第2話 岐門《くなと》伯爵家

 潮の匂いが風に運ばれてきます。せめぎ合う雲の合間から、どうにか射し込む数条の光。そんな空を凧のようにカモメが舞っていていました。


 赤い屋根の駅舎岐門駅を出て、無秩序に並んだ漁師町の入母屋屋根の木造家屋・家並みが続き、狭間にある狭い小路から、坂を登っていったところに、周囲の軒並みとはそぐわない、二階建ての洋館がぽつんと建っていました。そこは牧師館だったところを、おじい様が買い取って改装したのです。


 高名になったとしても芸術家が、創作だけで豪邸に住めるなどということは、そんなにないでしょう。この人もしかりで、音楽学校卒のおじい様は、音楽家ということになっています。ですが――

 人口五万の岐門町は明治になって、旧大名・岐門くなと伯爵家が出資した洋式牧場を中心に発展し、現在は農林水産業のほかに鉱工業・商業にも力を注いでいるところです。いわゆる地方財閥というもので、各種不動産・有価証券配当の収入で暮らしている。


「片帆様って、実はお姫様でしたのですね――」

 夕子叔母様のご案内で大部屋に入ったとき、連れの友人たちが、そんなことを言って笑っていました。


 段屋根という、小さなガラスが扇形にはめられた小窓をもつ玄関が特徴となる、十九世紀初頭・英国ジョージア王朝様式の洋館です。お年をめされた執事さんによって開けられた玄関扉の向こう側に夕子叔母様が私を待っておりました。執事さんはさらに、ピアノが聞こえてくる奥の間の扉を開けます。――私の心臓の鼓動が早くなって倒れそう。

「お久しゅうございます、おじい様……」

 グランドピアノを奏でていたその人が、とてもとても、ゆっくりと、振り向いたのです。


     *


 おじい様は岐門弘之くなと・ひろゆきといいます。

 広いお部屋の壁には洋画がいくつか飾られ、窓際には彫刻作品が並んでいました。微かに煙草の匂いがする。


 おじい様は、表情を変えずに私のところにやってくると、手を頬にあてました。

「片帆か? 母親より少し落ちるが、似ていないこともない。あの男の血が混じったのだから仕方がないことじゃが……」


 ――おじい様は父を憎んでいる。

 父親の立場からすれば、娘を奪っていった男性は認められないものなのでしょう。生前、母はお爺様の許しを得ることなく父と東京に駆け落ちして私を生んだと、叔母に伺っていました。

「初めて会った孫娘に、『瞳姉ひとみ・ねえより少し落ちる』はないでしょうに」

 夕子叔母様はかなり呆れ顔になっていました。


「片帆さん、おじい様はツンデレなのよ。貴女、気に入られたみたい」

 夕子叔母様に案内されて通された母の部屋は二階にありました。……なんというか、いかにも瀟洒なお姫様のお部屋で、パールホワイトの壁を基調に、要所を黒檀の板で飾っています。金箔を貼った古風な鏡台、ダブルサイズのベッドが置いてあり、書棚には、羊皮紙装丁されたヘッセの詩集が昔のままの状態になってありました。


     *


 昭和二(一九二七)年、三月末日、午後七時――

 これも御縁というものなのでしょうか、卒業と同時に私は、恩師が斡旋してくださいました岐門町の高等女学校に、英語教師として赴き、おじい様や夕子叔母様のご厚意により、お屋敷に同居させて戴くことになりました。

 その、おじい様が、

「今夜、浜辺で儂のピアノコンサートがある。よかったら来てくれまいか?」

 ――お断りできない。


 浜辺に臨んだコテージのベランダに、グランドピアノが置かれていて、その前には折り畳み椅子があり、御来賓の方々には代議士さんとか実業家といった、町の名士と奥方様がおいででした。

 岐門町は海岸部にあるため、北国とはいっても比較的温暖で冬場でもあまり雪は降りません。三月ともなれば梅が咲いています。とはいえ朝晩はひどく冷えます。風が止んだかわりに霜が降りてきます。

 末席に座った私は頭に毛糸の帽子、両の手に手袋をはめ、ぶるぶる震えていました。

 室内から白い燕尾服を着たおじい様がでてきて、厳かに一礼すると、お集まりになった皆様もお辞儀を返しました。

 まずはショパン「夜想曲 第20番」のジャズアレンジから始まります。

 長い指が滑らかに鍵盤を敲いている。


 聞こえるのはピアノの調べと波が砕ける音、ばかりではありません。微かに銃声と悲鳴のようなものがきこえてきます。そしてコンサートのクライマックスで、花火が打ち上がりました。

 そこでです。あ……やっぱり……。

 波間で例の禰宜ねぎさんが、長さ二メートルくらいありましょう、海棲モンスターを射殺しているではありませんか!


 あとで判ったのですけど、半漁人たちは繁殖のため人間女性をさらって孕ませるのだそうで、そうならないように禰宜さんは町の人たちと一緒に、文字通り瀬戸際で駆除なさっているのだそうです。――その証拠に、防波堤に沿った道路にはびっしりと、軍用トラックが縦列駐車をして不測の事態に備えていた。

 催しの後、町の人たちと兵隊さんたちでひっそりと、遺骸を回収するらしい。


 アンコール! アンコール!


 コンサートではお約束ですけどね。演奏後、来賓の皆様方が拍手なさっているのだけれど、気づいていらっしゃるのかしら。

 おじい様が立ち上がって一礼する。

 ――あのお、いま、気づいたのですけど、私がコンサートにお呼ばれしたのは、駆除対象の半魚人たちをおびき寄せる餌だったのではなかったでしょうか?


 禰宜さんの名は吉田兼好といい、二つ名が〝鬼撃ちの兼好〟 とおっしゃる方です。――私が勤めている岐門高等女学校の男性教師で、お隣り教室の担任でした。


     *


 横須賀鎮守府第二艦隊所属駆逐艦「峯風みねかぜ」が、岐門町沖東方三十キロ海上を哨戒中、新島が浮上していることを確認した。そのため艦長新東大佐は、大熊伍長麾下陸戦隊一個分隊十名を端艇カッターで上陸・探査させた。だが新島はふたたび海底に沈み、伍長を除く全員が行方不明となった。その伍長であるが、峯風に救助されるも、医務室から逃亡し洋上に身を投げ、やはり行方不明になった(『大日本帝国海軍極秘文書・第S020331‐2030‐0001号』より)


   ノート20240911

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