第21話 苦惱者 ①
『何をしてきた
何をしてきたかと自分を責める
自分を嘲ける此の自分
そして誰も知らないとおもふのか
自分はみんな知つてゐる
すつかりわかりきつてゐる
わたしをご覽
ああおそろしい──』
鼻は目敏く嗅ぎ分けた。早朝の靄に煙る山中にて、涼やかな空気の中に肉がある。人が死んでいる匂いがする。死の気配がある。
朝食前の食事と称し、時計塔に相対したオワリちゃんが眼を細めた。彼女も気が付いたのか、閉じられた扉を見据え、「カワセミさん」そう呟いた。
「共にして下さい」
「任せろ」
事態の飲み込めぬカクさんの手から車椅子のハンドルを取り、俺とオワリちゃんは境界を超えた。踏み入った先、時計塔の腹の内は粘ついて、刻々と肉を咀嚼するようである。
しかし俺達には通じない。胃酸の中を跳ね回る魚さながらに、草花の一本も生えぬ地を無言に進む。鍵のない扉を押す。ギイギイと重い音を立てて扉は開いた。
埃っぽい、肺に悪い空気が喉を汚す。
むんとした不快な、しかし慣れ親しんだ匂いが鼻を突く。
可塔綾草の死体がそこにあった。
『いけない
いけない
私に觸つてはいけない
私はけがれてゐる
私はいま地獄から飛びだしてきたばかりだ
にほひがするかい
お白粉や香水の匂ひが
あの暗闇で泳ぐほどあびた酒の匂ひが
此の罪惡の激しい樣樣なにほひが
おお腸から吐きだされてくる罪惡の匂ひ
それが私の咽喉を締める
それが私のくちびるに附着いてゐる
それから此のハンカチーフにちらついてゐる──』
「……綺麗だな」
思わず呟いた。「そうですか?」オワリちゃんが車椅子から手を離し、死体に近づいて行く。しげしげと死体を眺め、開かれたままの瞼を閉じた。
美しい死体だった。顔色は白く青ざめて、唇はとうに色を失っている。末期に空気を求めたのだろうか、口は木の虚のようにぽっかりと開けられて、底深い暗黒を思わせた。
死因は一目で判別できる。喉元に大きく穴が空き、その傷口は乾いている。大量出血によるショック死だろう。死後数時間は経っているのか、全身に硬直が始まっていた。
それでも死体は美しかった。そう感じざるを得なかった。何せこれは判別が効く。綾草が綾草と見て分かる。顔が潰れてもなく、関節がひしゃげてもなく、腹が弾けてないから内臓の匂いも薄い。
だからこれは美しい死体だった。十分に尊厳のある死体だった。
「そうでないものと比べれば」
俺の言葉に、オワリちゃんはぐるりと周囲を見渡した。
「案外、既に消化されているから、そう思うだけかも知れませんよ」
正四角形の部屋の隅に、打ち捨てられたナイフを拾って、オワリちゃんはそう言った。刀身は傷一つなく、また血痕もない。そう、この場には血が存在しない。
綾草の死体は、赤く汚れてはいるものの、血に濡れてはいない。全て乾いている。或いは食われたと言って良いのかもしれない。この時計塔は肉を食い、血を啜る。
「死体の隠蔽を目的として、この場で犯行に及んだのか……いえ」
オワリちゃんは、右手から順に、残り三つの扉を次々と開けていく。いずれも重い音を立て、埃を散らして開かれる。外気が入って来、日差しが部屋を明るませた。
次いで彼女は右の隅から伸びる階段を見つめ、その一段目をそっと撫でた。指先には埃が残る。足跡は一つも見受けられなかった。
「そもそも、誰が入れるというのでしょうか? この時計塔の中に。私とカワセミさんの二人を除いて」
「ここで殺したにせよ、運び込むにせよ、この中に入る必要があるよな」
「そして、ここは化け物の胃の中です。綾草さんも言っていましたね。『私では入れない』と。可塔花月もまた、同じく」
「つまりは」俺の言葉に、彼女は小さく頷いた。
「これは、事実上の密室殺人です。そして、犯人の最有力候補は私達です。何せ、私達だけが入れるのですから」
そう言って、オワリちゃんは困ったように笑った。
「……どうしましょう? カワセミさん」
……さて、俺はどうすべきだろうか。
『自分はまだ生きてゐる
まだくたばつてはしまはなかつた
自分はへとへとに疲れてゐる
ゆるしておくれ
ゆるしてくれるか
神も世界もあつたものか
靈魂もかねもほまれもあつたものか
此の疲れやうは
まるでとろけてでもしまひさうだ
とろけてしまへ──』
死体をそのままにして、俺達は屋敷へと戻った。未だ眠りこけている館の中に、「綾草が死んだぞ!」と叫べば、錦がばたばたと慌てたように駆け寄ってくる。
「いかがなされました。その様な事を大声で……」
「時計塔の中だ。扉は開け放している。全員を起こして見に来い」
「……まずは、私が確認してきます」
そう言って錦は駆け、暫くもしない内に汗を滲ませて戻ってきた。「花月様!」叫び向かったのは寝室だろう。遠くから怒声が響き、慌てて身支度をする音が聞こえる。
「……綾草が死んだって?」
階段から降りてきた工藤は神妙にそう言った。言いながらスーツに袖を通し、ボタンを留めている。寝癖がまだ残っている。
「何かと見間違えたのでは。死体はどこに?」
「時計塔の中だ」
「……何を馬鹿な。あそこに入れる人間はいませんよ」
「なら見に行け」
その内に花月が現れた。ジャケットを羽織り、古を共にして荒々しく歩いている。表情は険しく、一言も発さぬままに外に出る。
俺達は急いて時計塔へ向かい、開かれた扉の先、転がった綾草の死体を見つめた。花月の眉間の皺は重く深まり、古の顔色は青ざめて、殆ど死体に等しくなっている。草を踏む音が聞こえる。風来のものだった。
「父さん! 綾草は……」
「死んでいる。間違いなくな。喉に穴が空いているのが見えるだろう」
「……そんな。何があったんです」
その言葉に、ぐるりと視線が俺達を向く。それを防ぐようにカクさんが前に出るが、押しのけるように花月が言った。
「見つけたのはアンタだってな。尊神のお嬢さん」
「はい。死者の気配がしたので扉を開けたところ、綾草さんが死んでいました」
「気配、ね……。まあ、いいさ。それで……」
「死んだなんて言わないでっ!」
古が青ざめた顔でそう叫んだ。「お前、お前が、尊神が! あの子を軽々しく、そんな!」はらはらと涙が落ちた。その激情のままに彼女は境界を踏み越えようとして「やめろ!」そう花月に張り倒された。
「やめろ……。入れないだろう、俺達では」
「でも……私は反対だったのよ! 尊神を家に入れるなんて。それで一日でこんな、こんな!」
「……なあ、アンタなら入れるんだろう? 頼む。綾草をここに連れてきてくれ。あの中で腐らせるのは不憫だ」
オワリちゃんは頷いて、単身境界を踏み越えた。息を呑む音が方々から聞こえた。彼女は綾草を抱きかかえ、戻り、地面の上にそっと横たえた。
「……紛れもなく、綾草さんですね」
工藤が呟いた。「血が乾いている」花月は死体の首元を確かめ、「主人の血筋でも、この化け物は食いやがるか」そう時計塔を睨んだ。娘の敵としても、それ以上のものを恨むような眼で。
しかし、その目はそのままにオワリちゃんを睨んだ。花月は死体を抱きかかえ、オワリちゃんから遠ざけた。
「殺されたって事は、殺した奴が居るよな。死体があそこにあった以上、そいつは時計塔の中に入れる。つまり、アンタは……」
「最有力容疑者ですね」
「……はん。分かってるじゃねえか」
猜疑の眼がオワリちゃんを取り巻く。古が涙と共に怨嗟の眼を向ける。「いやいや、分かってはいるさ」努めて冷静を装うように花月は言った。
「仮にアンタが綾草を殺したとしたら、何もせず、黙っているのが最上だとな。何せ死体を見つけることが出来たのはアンタだけだ。そして死体を発見したという報告は、アンタを疑わせこそすれ、得になるものは一つとしてない」
「そう思わせることが狙いかも知れませんよ?」
「黙れ工藤大全。テメエだって殺せるだろう。お得意の置換だかの異能で、死体を移動させることだって出来る筈だ」
「それは状況が普通ならの話です。私の力があの中に及ばないのは、貴方だってよくご存じでしょう」
「……だよなあ」
花月はそこで息を吐き、空を見上げた。
「……だったら、誰に殺されたんだよ」
空に向けて、そう呟いた。
死体は美しく、日に照らされて白くある。
『何だその物凄いほど蒼白い顏は
だが實際、うつくしい目だ
此の頸にながながと蛇のやうにからみついたその腕は
ああゆるしておくれ
そして何にも言はずに寢かしておくれ
私はへとへとにつかれてゐる──』
「誰が綾草さんを殺したか」
錦に用意して貰った朝食を摂りながら、オワリちゃんはそう言った。
食堂に俺達以外の姿はない。花月と古は部屋に閉じこもり、工藤もまた、姿を消している。
トーストをナイフで切り分けつつ、オワリちゃんは続けた。
「単純に考えれば、時計塔に入れる人間が犯人です。しかし、その条件をクリアする人間は、私とカワセミさん以外に居ません」
「隠しているだけかも知れないだろう。単純に考えてな」
「単純な考えが過ぎます。ならば何故、時計塔で殺したのか? 或いは何故、時計塔に死体を遺棄したのか。血が食されるという事前情報があるのならば、殺害場所を誤魔化すという理由もあるでしょうが」
深く思案する表情で、オワリちゃんはトーストを口に含む。静寂が場に降りる。「ふむ」オワリちゃんが水を飲んだ。
「考えても分かりません。人が死んでいる以上、推理ごっこで遊んでいる暇はありません」
「そうだね。カナナナくんに答えを聞こう」
「そうですね」
それがこの場における最適解だ。カナナナくんならば、全てを見通して結論を語ってくれるだろう。
……そういう力を持った人間に、全てを押し付けて。
いいや、何を。気を病んでいるな。さっきからどうにも脳裏に木霊する詩。死体は俺に、かつての俺を思い出させる。
やめてくれと、叫びたくなる。俺は疲れている。疲れ切っている。まるで死体を通して責められているような、いいや、それは死人に対する侮辱でしかない。俺が勝手に感傷を押し付けているだけだろうが。
人の死が嫌なのではない。それが嫌と思えるほど遠くにはなかった。だからこの腕が微塵も動こうとしないのは、動きたくないからだ。情けない話だ。
もう、俺に何かを求めようとするな。内心にそう呟いた。
「電話は……カクさん、電話は」
「可塔花月様に持ち込まぬ事を条件にされまして、所持しておりません。花月様に依頼する必要がありましょう」
「じゃあ、行こう」
食べ終えた皿を昨日通りにそのままにして、俺達は寝室へと向かった。
しかし、寝室の扉は開け放され、その中には誰もいなかった。同時に騒がしく、屋敷を駆け回る音が聞こえる。俺達の後ろに足音は止まった。
「終さん、翡翠さん、可塔花月はどこに!」
「工藤か。何を慌てて」
「奴等は可塔暮鳥を尋問しようとしている!」
「地下室への階段はどこだ!」工藤はそう叫び、そして何かに気が付いたように寝室の中へと入っていった。
荒々しく部屋中を歩き回り、壁に設置された本棚をガタガタと揺する。そうして笑った。
「隠し部屋とは、随分古典的な……!」
工藤は本棚を動かした。それは扉のように開け放たれた。その先には、地下に向かう階段が薄暗く伸びている。
「オワリちゃん、抱えてくれるかい」
「勿論です」
転げるように走り出した工藤を追いかける形で、俺達は地下に降りていった。
『なんにもきいてくれるな
こんやは
あしたの朝までは
そつと豚のやうに寢かしておいておくれ
とは言へあの泥水はうまかつた
それに自分は醉つぱらつてゐるんだ
此の言葉は正しい
此のていたらくで知るがいい──』
階段を降りきった先、地下は小さな小部屋となっており、そこには扉が取り付けられていた。その扉を囲む形で花月と古、そして工藤が物を言い合っている。
「貴方達は、事もあろうに可塔暮鳥を疑っているわけだ。自らが封じた人を! 馬鹿げていると思いませんか? 彼女に何が出来るというのです」
「尊神終が時計塔に入れるように、あれも中に入れるのだ。ならば話を聞くくらい不思議ではないだろう」
「いいや! おかしな事です。彼女の潔白は貴方達こそがよくよく知悉しているはずだ。何せ貴方達によって、彼女はここから出られなくなったのですから」
どうにも話を聞くに、あの扉の向こうに可塔暮鳥なる人間がいるらしい。それで花月は参考人として話を聞こうとし、そして工藤は、何故か知らないが懸命に暮鳥の潔白を叫んでいる。
しかしその叫びこそが花月の疑いを深めているようにも見える。当然だ。潔白を信じているのならば、わざわざ叫ばずとも良いだろうに、工藤は地下室まで探し当て、こうして足を運んでいる。不自然と、言ってしまえばそれだけだが、状況の特異さが猜疑に拍車をかけている。
「まあ、気持ちは分かるがね。無言に気をよくして責任をおっ被せてくる輩は大勢いるさ」
だからと言うわけではないが、仲裁するように声をかけた。厭うような眼が三人分、こちらに向けられる。特に古は殆ど殺意を向けているような物だった。
しかし、古の殺意など些末に過ぎない。花月と工藤は既に手を出そうとしていた。やめろよそういうの。すぐに相手を傷付けようとするのは野蛮人のすることだぞ。あっ、これブーメランか。
「件の隠し子がその中にいるんだろう? なら喧々諤々騒ぐ前にとっとと開け放せば良いだろうに」
「……開かないのだよ」
「なんですって? どういうことです?」
「こちら側の鍵は開けた。あちらの鍵が開かん。声もしない。どうなっている……」
はあ、と溜息に似た相槌を打つ。ああ、面倒なことになっている。あああ、俺は何に巻き込まれている?
見れば、扉には精緻な魔術式が編まれている。詳しい内容は分からんが、出入りを制限する封印の代物。外された錠にも何らかの術式はあるのだろうが、今は解除されている。
「暮鳥自身の意思で扉を封じているとすれば……いいや、なあ? 古よ、なあ、違うよな」
「ええ、ええ! あの子が綾草を、そんな、う、うう……」
「なに、何を! 開けさえすれば良いのでしょう!」
そう言って工藤が扉に手を翳す。発動される力は、件の異能という奴なのだろうが、どうにも効果を発揮しない。打ち消されているようである。より大きな力によって、彼の力は邪魔されている。
その力、その大いなるもの。見覚えがある。感じた過去があり、今がある。
俺はオワリちゃんを横目に見つめた。彼女は静かに頷いた。成程、可塔暮鳥とは碌でもない奴らしい。オワリちゃんほどではないにせよ、クソ女神に近しい物を感じる。人を超えた、人でなしの、超常の力。
ならば……そう思い、俺は腕に力を入れた。
『而も自分は猶、生きようとしてゐる
自分の顏へ自分の唾のはきかけられぬ此のくやしさ
ああおそろしい
ああ睡い
そつと此のまま寢かしておくれ──』
「……何をしたんですか?」
工藤が異様なものを見る目で扉を、そして俺を見つめる。扉は二十の断片に切り裂かれていた。一瞬にして音もなく、ただ崩れ落ちた。
「切ったのさ」
「切った? ……その格好で?」
「魔法だよ、魔法。勇者は魔法が使えるのさ」
「……発動の予兆も、残滓もない。現象だけがあるようだ。貴方は一体、何者なんですか?」
「元勇者だ。それよりも、見ろよ」
「え?」
工藤はようやく扉の先へと目を向けた。一瞬で目が見開かれた。「碌でもない。本当に碌でもない」呟きが古の絶叫に掻き消された。
物の少ない部屋の中。本棚とベッドしかない部屋の中で、女が首を吊っていた。
『だがこんなことが一體、世界にあり得るものか
自分は自分を疑ふのだ
自分は自分をさはつてみた
そして抓つて撲つてかじつてみた
確に自分だ
ああおそろしい──』
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