第5話 深夜夢




 珍しく夜に起きた。


 寝床をこの地下監獄に定めてからは俺もすっかり気が抜けてしまい、たとえ昼寝をしても朝までぐっすり寝ていたのだが、どうにも今夜は違う。


 俺はそっと自室を抜け出した。脳がじりじりと冴えている。この覚醒は自動的なものだった。


 清潔で排他的な照明は消え、代わって廊下を灯しているのは常夜灯の橙色だ。ぽつぽつと道標のように置かれた光は、光というのに仄温かく闇に沈んでいるようでさえある。


 スタスタと、スリッパの軽い摩擦音だけが響く。


 人の気配はしない。いや、人の気配がしないだけだ。


「……ああ」


 歌が聞こえる。


 詩も言葉もない、音律だけの、美しい歌が聞こえている。


 その歌を聞くと、途方もない何かを思い出す。その何かは存在しない。これまで失ってしまったものと、これから手に入るものを同時に悲しみ喜ぶような、そんな歌声。


 果たして、歌手はラウンジに踊っていた。


「……やっぱりカワセミさんには、聞こえるんですね」


 車椅子を片隅に置き、彼女は祈るように空へ両手を掲げていた。


 その両足は滑らかに伸びている。すうっと立って、自立している。


 病院服の裾から見える、悍ましいほどに真っ白な爪先が、くるりと、瞳と同じく俺を向いた。


「こんばんは、カワセミさん。こんな夜中に一体どうして?」

「気に入らない気配がしたからさ」

「私は気に入りませんか?」

「オワリちゃんは気に入っているさ。その気配が気に入らないのさ」

「貴方は私をそう呼ぶのですか?」

「それ以外にどう呼べと?」


 その返答に、「あは」と彼女は笑い、顔の左半分を覆う包帯をするすると解いた。


 その下に傷はなかった。跡すらなかった。ただ変わり行くものがあった。


 美しい白い肌。神の肉。人の身に耐えきれぬ真実の情報。俺は薄目でそれを睨み、さっと目を逸らした。


「見えますか。貴方には、私を見ることが出来ますか」

「見ないよ。俺はそれを見ない。ただ斬るだけだ」

「斬ったのですか。斬ったのなら分かるでしょう。これが何なのか」


「ねえ」彼女は甘ったるい声で近付いてくる。


「ねえ」足先は遊ぶようにカーペットを素足で踏む。


 はらはらと包帯が解け落ちる。


「これって、美しいですか? それとも悍ましいですか? この肉は、鏡に映らないものですから、誰かに聞いてみたくって」

「俺は鑑賞者として相応しくねえよ。カナナナくんじゃダメかい」

「あの子の目は過保護が過ぎますね。醜いものを界から外す。だからこそ、あの子が見る世界は、きっと美しいのでしょうけど」


 彼女の左目が闇の中に輝く。左目だけが闇の中に仄暗く青い。それは輝きが溢れる予兆、蓄光の眼だ。


 人の肉を超えて、存在の格が違う何かが、溢れ出ようとする予兆。


 やめろ。笑え。


「私、きれい? って感じかい? 悪いが口裂け女は世代が外れているんだ。そりゃ十歳も年離れてりゃ皆おじさんかも知れないけれど」

「あは。弄さないで下さいよ」


 ──するりと、胸内に腕が入り込んでくる。撓垂れかかる。肩が乗る。


 やめろ。


「貴方にとって、私とは」


 俺を見るな。


「美とは」


 先んじて天井に言う。「美とは?」悪戯っぽい笑いを忍ばせて、声が耳元に囁かれた。


「美とは、自ら立つものでなければならない」

「即ち?」

「殺してやりたいよ、お前」

「ははははは!」


 とん、と胸を押し、そのまま彼女は絨毯に転がった。おかしそうに身じろぎをして捲れた病院服の下、生白い太腿が滑らかに輝く。


「私は本質的に鏡なのかも知れません。望まれ生まれた私の姿は、しかし何人にも見ること能わず。なればこそ、真なる神威の象徴として、常世に通ずる鏡として、暗闇の中に安置される」

「暗闇にしては賑やかだと思うがね、ここは。君を捨てたのはどこの誰だい」

「父ですよ。名を尊神尊氏と」

「そいつは君の中に何を見た?」

「この世の全てとそれ以外を」

「随分と贅沢なドッペルゲンガーだ」


 鏡の中に、奴隷は奴隷と皇帝を見るだろう。皇帝は皇帝と神を見るだろう。鏡は現在と、希望に満ちた未来を映し出す。或いは過去かも知れないが、それを望むということは同じだ。


 だが、そんなものは彼女の側面どころか外縁部の一片に過ぎない。いや、だからこそか。蓄光眼は笑みに歪んで俺を見つめる。誘うように彼女は囁く。


「私はきっと、もしかして、貴方に殺されるために生まれてきた!」


 けらけらと笑って、子供のように寝転んで、女のように胸を開いている。


 嫌な、嫌な……ああ、いっそ斬ってしまおうかと思って。


 しかしここはどこだろうかと、不意にそう思った。


 戦場は遠く、群衆は俺を見ず、お姫様は居なかった。


 救うべき世界は救われて、ただ遠くにある。救世の定めは既に達成され、凱歌を声高に叫ぶ必要さえなかった。


 そうだ。俺には権利も義務も既になかった。それは捨ててきたものだった。


 だから良いんだ。救わずとも、そして救おうとも。


「いいや違うねオワリちゃん。この世に殺されるべき人間は……まあ結構いるかもしれんが、君は違う」

「繰り返しますが、貴方は私をそう呼ぶのですね」

「繰り返すが、それ以外にどう呼べと?」

「お好きなように」

「自分を分けるなよ。自分は自分でしかないんだから」

「それが勇者様の哲学ですか?」

「下手な皮肉だな。そうだと言ってやる」


「あと、元勇者だ」その言葉に、彼女は微笑んで起き上がった。


 乱れた裾を直し、髪を手櫛で整えて。


 そうして彼女は、まるで全てを忘れるかのようにお辞儀をした。


「滑稽でしたね。申し訳ありません。こんな夜にはどうしても、ついつい心が空に向かってしまって」

「今夜は満月じゃなかったはずだがな」

「かぐや姫なら良かったんですけどね? 迎えが来る気配はありません」

「貴公子は居たかのように言うじゃないか」

「酷いことを仰る。ちゃんと居ましたよ。お爺様とお婆様と貴公子と帝は、全て私の父でした」


 言いながら、彼女は一つ欠伸をし、微睡むように車椅子に座った。こぼれ落ちた包帯を掌に掬い上げ、衣装を直すように纏い始める。


「手伝って戴けます? 一人では、特に左腕が解けやすくて」

「俺は魔法と薬に頼りきりだったからな。やったことはないが、やってみよう」

「ふふふ、ありがとうございます。共同作業というわけですね」


 暗闇の中、伸ばされた左腕に包帯を巻いていく。五本の指は花弁を模すように伸ばされており、その細工は白磁の人形に似ていた。


 然るに関節の柔らかさと言えば、ついと指を沿わすだけで手折れそうな繊細さを宿し、事実、彼女は指先の加減一つにきゃあきゃあ笑って嬉しがった。傷の無い肉に包帯を巻く作業は、美術品を梱包する心境と似ていた。


 しかし、出来上がった元々の姿を見てみると、先までの艶めいた童女の笑いは闇に沈み、今や静かに微笑むだけである。オワリちゃんは囁くように言った。


「……ありがとうございます。何だか、落ち着いてしまいましたね」

「部屋まで送ろうか」

「……お願いします」


 カラカラと軽い車輪の音が廊下を転がっていく。


 ラウンジを出て、廊下を道なりに進めば4号室。真っ白な扉が開け放たれ、暗闇がぽっかりと口を開けている。


「……夜更かしをしてしまったので、明日はお昼寝をするでしょうね。明日のおやつは何でしょうか?」

「カナナナくんに聞いてから、起きているか寝ているかを決めれば良い」

「……私はカワセミさんに聞いているのですがね?」

「俺は救世主だったが、預言者でも予言者でもないんだ」

「……そうですか」


 扉の傍に腕を伸ばし、オワリちゃんは電灯を付けた。部屋が白く輝く。隅に備え付けられたベッドと、水が入ったペットボトルが数本。後は数冊の本が転がるばかりだ。


 車輪を回し、「……ふ、う」と右手で支えた身体を、そのまま投げ捨てるように彼女はベッドに転がった。包帯に包まれた左腕と両脚が動く気配はなかった。


 オワリちゃんは枕に頭を乗せ、じっと俺を見つめた。薄く微笑んだ。「美とは──」色の薄い唇が言葉を紡ぐ。銀に似た白髪が顎先に掛かっている。


「……美とは、自ら立つものでなければならないと。それは皮肉でしたか?」

「それは肉体的な意味じゃないし、あの時の君は立っていただろう。あれは単に、個人的な趣味に過ぎないよ」

「……カワセミさんの趣味は、何でしょうか?」


 そう言われ、思い起こす。


「強く、気高く、穢れなく、決して折れない何か」

「神」

「確かに強かったが気高くなかったし、この手でぶち折ってやったぜ」


 その言葉にオワリちゃんは笑った。笑って右腕を振った。「おやすみ」そう告げて、俺は後ろ手に明かりを消した。


 4号室の扉は音もなく閉まった。4号室。その下には病人の名前が。無骨な文字を闇の中に沈めている。


『尊神終』


 尊き神の、その終わり。


 嫌な、忌まわしい名前だった。


「……殺してぇなあ」


 どうしても、そう思った。



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