姫《おひい》先生の幻夢境

いずみ

第Ⅰ章 岐門《くなと》のほうへ

第1話 千石片帆

 私は千石片帆せんごく・かたほ――

 小学生だったころ、着物姿の母・瞳と手をつなぎ、縁のついた帽子を被ったワンピース姿で、ボンネットバスに乗り込み、多摩川上流の宿で連泊した記憶があります。


 夏の空は、青空というよりも水色に近く、もわっとしているわりに、木々の緑は明暗のコントラストが強くて印象派絵画みたいです。バスは山間の渓谷の道路を降りて、洋風の一軒家前で停車しました。

 小さな旅館を経営なさっていたご夫妻は、最近皺ができたばかりという感じです。奥様が、泊まり部屋のある二階にあがるとき、トントンとリズミカルに上って、案内してくれた先には、眼下のせせらぎを眺める欄干付窓と、床の間しか目立つものがないお部屋でした。


 昼食後、母の手を引っ張って、川原に降りて行きます浅瀬では鷺が、幅二十メートルくらい先にある向こう岸にいて、こっちをみている後をセキレイが、川原をちょこちょこと駆けて行きます。それを尻目に私たちは、くるぶしまでつかって水をかけあいました。

 そこで突然、驚いた顔をした母が、人の丈以上はありそうな川の渕を凝視して、

「ねえ、片帆、矢を射かけてみましよう」

 と切り出しました。


 母は常時弓矢を携帯している人でした。

 まずは弓道五段で師範免許をもつ母がお手本をみせます。小石は、水面を何度も跳躍して、向こう岸の茂みに消えてゆきます。

 真似する私ですが、子供なので腕の筋肉が弱く、なかなか母のようには行きません。

 私が小石を投げる間、ずっと川の渕を凝視していた母は、宿に引き返す際、拳大の石を拾って、投げつけると、ドボンという音ではなく、ゴツンと鈍い音がしました。それから母は私の両目を急にふさいで、何気なくハミングする母が、不自然に感じられました。


 ペンションに戻る途中の道で、釣りにきた知らない小父さんが、母と私に冗談半分にいいました。

「この辺の川には河童がいて小さな子をさらって行くって話がある。気をつけなさい」

「ナイス・ジョーク!」

「冗談じゃなく、実際に川遊びしていた子供がいなくなっているし、河童をみかけたことがあるって釣り仲間もけっこういる」

「はいはい」

 母の表情は、笑っていたけれど、引きつっていました。


     *


 大正十二(一九二三)年九月一日正午ごろ、巨大地震が発生、外へ出ると、モダンな浅草十二階〝凌雲閣〟が途中で折れて落ち、三十八階建てビル・常盤橋タワーが炎上しているではありませんか。


 神田にあった女子高等師範学校にいた私は先生方や上級生の誘導で、他の生徒たちと一緒に校庭にでて難を逃れることができました。自分の安全が確保されると今度は、家族のことが心配になるというものです。

 私の血筋には女系を中心に、不思議な力〝通力〟があります。


 身体から魂魄こんぱくを中空へと離脱して飛ばし、様子を見ると、丸の内のオフィスビル の商社に勤務していた父は、落ちてきた天井の下敷きになって息絶えようとしているところに、火の手が迫っているのがみえます。――でも当時の私にはなにもできなかった。

 

 木造の町屋ひしめく東京は瞬く間に火の海になり、パニックになった人々が通りに逃げて行く先々で、燃えたぎる建物の瓦礫が頭上から落ちてきて塞がれてしまい、立ち往生し、絶望のうちに地面にへたりこんでいる。煙を吸い込んで咳きこむ。涙がでる。そこに、横から強い風が吹いて、私や人々は炎にのみ込まれてゆきました。

 浅草にちかい家も業火に包まれていて、母をみつけることはできませんでした。


     *  


「片帆さん、大変だったわね」

 両親が行方不明となった震災のとき私は、十六歳でしたが、全寮制の女子高等師範学校にいて難を逃れていました。ほどなく学生寮に、北国から列車に乗って、夕子叔母様がお葬式の相談のため、面会に来てくださいました。母の妹である彼女は未婚で、母が父と結婚した後も唯一接点があった母方実家・岐門くなと家の人です。


 法要の後、夕子叔母様は北国へ戻ったのですが、その際、

「お父様のご実家の皆さんも被災して行方不明だってそうじゃない。貴女、岐門の家に来ない?」

「ありがとう、叔母様。ですが奨学金が戴けるようになりましたの。それに寮で暮らしていますしね、なんとかなりそう」


     *


 昭和元(一九二六)年・夏。

「ねえ、片帆様、来年は私たちも卒業ですわね。しばらく会えなくなるから皆でヴァカンスなさらない? ご都合はいかが?」

「よくってよ」


 この前倒し卒業旅行をどこで知ったのか、母の実家・岐門くなとの家が、「お友だちの分も旅費をだすから、ぜひ遊びにおいでなさいな」と夕子叔母様を介して、半ば強引に、申し出がありました。


 そういうわけで、〝女高師〟の最上級生・四年生になった私は、仲良しさん三人と連れだって、リュックを背負い軽装で上野駅に集合し、午後二時三十分発青森行き列車に乗った次第です。


 トランプの合間のおしゃべりで私が、

「おビールを戴けるようになりましたの」

「まあ、片帆様ったら、お可愛いですこと」

 コップ一杯飲みほしただけで、大人ぶっていた私を、ほかの三人が笑っていました。――恥ずかしい。


 C51型蒸気機関車に牽引された小豆色をしたそれは、九両編成からなる食堂車付成貨客列車で、私たちは二等客車に陣取り、あれやこれやの思い出話に花をさかせました。

 白い蒸気と黒煙を上げて軌道を駆けだす下り列車の目的地は、東京から六百キロメートル離れた場所で、十時間かかります。


 ――岐門町くなとまち――


 列車が駅に着きましたのは真夜中です。

 宿泊費を浮かせるため待合室に腰かけて数時間過ごし、四時を回る前に夜が白々と明けてまいりましたので駅舎を飛び出し、駅前商店街で一番早く開くパン屋さんをみつるや早速、アンパンと牛乳を買い、ブレックファーストにしました。

 それから港まで歩いて行き、遊覧船が動き出すというので、乗務員さんから切符を買いました。


 長さ十メートルくらいの桟橋に横付けしてある、三十人乗りの小さな白い遊覧船の渡し板を渡って乗船し、幌が駆けられたデッキにちょうど、長椅子が設置されてありましたので、腰掛けます。


 モダンガールをきどったショートカットの友人が、急に私の袖をひっぱりました。

 大きな魚が水上に跳ねるかのように、湖のなかから、謎めいた生き物が姿を現し遊覧船デッキに飛び乗ろうとしているではありませんか。人型をした生き物で、四肢の先に水掻きがあり、全身を鱗で覆われている。河童というか半漁人というかの人外生物が五体、今まさに襲い掛かって来ようとしているではありませんか!


 そのとき――

 友人の一人が安堵の表情を浮かべ、

「キティーホーク……隅田川の競艇で見たことがある。ちょっと前まで世界最速と呼ばれていたモーターボートだわ」

 ――え? 神官服? 禰宜ねぎさん?

「スミス・アンド・ウエストン」

 軍人さんをお父様にもつ友人が、聞きなれない拳銃の名を口にしました。


 旋回した直後のモーターボートから五発の銃声が鳴るや、デッキに這い上がりかけた怪物たちは次々と、海に落ちていきます。彼等の水柱があがるたびに、何も知らない遊覧船の乗客たちは大ウケです。


 いつの間にか葉巻をくわえた禰宜さんが懐中からサングラスを取り出し、

「お嬢さん方、困ったことがあったら、俺を呼んでくれ」といわんばかりに、軽く片手をあげると、ボートが速力をあげて遊覧船がいるところから離脱し、彼方に消えて行きました。

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