第60話 希望
どこまでも澄んだ暗い空に、青白く光る月。風こそないが、秋夜の空気はしんと冷えて少し肌寒い。
後宮の外れの桃園では、果実の収穫はとっくに終えているが、幹や葉からは、甘い香りが微かに漂う。
林間の少し開けた草地に仰向けになり、蒼龍は物思いに耽っていた。
人目を忍んで
あの頃の自分には、まさか二人にこんな未来が用意されているとは思いもしなかった。
「くそっ」
昼間、
『黎貴妃様が身籠られました。間違いなく
と。それからこう付け加えた。
「これはまだ、私と貴妃様、それに蒼太子しか知らない事」
「まことか、それは」
その時の俺は、随分と険しい顔をしていたに違いない。
若い頃から種無しと揶揄られ、かつ高齢の親父にまだ子が出来るということも、黎妃が子を孕んだことも、俄に信じられなかった。
そんな俺の衝撃をよそに、春明は淡々と話を続けた。
「ええ。黎貴妃様への皇帝陛下の妄執はすさまじく、彼女と他の殿方の接点はほぼありません。
彼女が帝の閨に呼ばれた時期にも符号しています」
「しかし。親父は喜寿を超えているのだぞ。その上、あれだけの好色で、子は俺のみだというのに」
「自然の摂理は分からぬものです。長い歴史においても事例はありますから」
「……あの色ボケ親父が」
親父への悪態をつきながらも、俺は明らかに動揺していた。
女は、本当に愛した者の子しか腹には宿さないという。
これまで見てきたものから、それが迷信に過ぎないことを知ってはいても、どこか黎妃に裏切られたと感じた。
無意識に爪を噛む俺に、春明は呆れてため息をついた。
「落ちつきなさい、蒼太子。貴方が今、どう考えておられるかは、解っているつもりです。
これからお話することは黙っておくつもりでしたが……
それではレイラがあまりに可哀想だ。
いいですか、蒼太子。
黎貴妃は、懐妊の事実を誰にも、皇帝にさえ言わぬと決めています。何故だか分かりますか」
「分からん、何故だ」
俺の挑発的な返事に、春明はふと悲しい眼をした。
「貴方を想ってのことですよ。
黎貴妃は今、産まれてくるのが女の子であることを、部屋に篭って祈っています」
「馬鹿な。男か女かなど、祈ったからといって何になる。
大体、それが黙っていることとどう関係あるんだ。何が俺のためになるっていうんだ!?」
「皆まで言わねば分かりませんか」
「回りくどい、はっきり言え!!」
荒げた声が周りに響くと、春明はまたため息をついた。
「あの子はね、もし産まれたのが男であれば、懐妊自体をなかったことにするつもり。貴方を確実に、次期皇帝にするために。
そのためには、例え我が子であろうと、闇に葬る覚悟なのです」
「は?
何だそれは。そもそも、黎妃の息子がなぜ俺の邪魔に
……。そういうことか」
「ようやく分かりましたか。彼女は、貴方とお父上の不仲をいつも心配しておられました。
そこへ来て、自身のご懐妊。貴方が唯一の
特に痴呆が進み、施政を側近に
絶句する俺に、春明は畳みかけてきた。
「蒼太子、どうかお聞き届け下さい。健気な彼女の願いを。
今や、思いやりのある貴方が皇帝として君臨し、良い世の中を創ることこそ、黎貴妃様の唯一の希望。
彼女だけではありません。あなたは、私や黎妃、その他の虐げられた者の希望なのです。愛する人や幸せな暮らしを邪な力で奪われた全ての」
————
その話で、俺は確信した。俺とレイラの心は、まだ繋がっていたんだと。
俺は、彼女に悪いことをした。
口では“信じている”と言いながら、俺を諦めさせようとする春明に反発しながら、どこかで、彼女を信じ切れないでいた。
情に流され、とっくに親父に心を移してしまったのではないかと疑っていた。
だが、そうではない、親父に凌辱を受け、孕まされた今でもなお、俺に心を残していてくれた。
だからこそ、余計に悔しい。結局のところ俺は、愛した女を人身御供に、今まで生き延びてきたのだ。
そして。故に俺は、彼女を諦めなくてはならない。
だって、誰よりもレイラ自身が、それを望んでいるのだから。彼女は今まで、態度でずっとそれを示唆していた。
あの夜を最後に道を違えてしまった俺たちは、ごく近くを行き交いながらも、決して交わらない世界線にある——
目尻に滲んだ涙を誤魔化すように、蒼龍は瞳を閉じた。
いつからか、俺は人前では泣けなくなった。他人に弱味を見せたくないから。
今ではもう、辺りに人が居なくても、こうして顔を隠さなければ、涙も流せない。
俺は怖い。権謀術数を使いこなし、陰謀に慣れてゆくにつれ、いつか自分が人並みの良心を失ってしまうのではないか。
猜疑心に囚われた親父や、数多の権力欲に取り憑かれた連中のように。
そして、そうなった俺は、レイラや春明の望む皇帝になど、なれないのではないか。
苦しい。
あいつらは、何故俺にそんな期待を俺に寄せるのだ。
思いやりのある、良い治世?
そんなもの、出来るものならやってみろ。
たった1人で征く王道は、あまりに過酷で____
俺の肩には重すぎる。
どこまでも澄んだ暗い空に、青白く光る月。愛しき想い出の場所で、秋夜の夜気のみを纏い、ただ一人、草枕にて眠る。
瞼に映るは去りし日の、あの娘の儚い笑い顔。
寂しい、孤独だ。誰かに傍に居て欲しい。
皇子だなんだと祭り上げられてる俺なのに、寒々しいったらない。
「……龍」
なんだ?
「……龍、
冷えた身体に、ふと小さな炎みたいな体温を感じ、蒼龍は半目を開いた。
すると、眼前に月光が金色に乱反射し、暗闇の中にキラキラと散らばった。
そんな、まさか。
「わっ!」
「うわっ、わっ!」
突然、小さな熱の塊がドサッと腹の上に落ちてきて、蒼龍は飛び起きた。
「ば、馬鹿っ、一体なにを。お前、
「あははっ、変な顔。びっくりした?」
腹の上に馬乗りになった小蘭は、突然起き上がった蒼龍に、振り落とされないように後ろに重心を移した。
「当ったり前だろ、いきなり乗っかってくる奴があるか!
……ってかお前、平気なのか?」
「ん、何が」
シレッとして、問いを受け流す小蘭に。蒼龍は軽くため息をついた。
「いや、何でもない。それより、なぜ木の上に?真夜中だぞ今。良い子はとっくに寝てる時間だ」
「私、別に良い子じゃないし」
「また減らず口を。で、本当のところはどうなんだ?
何でこんな時間にここにいたのか、お兄さんに教えなさい」
膝に乗っかった彼女を横向きに載せ替えながら尋ねると、小蘭は頬を膨らませた。
「蒼龍を待ってたの。遠征の前に来るとしたら、ここしかないと思ってたから。
知ってるよ私、もうすぐ戦に行っちゃうんでしょう」
一瞬、顔を強ばらせた蒼龍だが、すぐに表情を弛めて柔和な笑顔を造り直した。
「あ…ははは、困ったな。やっぱりお前には敵わない。
誰に聞いたんだよ、そんなこと。地獄耳の婆やか?これは、まだ公にしていない軍事の極秘事項なんだが」
「やっぱり、本当だったんだ。ねえ、どうして私に教えてくれなかったの?
このまま、会わずに行っちゃうつもりだった?蒼龍、最近私のことずっと避けてるよね」
目元を少し赤くした小蘭に、蒼龍は優しく微笑んだ。
「バカ言うなよ。なんで俺が、お前を避けるんだ。単に、準備やら政務やらで忙しかっただけだよ」
「嘘よ。
ならどうして、後宮の門番に、「私を絶対に通すな」なんて命令してたの?おかげで私、彼らとは随分仲良しになっちゃったけど」
「げっ、まさか本当に脱出しようとしてたのか」
「やっぱり。ねえなんで?」
「いやだから、それはさ」
いつしか小蘭の瞳から、隠そうともしない涙がポロポロと溢れ落ちていた。
「参ったな……泣くなよ、なあ。頼むから」
蒼龍は躊躇いがちに、金の髪を触れるか触れないかくらいでなぞった。
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