おうが気にしなければいい。お前にとって恋愛が嫌いって言うのが大事なら、ハッキリと言えばいい。それでも、何か言う奴がいれば関係を切ってしまえばいいんじゃないか」


(なんか途中から話がズレたような気もするけど、大丈夫そうだな)


 蒼太から見る朱莉は、血色が良くなっていたからだ。


 なお蒼太からは分からないだけで、より正確に表現するなら、彼を見る朱莉の瞳はらんらんと輝いていた。「すごい」「カッコいい」と独り言のように呟いており、まるで蒼太に憧れているようにも見える。


「そっか、そうなんだ。でも、関係を切ってしまえばいいって、極端でしょ……ふふっ」

 

 口元に手を当てながらおかしそうに朱莉は笑う。

 これでようやく解放される、そう考えた蒼太は「それじゃ、また明日」と朱莉に声をかけようとしたのだが。


「八木君ってさ、恋愛が嫌いとかっておかしいと思わないんだね? ほら、今とか特にじゃん」


  恋愛禁止の校則が撤廃されたことを言っているのだろう。


「ああ、まぁな」

「なんで?」


 息をひそめて、ジッと蒼太を見つめる朱莉。蒼太の言葉を一言一句吟味するつもりのようだ。


「なんでって……俺もお前と同じで恋愛が不要だと──」


「やっぱり、恋愛って不要だよね!」


 蒼太の言葉を遮って、朱莉が今日一番の声を張り上げる。

 興奮しているか、頬を紅潮させる朱莉は、前のめりになりながら蒼太に顔を近づけて来る。


 ここでようやく蒼太も気が付いた。

 今の話は同意するべきじゃなかったと。

 

 朱莉のこの様子だと、すぐには帰してくれないだろうということも、容易に察しがついた。


(早く新しい参考書を買って帰りたいんだけどな……)



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