第20話 人間性と枷




 オワリちゃんが起きたのはきっかり二時間経ってからだった。壁掛けの振り子時計が午後六時四十五分と刻んでいる。


 ふわあと一つ伸びをして、オワリちゃんはベッドを降りた。


「お肉の気分ですね」

「成長期だなおい」


 それよりも水が飲みたかった。二時間喋りっぱなしで喉が渇いているのだ。返事はまるで無かったがな。


 しかしオワリちゃんは喉の渇きよりも腹の減りの方が大事らしく、急いて車椅子を押し廊下を歩んだ。緋色の絨毯が車輪をくるくると回らせて、その挙動に一欠片の違和感も覚えさせないでいる。


 階段に至り、上ったときと同じように、カクさんが嫌そうな顔をして車椅子を抱える。そんな顔を浮かべるのはオワリちゃんが俺を抱えるからだろう。細腕に見合わぬ膂力はどこから来るものか。その答えを俺は知っているし、彼女も知悉しているはずだ。


 行き着いた食堂にて、「まだ早いわよ」と綾草は苦笑と共に俺達を迎えた。テーブルクロスが敷かれた長テーブルには八つの椅子があり、その内、上座から四番目の位置に綾草は座っていた。


 綾草は自らの正面の席をオワリちゃんに勧めた。対して「貴方はそっち」と、俺に示されたのは扉から一番近い席である。酷くない?


「だって貴方、そもそも呼ばれていないんだもの。客人ですらないわ。席を用意しただけ感謝しなさいよ」

「あーやだやだ。俺こういうの蕁麻疹が走るわ。オワリちゃんの隣にしてくれ」

「郷に入っては郷に従うのがマナーというものですよ、囚人さん?」


 うわ出た。背後から声をかけてきたのは工藤である。そのまま工藤は綾草の隣、上座から数えて六番目の席に座った。「さあどうぞ」と右手で俺の席を示している。


「しかし律儀に出るもんだな。すっぽかすかと思ってた。だってお前失礼野郎だから」

「失礼というのが一番の失礼なのですが。しかし、仕方がないことなのです。夕食の際には全員が集まるのがルールなので」


「全員が、ねえ?」と工藤は綾草に目を向け、「ね」と綾草は笑った。含むところがあるようでぶっ殺したくなってくる。


 その内に「何だ何だ、そんなに錦の料理が気に入ったか!」と花月が古と風来を連れてやって来た。途端に食堂が騒がしくなる。この中年男は存在からして騒がしいような所があるな。


「いやさ、尊神終が逗留してくれるとは、この館も箔が付くってもんさ。ええ? どうだい古。思い出さないか、俺達の青春の時代をさ」

「ちょっと、止めて下さいよあなた」

「青春とは! いや青春とは何か? それは希望であり、理想であり、儚く散る淡い夢だ。つまりは春なんだな。青々とした春の輝きよ!」

「酔ってんの?」

「酒はこれから嗜むさ。アンタもどうだい、囚人くん?」

「くれ」

「話が分かる奴だなあ!」


 花月は大変愉快そうに笑った。そうして一番の上座に座り、続いて古が二番目に、風来が三番目に座った。こうして最後の席、俺の対面の席のみが空いている形となった。


 その席に座るべき人間は、午後七時まで数秒となってからようやく現れた。コツコツと硬質な靴音が響き、静かに扉を潜った。


「さて、これで全員揃ったわけだ」


 花月がそう言い、彼女が席に座るのを見つめていた。「高踏」と、工藤が押し殺した声で呟いたのが聞こえていた。


 印象としては影だろうか。足下から伸びる底深い影が、そのまま人の形をしている。その想念は陰鬱な面からか、それとも黒しか見えぬローブ姿からか。


 いいや、彼女は影だ。影でしか生きられぬものはみんな影だろう。裏社会や退廃の中でしか生きられないような女だ。死霊術士という話も頷けるという物だ。


「君は初対面になるのかな。右に座るのが尊神終だ。真正面の彼は……何だろうな? 囚人くんと呼んでくれ」

「人見翡翠だ。よろしく」

「おいおい、初めて名前を聞いたぞ。俺にはよろしくしてくれないのか。酒出さないぞ」

「よろしくぅ!」

「おうよろしく! てことで錦、用意しろ」


 その言葉と共に料理が運ばれてくる。白パンとたぶん子羊のローストにサラダとコーンスープである。ワゴンで一気に運ばれてきた。


「客人をもてなすには人手不足でな、食卓がごちゃつくが勘弁してくれ」

「酒は?」

「この囚人うるさいな……。忘れていたよ。錦、彼にも俺と同じものを」


 そうして錦がグラスにワインを注いでいく。上等な匂いがする。最高だなこの中年男。食い物と酒を暮れる奴は何時だって最高なのだった。


「素直にありがとう。あんた最高だ。ところでこれどうやって飲めば良い?」

「流石に知らねえよ。ということで乾杯! 誰も入れぬ時計塔に、勇敢にも挑む尊神終を祝して!」


 その言葉を待っていましたとばかりにオワリちゃんがナイフとフォークを手にする。一番に取り掛かったのは肉である。綺麗に切り分けて小さく、尚且つ素早く口に運んでいる。気に入ったようで顔を綻ばせた。


 隣では工藤がにやにやと笑いながらサラダを食している。その奥では綾草が引いた目で俺を見つめている。オワリちゃんが夢中になっている一方で、俺はまるで食えないのだった。


「カクさーん」

「終様の警護がありますので」

「オワリちゃーん」

「美味しいですねこれ。美味しいですねこれ」

「おい、誰かどうにかしてくれ」


 すると、流石に哀れに思われたのか、花月が大笑しながら「錦ぃ!」と呼びつけた。


 錦は仏頂面で俺の傍に佇み、花月の命令通りにワイングラスを傾けてくれた。美味い。ありがたい。一口飲んで「ありがとう」と素直に口にする。しかし彼は「いえいえ」と笑みの一つも浮かべず、機械的に命令をこなしていった。


 しかし、機械的な割に慣れた手つきである。人に物を食わせることに慣れた手つき。ちらと花月に目を向ければ目が合った。彼はにやにやと笑って言った。


「どうだい人見翡翠、主人の俺を差し置いて御主人様気分とは!」

「本音を言えば見目麗しいメイドさんに変わって欲しいところだが、そこはこの人も同じ事だろうから我慢するよ」

「はん。そりゃあそうだな。錦だってお前よりも、そして俺よりも、年若の美女に食事の世話をしたいところだろう」

「世話はしているんだろう? 美女かどうかは知らないが」


「そういう慣れを感じた」そう言えば、不意に食卓に静寂が降りる。カトラリーは握られたまま行き場をなくし、視線は俺だけに注がれている。


「ん、何。触れちゃいけなかったか? 隠し子か? 隠し子なのか? ずばり、この館には隠されたもう一人の子供がいた! 名推理かい?」

「……よく喋る」


 ぼそりと呟いたのは対面に座する高踏である。彼女は既に視線を逸らし、子羊肉を切り分けていた。


「そこの異能者に同じく、この館には蛮人しか居らぬのか。雄弁は銀、沈黙は金。無言こそが人として最上の行為だろう」

「悪いな、皮肉を言わせるためにあんたの品位を損ねてしまって。今のあんたは銀色に輝いているよ」

「……本当に、よく喋る」


 顰め面をして彼女は子羊肉を咀嚼した。さて、彼女の皮肉は話を途切れさせるための意図的な物か?


「なあ工藤、謎めいたお坊ちゃん、或いはお嬢さんの名前は何だと思う?」

「それが存在すると、まるで断定するように言う物ですね」

「じゃあお前に聞こう。彼か彼女は存在するか?」

「存在します」


「そのために私はここに居るのですから」そう言って工藤はカトラリーを皿に置いた。手を組んで、物語る姿勢に入っている。


「その人を解放するために、私はここを訪れたのです。そうでなければ魔法使いなどと仲良く一つ屋根の下で暮らすはずがない」

「言うなあ工藤大全。優秀な異能者には必ず魔法使いの血筋が混じっているって話だぜ」

「酷く傲慢で稚拙な風評だ。自らに代わる超人の台頭を受け入れがたく、そんな作り話まで口にする」


 工藤と花月は薄く笑いながら睨み合う。その隙に俺は錦に合図し、子羊肉を口に含む。うっめ。


「天才とは、生まれながらに人とは違うことを言います。しかし異能とは才能でしょうか? 常人が幾ら訓練しようとも手に入らぬこの力を、才能と、常人に合わせて言って良いものでしょうか?」

「だからこそ、お前達は化け物なんじゃないか? 異常な能力だから異能だ。異能者は人間ではない」

「そうとも人間などではない。私達は新人類なのです」

「このロースト肉を作った奴は誰だ! シェフを呼んでこい!」

「私でございます」

「美味いぞ!」

「お褒めに預かり、光栄でございます」

「……その点で言えば、尊神のお嬢さんなどは、その極致だろうな?」


 花月と工藤が横目で俺を睨みながらそう言った。言われたオワリちゃんは手を止め、彼らを見つめている。が、まだ口がもごもごと動いている。食べている途中だったのだ。


「人が生み出した人ではないものと言えば、尊神の終わりが象徴的だろう。それがこうやって物を食い、言葉を話すとは、俺は自分の目が信じられん」

「確かに、ですね。私達が新人類ならば、まさしく彼女は新たなる時代の神でしょう。だからこそ、不思議なのです」


 工藤はじろりと可塔一家の四人を睨んだ。オワリちゃんが急いでもごもごと口を動かしている。ゆっくりでいいぞ。その無言の視線に彼女はこくんと頷いた。


「可塔暮鳥は尊神終に届くかも知れない存在だったはず。私はそう、本人から聞きました。なのに何故、封じているのです?」

「言うなあ工藤大全。あれと恋仲だったのか?」

「な訳が。私は彼女の崇拝者です。人の身を外れた神へと捧げる献身が今なのです」


 何だかよく分からない会話をしているが、そんな事よりパンが美味い。このパンを作った奴は誰だ! と言おうと思ったら先んじて「私でございます」と言われた。製パンも出来るとか最高だよお前。


 しかし、つまらない事になってきたな。言われたとおりに羽を伸ばそうと思ったらこれである。陰謀やら思惑などはもう勘弁して欲しい。少なくとも、俺が居ないところでやってくれと言いたい。


 いや、そう言えば俺がここに来たのはオワリちゃんに連れられてきたからだっけ。そうなると諸悪の根源はオワリちゃんにあるのか……?


「……けふ」


 そんな事を思っている内に、ようやくオワリちゃんが子羊肉を飲み干した。そうして水を一口飲んでから言った。


「ごちそうさまでした」

「あら、小食なのね」


 くすくすと綾草が笑い、「それとも怒っちゃったのかしら?」と、興が削がれたような二人を見つめた。


「女の子に酷いことを言う物だから、拗ねちゃったのよ。デリカシーがないわね、二人とも」

「ふん。そう在る物にそうだと言って何が悪いというんだ。これは人間ではない」

「遺憾ながら同意しましょう。人ではないものが人の真似をしているのはよくありませんよ。そんな真似をしているから、可塔暮鳥は封じられたのです」

「なんだそれは、皮肉か?」

「皮肉ですよ。人が神を司れると、そう考える傲慢さが、何時か報復となって返ってくる」


「ふん」と花月は笑い、工藤もまた薄笑いを浮かべる。笑ってばっかりだなこいつら。内心にはどす黒い物を孕んでいるくせに。


 殺し合いが何時起きてもおかしくはない。或いは、もう既に殺し合った後なのかも知れない。嫌な嫌な雰囲気だ。


 そうともこんな場所には居られない。俺は自分の部屋に帰らせて貰おう。と錦に「ごちそうさまでした」と言った。丁度、完食したところである。オワリちゃん食うの遅いね。


「これのどこが人間じゃないと言うんだ」


 ぼそりと呟いた。成程、本能はクソ女神と同類と言っている。ならば精神こそが差異に他ならない。


 そして、努力して差異を身に付けようとするその意思こそが、人間性と呼ばれる物だろう。


「ああ、ちょっと待って?」


 そう言って俺達を引き留めたのは綾草だった。つかつかと寄ってきて、一冊の古ぼけた本をオワリちゃんに手渡した。


『風は草木にささやいた』題字は掠れ、ほとんど読めない。「暇つぶしになると思って、ねえ? 兄が私に頼んだの」振り返り、言われた先、風来は何時ものように曖昧に微笑んだ。


「ああ、人間の勝利! 父は皮肉に言ったけどね、私は貴方を尊敬するわ。それは人間性が神性に勝利しているということ!」


「人間はみな苦んでゐる

 何がそんなに君達をくるしめるのか

 しつかりしろ

 人間の強さにあれ

 人間の強さに生きろ

 くるしいか

 くるしめ

 それがわれわれを立派にする──」


 綾草は手を振って、去り行く俺達を見つめていた。




「みろ山頂の松の古木を

 その梢が烈風を切つてゐるところを

 その音の痛痛しさ

 その音が人間を力づける

 人間の肉に喰ひいるその音のいみじさ

 何が君達をくるしめるのか

 自分も斯うしてくるしんでゐるのだ──」


 部屋に戻り、暫くして、オワリちゃんは詩集を広げながらそう音読した。綾草が語った部分の続きである。


「今日一日で色々な人に会いましたね。少々気疲れしました。カワセミさんはどうでしょうか?」

「凄まじく疲れたね」

「ふふ、歩いてもいないくせに」

「嫌なんだよ、ああいう裏に何か含んでいる奴等。掌に勝手に乗せられているのは反吐が出る」


 その点で言えばこの館で好感の抱ける者は誰も居ない。いや、オワリちゃんを除いてな。カクさんはダメだ。仲間外れにしてやる。


 オワリちゃんは天蓋付きのベッドにごろごろ転がり、山村暮鳥の詩集を読んでいる。その格好は昼間のものとまるで同じ、拘束されたような姿のままだ。


「脱がねえの?」

「ふふ、脱がしたいんですか?」

「だから脱がせねえよこんな格好じゃ」


 一方で俺は拘束着のまま絨毯の上に転がっている。移動するには這うしかない。芋虫のようである。つまりは美しい蝶に化身すると! そう考えると中々に相応しい姿かもしれんな。


 オワリちゃんは詩集を枕の横に置き、じっと俺に視線を合わせた。白色の瞳が丸く輝いている。吐息を吐くように言った。


「……一体、人間性とは苦痛でしょうか?」

「苦痛を通して見えてくるものかも知れないね。何せ普段の生活に人間性は意識されない」


 たとえばそれは、惨憺たる戦場において、地獄のような災害の中において。往々にして人間性というものは……。


「……いや、人間性とはなんだ?」

「カワセミさんも分かりませんか?」

「一般的に言うならば、それは柔らかく温かい、そう、日常性と呼ぶべきものだろう。人間が自らを平均的に優良な生物と思っている以上、『人間が形作る日常らしいもの』こそが人間性の正体だ」


 しかし、人間性とはなんだ? 脳裏に疑問が反響する。何故と言うに、俺は日常を二つ知っているからだ。


 暖かな、永遠に失われた日々と、惨禍と復讐だけがあった血みどろの日々に、俺は人間性という言葉の意味を思う。それは果たして確かなるものだろうか?


「くるしみを喜べ

 人間の強さに立て

 耻辱を知れ

 そして倒れる時がきたらば

 ほほゑんでたふれろ

 人間の強さをみせて倒れろ

 一切をありのままにじつと凝視めて

 大木のやうに倒れろ──」


 オワリちゃんが続きを口ずさんだ。成程、人間性とは強さのことか。強さのことか? オワリちゃんは優しく微笑む。柔らかく、唇を動かす。


「これでもか

 これでもかと

 重いくるしみ

 重いのが何であるか

 息絶えるとも否と言へ

 頑固であれ

 それでこそ人間だ」


「それが答えか」


 一人の人間が導き出した答えがそれか。


「それが答えか?」

「気に入りませんか?」

「気に入ってはいる。だってそれは美しいからな」


 精神の強さを謳い上げるその詩は力強く耳に入った。そう思えたら、そうできたなら、きっと幸福だろう。


「翻って、私達を見るに、人間性とはなんでしょうか」


 オワリちゃんは悪戯っぽく微笑んで、俺の頬を撫でた。ああ、今はそちらの方がずっと強いんだったな。そう思い出す間もなく、彼女は顔を近づけてくる。撓垂れかかる。


 その身体の硬さ、衣服の冷たさに、ふと口にした。


「枷だろうか」

「枷、ですか」

「人間性を、人間で在り続ける精神と読み解くならば、それは精神に自ら付けた枷の事だ」


 オワリちゃんの左眼は眼帯に覆われている。のみならず、その肌が露出する隙間など顔以外に存在しない。


 その衣服が、彼女が外に出るための拘束具だと言うのならば、それを自ら受け入れた彼女の精神は、確かに人間的なものだろう。


 それは暗に、彼女は自らの神性を人ではないと思っていると言うことになる。枷を付け、名を分けた、己以外の存在と認識している。まあ、その気持ちは分からないでもないが。


「……思えばクソ女神の奴、常に全裸だったしな。羽生えて全身輝いていたけど」

「全裸は人間的ではないのでしょうか」

「それに関しては当たり前だと言える。何故なら人間のくせに全裸の奴は、露出狂の変態と呼ばれるからだ」

「成程、変態は人間ではありませんね。人間ではないからこその変態です」


 うんうんと頷いてオワリちゃんは離れた。敢えて言うのならば、そうすることが当たり前の社会であれば全裸は変態ではないが、そんな社会では全裸という言葉の意味も変わってくるだろう。


 たとえば、全裸の食人族で一人だけ入れ墨を入れていない奴は露出狂の変態である。そして俺の仲間だった……。元気にしてるかな元戦士。


「そう考えてみると、人間的な恒常性を維持するのは、日常においても中々大変なものなのかも知れないな」

「えっ、カワセミさん露出の気があるんですか? ちょっとドン引きです」

「違わい。努力の話だよ、努力」


 夕食の場で思ったことを思い出す。人間性が、そう在ろうとする努力にあるのならば、それは日常の中でも遺憾なく発揮されることだろう。


 人は堕ちようと思えば簡単に堕ちることが出来る。異世界のみならず、いや、寧ろ現代社会でこそか。今の現代社会を俺は知らないが、誘惑というものは戦場よりも平穏な街に満ちているものだろう。


「つまり、人間はみんな偉いって事だ。感動したぜ。世界を救って良かったな」

「そう思える精神は、果たして人間でしょうか」

「ははは」


 笑って誤魔化した。そんな反応にオワリちゃんが「そういえば、可塔風来が言っていた詩があったんです」と枕元から再び詩集を取り出した。


「あ? 何だっけ」

「『苦惱者』ですよ。読んでも良いですか?」

「どうぞどうぞ」


 どうせ俺はもぞもぞと蠢くことしか出来ない芋虫である。耳を塞ぐことも出来ないのだ。


 オワリちゃんは「うん」と呟き、ちらと俺を見てから読み始めた。


「……何をしてきた」


 その言葉に、一瞬で血の気が引いた。


「何をしてきた

 何をしてきたかと自分を責める

 自分を嘲ける此の自分

 そして誰も知らないとおもふのか

 自分はみんな知つてゐる

 すつかりわかりきつてゐる

 わたしをご覽

 ああおそろしい──」


 吐き気がした。顔が強ばった。それを今、突き付けられるとは思わなかった。


「やめてくれ」


 身体を屈めてやっと絞り出し、声が止まった。額には汗が滲んでいる。気持ちが悪い。


 不細工だ。今の俺は不細工だ。いや何時だってそうだろうがふざけてやがる。俺は何時だって醜悪だった。


「大丈夫ですか」


 オワリちゃんが本を閉じ、額の汗をシーツで拭った。それで消えるものではない。


「強い詩だった。本当に強い詩だった。っはは、言葉に殺されるところだったぜ」

「山村暮鳥の詩は、私は純銀もざいくしか知りませんでしたが、こんな詩も書くのですね」

「ああ、俺も今知った。ちくしょう。なんて野郎だ。こっちを教科書に載せやがれくそったれ」


 優れた詩だ。優れた詩人だ。人を殺すような文章を書ける奴は最高だよ。それを今、知りたくはなかったがな。


「成程、確かに人間の勝利だ。こういうものを書ける奴が言う強さとは、確かに人間の勝利だろう。ちくしょう汗が気持ち悪い。風呂に入りてえ」

「ふふっ、それは人間性の放棄ですか?」

「入浴とは、身体と共に心を洗うものだろう。煩雑なことを気にしてどうして心を洗える」


 うげえと溜息を吐いてもぞもぞと絨毯を這う。カクさんまだかな。彼女が風呂に入っているからこうして邪魔されることなく駄弁っていたのである。


 最初は護衛が出来ないということもあり渋っていたのだが、オワリちゃんの『くさそう』という言葉に顔を強ばらせて浴室に向かったのだった。


 と、その内に、部屋に備え付けられた浴室からカクさんが戻ってきた。メイド姿はそのままに、綺麗さっぱりである。


「私が居ない間、終様に失礼を働いていませんでしたか?」

「寧ろ俺が吐きそうになったぜ。次俺で良いよね?」

「貴方は風呂には入れませんよ。その拘束具は外せず、そして中々乾かないので」

「人間性どころか人権がないんだけど……」


 床をごろごろ転がって不満を露わにする俺を、カクさんは侮蔑の目で見ていた。


「……というか、排泄はどうしたのかというのも疑問なんですが。もしかしてその中……」

「勇者がクソなど漏らすかぁっ!」


 そんな身体的機能は早々に切っていたのである。これやると、まるで人じゃないみたいで嫌なんだけどな。


 そうして就寝の時間である。ベッドはオワリちゃんが占領し、カクさんはソファに座っている。俺は芋虫継続である。何時か蝶になることを夢見て、幸せな眠りに就くのだ。


「腹が減ってきたな。はらぺこカワセミだ」

「霞でも食べてなさい」

「ひど……」


 自らの意思で空腹にくうくうと耐えながら目を閉じる。夢は見なかった。












 翌日、時計塔の中で綾草が死んでいた。それは美しい死体だった。




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